宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

発達障害と初めて言われた日

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長男の生まれた日はとんでもない嵐だった。凄い音で分娩室のガラスがきしんでいて、でもその他はあまり覚えていない。初産とはいえ難産で、私は何度も失神した様だった。

医師は義父の友人であり、義母の勧めで行った産科だったが、今ではあり得ないだろうけど、帝王切開や緊急手術の出来ない医師だった。

そうなった時は、車で40分はゆうに離れた病院から、別の医師が駆けつけるという産院だった。

 

実はその話しは私も知っていたけど、義父の友達というのはやはり狭い地域では決め手になってしまうもので、その当時は仕方ないものだった。

まさか自分はそんな目には遭わないだろうと思っていたが、思いっきり引っ掛かったわけだ。

 

 

この結構壮絶だったエピソードは、また長男の産まれた日にでも書きたいと思う。このブログが続いていたらの話しだけど(笑)

 

その壮絶だった誕生から1年半が経ち、保健所で検診を受けた時には、私は自分の仕事上の経験から長男が障害を持っていると気付いていた。

 

最初ハイハイが始まった頃、その床に付く手がどうも気になることから始まった。

手の平が伸びずに、指が曲がった状態でペタペタと音を立ててハイハイしていた。

その後始まった1人遊びが、普通のおもちゃには目もくれず、ダストボックスのフタを延々と揺らして遊んだり、同じ動きをする物にこだわって、それを何時間でも揺らしたり見ていることが多かった。

呼ばれたら一応振り向くけど、その後大人に関わろうとする事もなく、すぐ自分の世界に戻っていく。

 

1才を過ぎた頃から笑顔が消失して、「笑わん殿下」と呼ばれていた。

その頃から私は確信を持ってしまった。もう、間違いないと。

 

1才半検診に行ったとき、やはり明らかに周りの子達とは違っていた。そこで、保健婦さんに私の方から「この子、障害があります。」と言った。

保健婦さんは驚いて、「もう少し様子を見ましょう。また2才になった頃、お宅を訪問しますから。」と言われた。

多分、母親から自分の子供に障害があるなどと言ってくることは、あまりないことだろう。そういえば、ある保育士さんもやはり、自分の子供の障害に気付くのは早かったと言っていたな。

 

そして間もなく2才という時、訪問して来た保健婦さんに、明らかに発達が遅れている所をひとつひとつ申告しながら見てもらった。

保健婦さんも納得したらしく、訓練施設の紹介をされて、長男は程なくしてそこに通う事になった。

 

ところで、障害を持った子供としての道筋は少しずつ出来上がって来たものの、依然として誰からも「この子は障害児だ」と教えて貰った事がなかった。病院に行けば判定してもらえるかなと漠然と思っていても、どうすればいいのか、大きな病院はほぼ紹介状がいるし、なかなか小さな町ではこの先の行動をどうすればよいか分からずにいた。

通い始めた通園事業の訓練施設でも、当時は医師や専門家を紹介出来るようなパイプがなかった。

児童相談所に行くという方法さえ知らず、本当に障害児を育てるには、未熟な親達だった。

今は何でも自分で調べる事が出来るけれど、当時はネットなどの検索方法もなく、誰も教えてくれることもなくて、自分でどうやって調べれば良いかの分らないでいる私達の様な親達は実に多かった。

 

そんな中、旦那がラジオを聞いていて、某テレビ局が「言葉の相談」という言葉の遅れが気になる子供の相談を受け付けている事を知り、直ぐに申し込んだからと言って来た。

旦那も日々悶々としていたらしく、なぜ息子が喋れないのかを誰かにはっきりと言ってもらいたかった様だ。

 

私からは障害があるだろうと言われていて、多分そうなんだろうなと思ってはいても、何か靄がかかった様で、はっきりしない中にずっと居る様な気持ちだった様だ。

正直誰かに障害を断定された時、その覚悟も持ってくれていたのかも知れない。

それは後に分かって来ることになるが、本当に長男の障害に対しては、早く、穏やかに受け入れてくれた。

 

相談日の当日、某テレビ局に着いて受付を済ませると、子供達は一カ所に集められて保育士さんと遊んだ。

その側で三人だったか、高机の前に医師が座っていて、順番が来たらその前に進んで医師と向かい合い、どの位だったか忘れたが、結構長く話した気がする。

 

その中の女医さんがとても優しく接して下さって、子供達が遊んでいる中、遊びにならず手持ち無沙汰だった息子を見ながら「障害の入り口にいますね」と言った。

「これからずっと、成長の手助けをしていかなければなりませんから、良い医師を紹介しますよ。」

と言って、紹介状をその場で書いてくれた。

ここで初めて、それまでどうすればいいか分からなかった「専門医とつながる」という事が出来たのだ。

言われている事は本当はショックな内容だったはずだけど、それよりもこれでハッキリしたという、霧が晴れたような不思議な思いと、頼っていい人にも繋げてもらえるという安心感もあった。

悲しいというよりもスッキリしたような。それは、むしろ私よりも旦那の方が強かったみたいだ。

 

終わった後、テレビ局を出て近くの大きな公園で三人で散歩した。途中ホットドック屋さんがあって、そこで二人分買って三人で分けて食べた。

その時、公園の周りを多くの人達がジョギングしたり、学生達が並んで楽しそうに歩いていた。

その学生達を見ながら旦那は「息子にはこういう時期が来ないんだなぁ……」と思ったらしい。

それを、ほんの数日前に話してくれた。

 

後日分かったが、その女医さんは、実はとても有名な精神科医だった。

紹介してもらった医師もとても信頼出来る優しい医師で、転勤されるまでの間お世話になった。

その医師の初めての受診で「広汎性発達障害」と告げられた。

その時、まもなく3才になろうとしていた。

 

その日こそ、長男が何者であったかを告げられた様で、旦那とともにしっかりと覚悟を決めた最初の日になった気がしている。

 

 

 

 

 

戦う担当者と出会った

今回ももれなく送られて来ましたよ。

はい。長男の障害福祉サービスの更新と、支給継続の申請書かれこれ。

毎年毎年書いている書類だけど、全然慣れないし、写メ撮って毎回おなじように書けばいいものを、写メもそのうち面倒くさくてなっていつの間にか消している。

でも、書かないと受給出来ないし、ここ数日のうちに重い腰を上げて書くことにしよう。(ガンバレ、私!)

 

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福祉サービスなるものは、障害者(児)がサポートを受けるために、国と地域にその費用負担軽減と支給について申請して、支給決定が通知された後に各福祉施設等と契約、更新をする仕組みになっている。

 

 送られてくる書類は書いていても結構難しい。しかも、長男の場合は重度過ぎて、このサービスの定型では使えないことも多く、サービス内容を少し変えて欲しいという「申立書」というのを毎回書いている。

 

そもそもこの「申立書」を書くきっかけになったのは、もう10年以上も前のことで、ヘルパーさんからの依頼だった。

長男の場合、ヘルパーさんと外に出掛ける時は、それなりの訓練と経験のあるヘルパーさんが付くことになっているが、公共機関などを利用する時、車内から飛び出そうとしたり、座席のシートを剥がそうとしたり、降車時に飛び出そうとしたり、ヘルパー1人では止めきれない事態を避けたいとの相談があったからだ。

ここの自治体ではヘルパーは原則1名なので、申し立てをしてヘルパー2名体制の承諾決定をもらったのが一番最初だった。

 

長男は近くの福祉施設を利用出来ていないが、それはその重い障害ゆえに、施設側から断られてばかりだったからだ。今の施設には5年の歳月を掛けてたどり着いている。

ただ、今の施設は居住地から離れた別の区にあるので、施設の送迎車に乗ることが出来ない。だから、毎日親が送迎している。

ところが、6年程前だったか、ある時から送迎途中の車内で暴れることが多くなった。

車内でワンワン泣き出すし、運転するこちらをバシバシ叩いて来るし、突然座席シートを破りだすし、車中に乗せている物を壊しだすし……これには参った。

こちらは運転しているわけだし、対応が難しい。毎日ではないのだが、月に数回という時期があった。

でも、そういう時はたいてい精神的に調子の悪そうな時だった。朝、調子が悪いなと感じたら、覚悟して家を出なければならない。

そこで、私は役所に申し立てをした。

 

調子が悪くても、ヘルパーさんとの移動は何とか出来た。2人体制だし、やはり多少は親よりも遠慮はあるような気もする。

この自治体ではヘルパーの移動支援の場合、必ず出発点は自宅、終点も自宅でなくてはならない。例えば、家を出発して学校に送り届けるということは出来ない。だから家から福祉施設の送迎も出来ない。もちろん施設から自宅もNGだ。

それを調子が悪い時期に限って、ヘルパーさんの移動支援を使って、通所時に自宅から施設、帰宅時に施設から自宅への送迎承諾をお願いした。

 

ヘルパー2人体制はすぐ取れたのに、こちらはなかなか取れなかった。

理由は、親が送迎出来るんだから要らないでしょ、ダメなら送迎車に乗れる施設にしたらいいでしょ? って……いやいや、送迎出来ないから言ってるし、近くは受け入れがないんですってば!

 

しかし、この「申立書」について、息子のために戦ってくれた担当職員さんがいた。

 

困り果てていると、役所から担当者という人から電話があった。

なぜその事が必要なのかを聞いてきた。きっと、捲し立ててしまったに違いないのに、私が話す間一切口を挟まずに全部聞いてくれた。

声はまだ若い男性の様だったので、いわゆるペーペーの職員だなと思った。話しだけ聞いて、後は無理で〜す! と言われて終わるかと思いきや、その担当者は「上に懸け合ってみます!」と言った。

これには驚いた。耳を疑った。この担当者、自ら交渉を請け負うなどと言うなんて。

 

経過は随時報告してくれた。普通、交渉の後は決定事項の連絡だけでもいいだろうに、きっと時間が掛かってしまっていることを気にしてくれていたんだろう。

話しの中から、何度も何度も交渉してくれていた事がわかった。その中には「僕は頑張っています」というものは微塵も感じられなかった。むしろ、何度も申し訳ないと言われた。

これは戦っている、戦ってくれている! こんな人、いるんだ!

そう涙が出そうになった事もあった。

 

それでも「上の人」はハンコを押してくれなかった。それで、その担当者は考えてくれた。

本来、親の乗る車にヘルパーも同乗する事は認められていない。けれど、その内容なら押して、なんとか通りそうだと言って来た。少しはそれで役に立たないか? と聞いてきた。

調子が悪い時は、親と一緒よりもヘルパーさんだけの方がスムーズだから、出来れば親はいない状態が良いと伝えたけれど、「親の運転する自宅の車にヘルパーが同乗する」がマックスだった。

 

私は折れた訳ではない。最初の交渉からマックスに至るまでの経緯を知ってしまったから。

私は、「それ、使ってみます」と答えた。でも、担当者は「本当にいいですか?」と聞いて来た。いや、だってそれ、あなたが交渉して持って来たことでしょうに(笑)

続けて「スミマセン」と言われて、こちらも「スミマセン」と答えた。あとは長い時間戦ってくれたことに心から感謝している事を伝えた。

これからは「お役所仕事」なんて言葉は使わないことにしよう。

 

その内容ではどうやらハンコゲットで、すぐに決定通知が来た。

で、今も使っている。

昔ほど車内で暴れなくなったけど、やはり時々は修羅場がやって来る。本当のところ、その申立て内容はイマイチ使い辛いところがあり、使う頻度も少ない。しかし、もしなかったらお手上げ状態になることもあり、ないよりは断然あった方がいい。

 

今回の「申立書」にも、継続の申請のところに、「通所送迎時における介護者同伴での自家用車利用」という文言を書くことにしている。

また一年、大事に使いたい。正直、使いづらいんだけどね(笑)

 

最近、長男が宇宙語を忘れ始めている

 

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地球上で自閉症と言われている長男は、日本語はおろか地球上の言葉は全く話さない。しかも、それを頑に25年もの間続けている。

でも、宇宙語らしき言語はずっと話している。
というか、どこかと交信でもしているかのような、音の羅列や怪しい発音だ。

それを時々、小さかった次男は解説をしてくれていた。

「お兄ちゃん、お腹すいたってよ。」「お兄ちゃん、お外行きたいって。」

この子達は、多分同じ星から来ているに違いない。

 

長男の発する音は「ィヨヨヨヨヨヨ」「ギガギガギガ」「ギギャギキ、キキ」「ウッボ〜イ」「モア〜イ」などなど、何ともけったいな音ばかりだった。

特に「モア〜イ」は、「モア〜イ」と言いながら床や机に四つん這いになってツバを垂らして、よくもまぁこんな量出せるもんだと思うくらいに水溜りならぬツバ溜まりを作って遊んでいた。

それを見て、当時同居していた義母が「あっ!モアイしよる!」とあわてていたが、それを聞いて義弟が「モアイって?」と不思議そうにしていたことがちょっと笑えた。

いや、正確には「モア〜イ」ですからね(笑)。

 

長男4才の時、当時大学病院で担当だった小児精神科の先生に、言語の先生にも見てもらいませんか?と提案されて、小児科受診後に耳鼻科に回された。

その先生は割と有名な方らしかったけど、最初の印象はあまり良くなかった。というか、印象は最初で終わり。その後会うこともなかった。

訓練室のような部屋で、その先生はジッと長男を見て、「あぁ、君はそんな風に物を見るのか。」と一言いって、おもむろに私の顔を見た。

「お母さん、自閉症って知ってる?」と聞かれたので「ハイ。」と答えた。

そもそも私は独身の頃から障害を持った子ども達との関わりが多かったし、仕事でも関わって来た。

まさか自分が最重度の自閉症の子どもの親になるなんて思ってもいなかったけど。

その先生は長男を見ながらこう言った。

「この子はね、知能が低過ぎるから、一生話すことなんかないよ。」

それで、ここの受診は終わり。別に訓練もムダということで、二度と訪れることもない部屋となった。

 

でも、私は悲しくなんかなかった。むしろ関わらなくて良かったなんて思ってしまった。

何でだろう。話せなくったって不幸になんかならないという、何だか自分でもよく解らない自信(と言ってしまうとまたちょっと違うけど)みたいなものがあった。

当時から、長男の周りには長男を理解してくれる、困った時は助けてくれる人達をたくさん作りたいとの思いが一番強かったから、言葉の優先順位はそんなに高くなかった。

だからかな。家族の中で、私だけが長男のしゃべる夢を、未だに一度も見たことがない。

私はお母さん失格かなぁ・・・。

 

でも、その先生の言葉は嘘じゃなかった。むしろ大当たり!

長男はけったいな発音しかしないし、この発音が面白くて、家族みんなで一緒にけったいな音を言い合って遊ぶことが日常になっていた。

 

しかし、しかしである。

それが最近消えかかっている。いや、ほとんど無くなって来ている。

最近は「あー」の一本勝負で来るようになった。この「あー」の発音が実に感情豊かで、楽しいのか、悲しいのか、怒っているのか、「?」と思っているのか、確実に伝わってくる。

 

きっと忘れ始めている・・・気がする。宇宙語・・・。

地球生活も25年過ぎて、間もなく26年突入だから、地球に慣れて交信の必要もなくなったのかな。

 

 

そういえば、言語の先生の言葉も当たったけど、私の思ったことも外れてなかったよ。

言葉は今も話さないけど、全然不幸なんて思ったことないしね。

 

 

他の学校とは一線を画したイレギュラーな交流が生んだもの

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長男が通った養護学校(現・特別支援学校)は、公立の小学校と中学校に挟まれている。つまり、小学校と中学校、養護学校の三校が横一列に並んだ状態で建っている。

 

長男が小学校に上がる時、学校を選ぶために何校も見学に回った。市内全部の養護学校、支援級のある学校の主な所は殆ど見て回ったと思う。

その中から一校を選択するに当たって決め手になったのは、その三校間の交流と環境ののどかさだった。

特に小学校と養護学校の生徒間交流は、多分他の学校とは一線を画していた。

ほとんどの学校は授業の中でお互いの発表の交換や誕生会といった、プログラムの中で構成された大人が作ったと言ってもよい交流だったけど、この小学校と養護学校はなんとも違っていた。

 

まず驚いたのは昼休み時間だ。

チャイムとともに、小学校から養護学校に子ども達がなだれ込む。

養護学校のグランドの遊具が子ども達であふれかえり、小学校の生徒も養護学校の生徒もごちゃごちゃに混じって遊ぶ。しかも、みんな名前で呼び合っていた。

変な話し、ただ友達同士で昼休みに遊んでいるだけの光景なのに、これが養護学校の親からしてみれば、何とも言えない感激を覚える光景なわけで。

多分、世の中の障害児の親にとっては、こんな普通のことが我が子にとって遠い事のように思えるから。

でもここはそれを、ただただ普通にやっていた。

「交流」とは大人が言っているだけで、子ども達は休み時間、ただ普通に遊んでいる。

ただそれだけのこと。

 

交流授業と銘打った時間もあった。

養護学校の教室の外に穴を掘って水を溜め、小さなプールにして遊んだり、畑でひたすら穴を掘って遊んだり。

ただ授業時間なだけでやっぱり遊びだったけど、小学校の子ども達にしたら、色んな子がいるという生きた授業にはなったに違いない。

長男はちゃんと名前で呼んでもらってたし、学年は違うけど次男も小学校側から来校して、兄以外の障害を持った子達と遊んでいた。

 

これは、この地域にも大きな役割を果たしていて、遊んだ事を親達に話しくれることで親達の理解も進んでいたし、子ども達の名前も覚えてくれた。

受け入れてもらえる事がどんなに嬉しく有り難いか、そう思えることがどんなに幸せか。

 

3度目の引っ越しは、この学校の近くに越して来た。

表札をつけると、その日の内に一人の男の子、一人の女の子が訪ねて来てくれて、息子の名前を呼んでくれた。

彼らはうちの隣と斜め前に住んでいて、珍しい名前だからすぐ誰が越して来たか判ったと言ってくれた。

これは凄いことだと思ったし、息子の名前を呼んでもらった時、これからここに住むことに私自身が妙に安心したことを覚えている。

それはイレギュラーな交流のお陰に他ならない。

 

 

でも、この取り組みは双方の学校の先生方の努力なしには実現しなかったはず。

当然、先生方は休み時間であろうと見守りに回らなければならないから、大変な労力だっただろう。トラブルも避けなければならなかっただろうし。

親としては、いくら感謝しても足りないくらい。決して忘れてはいけないと思っている。

 

それから年月が経ち、少しずつ世の中が変わって来て、学校は危険な事は出来ないということなのか、先生達の勤務形態に影響を及ぼすという理由からか、交流の形が変わり始めた。

退化したというか、他の学校に近づいたというか・・・。

寂しいことだけど、特別支援学校の生徒数が息子の時代から倍に増えて、昼休み交流は厳しくなって来たんだと思う。

 

親達も少しずつ変わって来た気がする。地域で暮らすということよりも、教育、療育に力を入れることが最優先になっているのかも知れない。

それに、学校トップが変わると学校も変わってしまうことが多い。

色んなことが重なって、学校も変わっていってしまうのかな。残念だなぁ・・・。

 

今はもう昼休み交流もなくなってしまったけど、あの時間があったからこそ、長男は子ども達と地域に受け入れてもらえたし、次男は兄のことでいじめられることがなかった。

 

学校のあり方は地域にとって影響が大きい。

あの時の学校を、もう見ることは出来ないのかなぁ・・・(泣)。

 

 

 

都市高逆走の話し(車じゃない方)

私の職場の若い子が自閉症の講習会を受けて来ると言ったので、講師が誰か聞いてみると、長男の養護学校(現・特別支援学校)時代に大変お世話に・・・というか、悩ませてしまった先生だった。

割とこの地域のこの世界では有名な先生なんだけど、ウチの長男はその上を行っていて、どんなに物事を構造化しても、どんなに整理してみても、全て台無しにしてくれていた。

申し訳ないというか、ウチの自閉ちゃん、自閉症の中の定型と違うんでないの?ってくらい、自閉症の中でも変わっている。

もう、ここだけでは書ききれないからぼちぼちと・・・(笑)。

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きっと、ウチの息子の名前は忘れられないだろうから聞いてみてよと言っておいたが、やはりというか当然覚えられていて、しかももう一人の講師の先生もウチの長男をよく知っていて、(というか、障害重過ぎて有名人)名前を言った途端、「あの、都市高を逆走した子でしょう?」と逆に聞かれたそうで・・・。

 

あ、それね。

数ある武勇伝の中の一つ「都市高逆走」がトップ3あたりに入っている感じなんだそうな。

てか、料金所で捕まったので逆走まで行っていないんだけど。

 

その頃の長男は未遂も含めて日に5〜6回は家から脱走していた。

足が速いので私では追いかけられず、いつも車で追いかけていたけど、ちょっと細い路地に入り込まれると車の進入が出来なくて逃がしてしまう。

その日も同じで、見失った後私はてんで見当違いの場所を探していた。

 

暫くして私の携帯が鳴って、出ると養護学校のS先生だった。

S先生は流通センターのあるトラックや車の多い道路を、実に良い姿勢で走り去る息子を見かけて、都市高の料金所に向かって裸足で走って行く息子を止めようと、なんとその交通量の多い道路の都市高の登り口の下に自分の車を乗り捨てて、息子を自分の足で走って追いかけてくれた。

料金所で息子が御用となった所で、私に連絡をくれたようだ。

取り敢えず、逆走はしていないという事なんだけど・・・。

 

時間的にも渋滞が激化している中、S先生にも料金所にも、S先生の乗り捨てた車辺りを走る車も、都市高に入ろうとする車にも、迷惑をかけてしまった。 

私が何度も謝っている間も息子は平然としていたけど、多分マズいなとは気付いていたと思う。

S先生は料金所で息子をむんずと捕まえたまま、肩で息をして髪も乱れ、若いお姉さんなのに、その時は一気に5才年を取ったかのような疲れた姿だった。

 

私は車で追いかけていたので、車でそのまま都市高の料金所まで来てしまったが、追いかけるために家を出る時、免許証と携帯しか持って出なかったので、お金の持ち合わせがなかった。

それを料金所の職員さんに伝えると、一枚のメモ紙みたいな書き付けを渡されて、それには「未払い600円」と書いてあった。

「あの、この子、療育手帳を持ってるんですけど・・・。」と言ってみたけど、料金所の人は「あぁ、そう。これは次に通る時に払ってね。」とだけ言われたので、「はい。」と返事して、S先生にもう一度お礼を言ってからそのまま都市高に乗って家に帰った。

療育手帳は都市高料金が、本人同乗で半額になるんだけど・・・。

皆様に迷惑を掛けてしまったし、ちゃんと後日、都市高に乗った時に600円支払いました。

さすがにここで療育手帳を出して、割引してもらうのは気が引けたし。

 

ただひとつだけ、S先生の話しでは信号機が赤の時は横断歩道で止まって、青になってから渡ったとか。

命に関わると思って、何とか覚えてほしいと4年間信号を教え続けていたけど、結局理解は出来なかったと思っていた。

思わぬ所でそれをちゃんと理解出来ていたと分かって、そこだけは何だか報われた気がした。

 

どうやら、この話しが講師の先生方のトップテン上位入りだった模様。

でも、ウチでは上位はまだまだ他にもありますよ・・・。

なんせ自閉症の定型から外れた自閉ちゃんなもので(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災、あの日に熱でうなされていた私が見た風景と祈り

家族とは関係ない話しなんだけど、23年前のあの日、夜中にずっと夢を見ていた。

ネタではなくて、その夢で見たものは街が壊れていたり火事が起こっていたり、散々な風景だった。

でもそれ、予知夢なんてものではなくて、私は小さい頃から発熱して体温が高くなるとよくそんな夢を見ていたので、朝目覚めた時に「あぁ、今日は熱があるな。」と思った程度だった。実際熱は39°を超えていて、やばいなぁ・・・と思っているうちにフラフラとして立ち上がれなくなった。

そんなもうろうとした中、朝一に病院に行こうと支度しながら見たテレビの風景は、驚きとともに今も忘れられない。

あまりにも夢とそっくりだったから。

再度言うけど、私には予知夢なんて力はない。

多分、ニュース映像が衝撃的過ぎて、夢と現実がリンクした瞬間だったんだろうな。

 

当時住んでいた家の隣が救急病院で、何とか歩いて行って診てもらうと、「流行に乗ってますね。」と一言。そうだろうとは思ったけど、やっぱりインフルエンザだった。

おかげで、23年前のこの日にインフルエンザにかかったことは、震災とともに忘れることはない。

 

街の被害が報道されるに連れて、親戚や友達の住む場所が正にその倒壊や火事のまっただ中にあるとわかり、今程の安否確認の手段なんて直電くらいしかなくて、連絡するのもはばかる状態だった。

 

そんなこんなで私は一週間もの間高熱にうなされ、毎日変な夢に悩ませられながら、やっとの事で復活を果たした頃、親戚や友達の安否も伝わりだした。

 

義弟嫁の話しでは、たまたまその日疲れていて体が動かず、洗濯物をベットの側に置いていた事が幸いしたと言っていた。それがクッションになって自分は怪我せずに済んだと。何が幸いするか分らないと笑っていた。

淡路の旅館の嫁になった友人は、幸い旅館は厨房が生きていて、震災直後から炊き出しをして周りに振る舞っていたらしい。生まれたばかりの息子さんを遠く実家に預け、街のために、生きていくために頑張った。

灘区に居た友人は、アパートの隣のビルが倒壊、そのビルに寄りかかった形でアパートは倒壊を免れ、落ちた天井を何とかくぐり抜けて脱出したらしい。でも、気持ちが元気になるまでしばらく時間が必要だった様だ。

 

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大阪の友人達も、家の中も外もぐちゃぐちゃだったらしい。

でも、みんな生きていた。試練がしばらく続いても、みんな頑張っていた。

 

私は何も出来なかったかど、熱がどんどん上がる中、本当にあの時は神頼みをした。

今となっては、あの震災を神様が起こしたのか、神様が親戚と友人を救ってくれたのか分らないけど、あの時の「自分は無力だ!」という感情は、筆舌し難い始めての経験だったと思う。

 

あれからもみんな元気です。私も元気です。

元気という言葉は実は重い。

これからもみんな元気で。私も元気で。

 

 

 

参拝直前に願いが叶ってしまった件

毎年、旦那さんは十日恵比寿神社に参拝に行きます。

 そこで祈願した後、初穂料を支払って福引きを引くんですが、毎年、色んな縁起物が当たるんです。

これがお目当ての人も多いってことは、周りを歩いている人達で一目瞭然。

今まで一度も同じものが当たったことはなくて、今年は何だろ〜・・・なんて、ちょっとした楽しみになってる訳です。

 

いやいや、もちろんダイソンの掃除機とか、最新性能のノートパソコンなんて当たりませんよ。神棚に掃除機とか鎮座してたらおったまげです・・・いや、そもそも神棚に乗らないって(笑)。

本来、洋風のおしゃれな家の中に置きでもしたら、その雰囲気を瞬時にぶち壊す破壊力のあるものですよ。

 

そもそも十日恵比寿祭りは1月8日から四日間あるんですね。今日は二日目でした。

で、旦那さん、パソコン画面を見つめて悩んでいる。

 

 

「この三日間、ちょっと時間がとれないなぁ。行くとしたら今日しかないんだけど・・・。でも、仕事がなぁ・・・。」

 

 

何をおっしゃいますか、旦那さん。今日は私もおりますがな、私も一役買いましょう・・・と、行く気満々で提案してみました。

いつも横を素通りで行ったことがなかったので、一度参拝に行ってみたかったんですもん。

 

提案は受け入れられ、入念に作戦を練ることとしました。

いや、やることは単純でしたけど。

 

 

毎年、朝早くから参拝客は並び始め、長蛇の列ができるそうです。

で、私が並んでいる間、旦那さんは事務所でひと仕事終わらせ、連絡を取り合いながら私が本殿に近づいた頃、旦那さんも境内の中に入って並んでいる私と入れ替わる・・・という算段です。

 

シュミレーションは完璧でした。

 

まず、必ず「最後尾」という看板を見つけてそこに並ぶ事。

「最後尾」は参道を大きく飛び出している可能性が高く、参道に入る前に周りの道路に長い列が出来ていないか確認する事。

本殿到達までは最低でも40分は掛かるという事。

途中から参拝の列と福引きの列に別れるが、参拝の方に並ぶ事。

 

初体験の私に、くれぐれも・・・と言われて、使命を帯びて別れました。

 

斯くしてそれは実行されました。

まずは「最後尾」の看板を見つける。

ところが、参道に飛び出している列が見つかりません。しかも、どんどん先に進んでしまう。参道の中にも、列らしき列が見つからない。

あれ?あれ?もしかして列を見逃した?列って途切れないから、それはないでしょ。

進んでも進んでも見つからずキョロキョロしていると、「あった!」

遂に見つけた「最後尾」は、本殿にとっても近くにありました。その間、40分どころか4分も掛かってないし。

あわてて旦那さんに連絡しましたよ。旦那さん、当然Uターンでした。

 

いよいよ神殿近く、6列に並ぶように指示された所で旦那さん登場。サササっと入れ替わりました。

列から弾かれた形になった私。初体験ゆえ、また要らん事を考えました。

 

旦那さんは参拝もすぐ順番が来るはず。なら、今度は福引きで列に並んでおこう・・・と。

 

並んだ途端、すぐ初穂料支払いとなってしまいました。料金は二千円。財布の中を見ると、一万円札が一枚。

初穂料だから、もしかして一万そのまま納める事になるのかな?と、少々ドキドキ。

でも、ちゃんと頂きましたよ、お釣りの八千円。お釣りは八千円と三千円で予め用意されていたみたいです。

でも、初穂料なんですよね、実は・・・なんだかなぁ。

もちろん、一万納めるのは痛すぎるんですけどね。

 

その流れで、なぜかついつい福引きの列に並んでしまい、旦那さんがなかなか来ないので、「列にいるけど?」と携帯メッセージを送ると、「え?そこから出て!」と返信が来ると同時に、神社の人に手を引かれて福引きの箱にそのまま突っ込まれ、引かざる得ない状態で棒を摑みました。

 

「ますます繁盛〜!」

 

渡して下さったものは、神様や小判などの縁起物がザクザク入っている大きな升でした。

やっちまった。

旦那さんには、「これは私が貰うから、自分で引いて来て。」と送ると、にっこりマークの返信。

で、旦那さん。

「干支の皿〜!」

 

はい。旦那さんの顔を見て、交換して上げました。

干支の皿(素焼きで粉も散るという・・・)は、今、我が家の玄関にあります。

 

 

さて、後々気付いたんですが。

「最後尾」が見つからず、ミッション遂行が危ういと思った時、ずっと「最後尾」見つかりますように・・・と願って参道を歩いていたんですよね。

私、参拝前どころか、列から離れたので参拝すらせず、既に願いを叶えてしまっていたんです。

それって・・・。

 

 

皆さんにとって、よき一年になりますように。(合掌)

 

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