宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

きっと、もう一度会いたいと思うよ。

今日は整形外科に行って来ました。

 

f:id:hisakokk:20180502031659j:plain

 

まさか先月まで、自分が整形外科に通うなどとは思ってなかったよ。

だって、父の病院でも4階まで階段一気に駆け上がっていたし、仕事の放課後デイでは本気で子ども達と走り回って遊んでたからね。

腱鞘炎は徐々に重症化していったけど、膝の半月板は突然やってしまって、今は歩くことがちょっと辛い。

長男のお陰で痛みにはめっぽう強くなって、熱だって39度以上にならない限り寝ることもない私が、そもそも病院通いするなんて思ってもいなかったわけで……。

で、ヒアルロン酸の注射を打って来ました。

女優さんが顔に打つヒアルロン酸を、私は奇麗になるわけでもなく関節に痛み止めとして入れて来たわけです。

あんまり痛みも取れないけど。

 

さて、病院に実にかわいい天使のような顔をした女の子がいました。

奇声を発しながら走り回っている。

それを見守るように、いかにも絵に描いたように手を三角巾で吊った、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。

男の子は「レントゲン撮りますよ」と呼ばれていて、すごく後ろが髪引かれるようにレントゲン室に入っていった。

すぐに判った。

女の子は重度の自閉症で、男の子はその子のお兄ちゃんだなって。

 

見ていると、お母さんもそこにいたのだけれど、たぶん上手く女の子には接することができない。

でも、それは責められるようなことではなくて、お母さんにも支援が要りそうな家族だった。

お母さんは座ったまま女の子を見ていて、時々「おいでおいで」をしては女の子を抱っこして女の子の動きを制限しようとするのだけれど、女の子は接触を嫌がる傾向にあるようで、抱っこは嫌がっていた。

感覚過敏は自閉ちゃんには珍しくないことなので、その女の子もそうだろう。

それで、レントゲン室から出てきたお兄ちゃんが、女の子の手を引っ張ったり、トラブルになりそうな時に抱えてその場から離そうとしたり。

お兄ちゃん、頑張ってた。

 

女の子は受付のプレートを手に取って、嬉しそうに両手で上に掲げてくるくる回って遊んでいた。

嬉しそうな女の子の顔に私はふふっと笑っていたが、正直お兄ちゃんからすると気が気ではなかったはずだ。

かなり混んでいた病院のロビーで、何度も何度も自分の番号が電光掲示板に表示されるのを待って、確認してはため息をついていた。

たぶん自分のことよりも、早くここから家に帰りたいと思っていたのだと思う。

 

幸いなことに、案外病院内で待っている患者さん達は、さらりと受け入れているように見えた。

嫌な顔をする人はいなかったし、時々危なくないか見守る人もいた。

けれども、お兄ちゃんのため息は重なる一方。

 

そんな時代、うちにもあったよ……。

家族はそんな時、走り回るし、ため息もつく。

けれど、いつの間にかだんだん楽しむことが出来るようになってくるから不思議。

 

長男4才、お腹に次男、時は臨月に差し掛かっていた時、長男の風邪で病院に連れて行ったものの、長男は元気で走る走る!

私が受付をして診察のファイルをもらっている隙に、長男得意の脱走劇!

私、お腹抱えながらも猛ダッシュ! 

追いついて長男を片手で小脇に抱え、もう片手でファイルを持って小児科の窓口に行くと、看護師さんに言われた。

「お母さん、それは妊婦さんがすることじゃないよ!」

私はというと「スミマセ〜ン」と言いながら笑った。

なんというか、だんだんたくましくなる自分に、変に笑いがこみ上げて来たりしていた。

 

最初の頃はビクビクしていたと思う。

大きな声を出さないように、走り回らないように、人に迷惑を掛けないように……そればかりが気になって、診察どころではなかった。

けれど、そう思えば思うほど息子は大きな声を出すし、走り回るし、嫌な顔をする人だってもちろんいる。

いちいち説明なんかしていられないし、説明したって「ハイ、そうですか」とはならない。

それを積み重ねていくうちに、すっかり息子に鍛えられて、大きな声が出れば合いの手を入れて息子を笑わかせ、走り回れば一緒に走り、嫌な顔をしている人がいれば「スミマセン」と頭を下げ、繰り返し繰り返し、そしていつの間にか病院のスタッフとも顔なじみになったりする。

 

いつも思うのだけれど、息子のやらかしは大きいが、人と繋がる不思議な力も持ってたりする。

 

あの女の子の家族も、いつの日か気付くと思う。

どんなに重い障害でも、その子なりの成長がある。それを見逃さないようにしていたら、面白いことはいくらでも見つかる。

そして私の場合、息子が教えてくれて、今も凄く大事にしていることがある。

「笑顔はうつる」

ということだ。

 

笑顔を見せると、息子は必ず笑顔で返してくれる。

それに気付いてからは、それを大事にし続けている。

 

もし来世で子どもが自分にやってくるとしたら、またこの長男と次男に会いたい。

もちろん、長男は今のままでいい。

この長男と次男だから、私は大声で「ガハハ!」と笑っていられる。

 

あの病院で見かけたお兄ちゃんのため息が「ガハハ!」に変わる日が来ると信じたい。

そうなれたら来世もきっと、妹ちゃんともう一度会いたいと思うはずだよ。

 

じいちゃんが死んだ

 

f:id:hisakokk:20180430012723j:plain

 

子ども達にとってのじいちゃん、つまり、私の父が亡くなった。

映画を作れるほどの波瀾万丈な人生を歩んで、それでも何一つ自分の人生を悪く語ったこともなく、いい人生だったとたぶん言って生涯を閉じたように思う。

葬儀では、会場に入りきれないほどの人が来て下さった。

そして、父を古くから知る人は皆言った。

「お父さんは正義の人だった」

 

父は自分の生涯をノートにまとめあげていた。

凄まじい人生、戦争も体験し、戦後も人を助けるため命もいとわず、とうてい真似のできない父の人生が詰まったノートを次男にも見せた。

次男は留学のため葬儀に間に合わず、訃報を受け取って滞在していたホテルのロビーで、一晩泣き明かしたと言っていた。

このほど、無事に四十九日を執り行ったが、その日に次男も駆けつけた。

その時そのノートを手に取り、黙って読んでいた。

敢えて私は何も聞かなかった。次男の中の父が、きっとノートを介して語りかけたに違いない。

 

父は最期の最後まで意識があった。

42度の高熱が続いて、そのための痙攣が立て続けにやってきた。

その度にベッドの手すりを握りしめて絶える父を見るのは辛かった。

一番壮絶だった時間を一番長く一緒に側にいたのは私だった。

だからか、父が亡くなった後、少々脱力感から抜けられなかった。

 

けれど時間は凄いね。

人間を一番癒してくれるのは時間だと思った。

目に見える傷も、目に見えない傷も、時間が経てばちゃんと修復されていくということを知った。

 

ということで、ブログも戻って来ました。今は元気です。

 

さて、父の葬儀ではかなりしっかりしていた私。

気が張っているとはこういうことなんだろう。

そんな中、火葬場で珍事があった。

係員さんがお別れをした後、体のバランスを崩して、棺桶を安置した台の上にあったお鈴に鈴棒を落としたあげく、お鈴も台の上で転がしてしまい、お鈴の音が「かーーーん」と響いた。

しまったと思ったであろう係員さんは、かなり焦った様子で棺桶の窓を閉めようとして、その窓の蓋までも手を滑らせて「ダンっっっ!」と落とすように閉めてしまった。

静まり返ったその場にかなり大きな音で「かーーーん」と「ダンっっっ!」が響いて、笑うというより和んでしまった。

人に言わせれば意外な一面である、親父ギャグ好きの父の仕業だと思った。

直後に「今日のヒットはお鈴と窓の蓋ね! MVP!」

と私が言うと、周りも笑っていた。

きっと、父の思惑通りだ。

 

長男は父の看病から亡くなった時まで、そして葬儀から四十九日まで、全てに付き合ってくれた。

自閉症の子には、本人に訳の解らない時間の長い儀式などに付き合わせるのは負担だ、短期入所などに預けるべきだったのではないか? と言った人もいた。

けれど我が家では、家族のことは何でも教えていこうと旦那とは話している。

じいちゃんが死んだ。

それは解っていないかも知れない。けれど、そう伝えて一緒に最後を過ごそうと決めた。

けれど、長男はたぶん彼なりに理解をしていると思う。

長い儀式を、何度もあった供養を、パニックも起こさず静かに付き合って、ちゃんとじいちゃんを見送ってくれた。

昔の彼だったら、きっと長い時間は持たなかったろう。大きな声が出て、外に飛び出しただろう。

けれど、長男はじいちゃんの側にずっといてくれた。

すごくすごく愛してくれたじいちゃんを、ちゃんと見送ってくれた。

そして、それは次男も同じことだ。

じいちゃんの最期に立ち会えなかったけれど、じいちゃんは夢に現れたそうだ。

二人並んでテレビを見て、いつものように過ごして、そしてじいちゃんは消えたそうだ。

いつも通りだ。じいちゃんはいなくなっても、いつも通りに過ごしていれば、いつも通りに見守っていてくれる。

それは、姿が見えるか見えないか、それだけの差だ……そう話して、次男もまた戻っていった。

 

葬儀と四十九日は賑やかだった。なかなか会えない兄弟や親戚が集まって、父のことを語って、良い葬儀だった。

大事な人の死は、実は人を強くするのかも知れない。

悲しいのに、ちゃんと人は明日を考える力を持っていると実感することができたから。

そしてまた、いつものように暮らしていくよ。

いつものように見ててくれると思うからね。

 

f:id:hisakokk:20180430012708j:plain

 

 

次男とおばさんと大根と

f:id:hisakokk:20180303153151j:plain

 

15年程前までの話。当時は海の側のマンモス団地に住んでいた。

ご年配のご夫婦が家を建てて、空き家になってしまった前の住処を貸しに出されていて、縁があって入居したのが我が家だった。

昔の団地なので、5階建ての階段もないコンクリート造りで、いかにも高度成長期に栄えたであろう巨大団地群だったが、我が家が越して来たときは、もう住民の高齢化が問題になっていて、同時にメンテナンスにも何かと気を付けなければならない時期だった。

 

そんな団地の1階に、高齢者を差し置いて住んでいたわけで、まぁ、賃貸の契約に選択肢がそこしかなかっただけなんだけど、月1回の自治会掃除の時は、同じ階段のおば樣方に「楽でいいねぇ〜」と冗談まじりで言われていた。

そんな風に、新参者をあっけらかんと受け入れてもらったおば樣方には感謝しているし、今、どうされているかなぁ……と、これを書きながら思ったりする。

 

周りは海で囲まれていて、住んでいた棟は一番海側に建っていた。リビングから外を見ると、夜は月が昇って海面に映り込み、そこから光の筋が水面を突き抜けて、何とも美しい風景がお気に入りだった。

海岸に沿って散歩道があり、よくそこを長男と次男と三人で歩いたものだ。

 

そして我が家のお隣さん、ドアのお向かいさんだけど、そこのおばさんがいつも

「さとちゃ〜ん、お野菜採りにいくよぉ〜」

と誘ってくれていた。

団地には全ての家に畑があり、我が家のベランダの先には広大な区画整理された畑があった。

めんどくさがり屋の私は、たまにしか畑には行ってなかったが、次男はよく隣のおばさんに連れられて、一緒に畑で収穫を楽しんでいた。

時間のある高齢の方達は畑で過ごす時間が多いと見えて、次男はすっかり、母よりもしっかりとしたコミュニティーを構築していた様だ。

 

今までで一番収穫して戻って来ていたのは大根だったかな。どうやら引いて抜くのが楽しかったらしい。

毎回山のように貰って来るので、隣に顔を出して「いつもすみませ〜ん」と言うと「うちは年寄り二人だから、全部は多いのよ〜! 食べて加勢してね〜」がお決まりの文句だった。

大根をまず切って、葉っぱは塩だけで漬け物にする。他に頂いた野菜も切る、煮る、炒める、揚げる……おばさんの野菜は、次々に調理されていく。

長男はその隣で首を傾げて見ていた。

次男はその反対側で、踏み台に登って背伸びして、それをまじまじと見ながら言った。

「今度、僕のお誕生日に包丁買ってね」

「え?お料理すんの?」

「うん」

おぉ! いいねいいね、食育だね! 自分で作って食べるって、理想じゃん!

 

そう思った私は、誕生日を待たずして包丁を買ってあげた。

白いセラミックの子供用の包丁。ちょっとお高かったけどね。

 

次男は喜んで早速切ることを教えて貰い、とんでもなく楽しそうに切り出した。

おっ? 末は料理人か? と思っていると、とにかく切る切る切る! それはそれは楽しそうに大根を切りまくる!

「もういいよ」と言っても「まだ切るの!」と切り続ける。

なるほど……切った先はないのね。つまり、それは遊びだったのね。

それを長男が見ながらフフフと笑う。

長男と私が笑うと、次男は「なんで〜?」という顔をした。

あの顔が、何だか昨日のことのように思い出される。

 

まぁ私も助かったし、切りすぎた分は明日また使うとして「有り難う」と言うとご満悦の次男。

息子の遊びから生まれた料理達は、無事に我が家の食卓にのぼり「これ、さとちゃんが作ったんだよ〜」という註釈を付けると、これまた単純な旦那が感激して「さぁとぉちゃぁぁぁん!」とぎゅうっ! としていたりする。

いや、切っただけですぜ、旦那。

 

思えばおばさんの大根はよく我が家の食卓にあがっていたけれど、料理をする時は、大根を真ん中に私が立っていて、隣に長男、反対側に次男がいたんだっけ。

よく次男から「みたらし団子」のリクエストがあったけど、一緒に小麦粉をこねて、二人に丸めてもらって、私がお醤油と砂糖でからめる作業をして……鍋を前に三人並んで作っていたなぁ。いや、何をするにもそうだったと思う。

 

何てことない風景なんだけど、あの時の風景は再現しようにも出来ない。

今になって思う、あれは、本当にいい風景だったんだよなぁ。

 

そこでの暮らしが4年を過ぎようとしていた頃、次男が小学校に上がる事を機に、引っ越しを決意した。

長男の通う特別支援学校は、小学校と中学校に挟まれていて、3校横並びに建っている。交流が盛んで障害者に理解がある地域なので、次男もいじめにあわずに済むかも知れない、という理由からだった。

マンモス団地は高齢化が進んで子どもも少なかった。でも、引っ越しを決めた所は、子育てもしやすいということで子どもも多かった。

 

引っ越しする時、階段の全てのお宅に挨拶に回った。

自治会を1年満期で終わられた方に、最後の自治会費をいつものようにポストに入れた時、封筒に「1年間お疲れ様でした。有難うございました」と書いておいたのだが、「そんなに言ってくれた人は初めてだったのよぉ!」と言われて「淋しいわ、淋しいわ」と何度も繰り返して泣いて下さった。

他の階のおばさんも「今、これしかないの。持って行って」と、わかめの乾物を大量に差し出して「本当に行っちゃうの?」と泣いて下さった。

そして、お隣のおばさんにも「お野菜余っちゃう〜」と涙ぐまれた。

気付けば全階のおばさま達に泣かれてしまった〜。

これは、案外次男のコミュニティー構築の成果なのかも知れないなぁ。

 

そして、その次男も大学生になって東京で一人暮らしをするようになり、時々写メが送られて来る。そこに大根はなくても、おばさんの野菜は今もちゃんと息子の中に残っているような気がする。

 

↓ある日の次男作 in東京

 

f:id:hisakokk:20180303182045j:plain

 

 

 

 

 

 

 

長男は、太陽と水と土の保育園に通った

 

f:id:hisakokk:20180220022942j:plain

 

「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」

保育園の入園時期でもないのに、園長先生は入園許可を即決してくれた。

 

長男は障害があるゆえに、それまで訓練施設しか通った事がなかった。

施設は就学前通園施設で、親子で通わなければならない。親も訓練を受けるという機能もあってのことだろうけれど、そこで過ごすと、結局子ども達は個別指導や親と一緒にスケジュールに添って動くので、どうにも子供同士で遊ぶという場面が少ない。

そもそもコミュニケーションを取ることが苦手な子供達だから、そういう場面もなかなか作ることが難しく、子供同士のやりとりよりも先生や保護者とのやり取りばかり。

そこのところが、ずっと引っ掛かっていた。

そして、その思いが一つの保育園に結びついた。

 

その保育園は、家から車で15分くらいで自然の広がる場所にあり、オンボロの一戸建てに、更に横にプレハブが建て増しされているような園舎だった。

テレビもなく、気の利いた知育玩具なんていうのも一切なかった。

園庭には、おままごとで使うのであろう本物の食器、スコップ、バケツなど、普通に家にあるような日用品や、鍋、フライパン、おたまなどの本物の調理用具などが、子供が片付けたであろうクオリティーで置いてあった。

 

そこには障害を持った子ども達も受け入れられていて、保育内容も少し変わっていた。

保護者達は医師や弁護士、会社社長などの職業が多く、どうやらその保育理念に感銘を受けて入園を決めたということのようだった。

私も通園施設の保護者達からその保育園の噂は聞いていたし、どうにも興味が薄れず一度遊びに連れて行ってみようと思っていた。

 

長男3才の冬、入園には時期が外れていたが、アポを取って長男を連れて遊びに行ってみた。

そこで園長先生に「来春の入園も考えているので、検討して欲しい」とも伝えてみると、園長先生は「今は子供がいっぱいで、良い返事は出来ない」と言った。

実際には人数は一般の保育園からするとかなり少ない。だから、クラス分けもない。

けれど、保育理念を通すためのいっぱいいっぱいの人数だったんだろう。

長男は玄関口の庭の土を散々掘って遊んでいて、園長先生は話を止めてしばらく長男を見つめていたが、やがて私の方に顔を向けてはっきりと言って下さった。

「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」

 

かくして保育園訪問から翌日にはここの保育園生になった長男。

このスピード即決も、保育内容が少し変わっていることも、実は無認可保育園でなければ実現出来ていないもののようだった。

 

無認可保育園だから保育の質が悪い、なんて話はよく聞くが、ここは保育士さん達の士気が高く、認可保育園よりも敢えてこの保育園を選ぶ程の親達がいるのは、むしろその質が高いことを示している証拠だ。

 

長男は訓練施設に行く日以外は、毎日嫌がることもなく保育園に通った。

友達と一緒に裏山を登り、崖をよじ上って、木にも登る。

なんで子供はあんなに上を上を目指して登って行くのだろう。

お迎えに行くと、他の子供が案内してくれる。そこで私が見つけるのは、満面の笑みで木の上に座り、鳥の巣の中の小鳥のように声を出して笑っている長男の姿だ。

一本の木に鈴なりになって、子ども達が登ったり寄りかかったり下で座り込んだり……思えばこの園庭や裏山の木々は、随分と子ども達のために頑張って、根を生やして立っていてくれたんだと思う。

 

雨の上がった後にお迎えに行くと、先生が笑いながら長男の居場所を指で差す。

園庭にコンクリートなんてないから、まるで子ども達のために出来上がったかのような大きな水溜りに、キャーキャーと笑いながら浸かっていて、もう誰が誰だか分らないくらいに泥だらけになって遊んでいる。

先生は、さてと……と立ち上がって「もう少しお時間いいですか? ちょっと待ってて下さいね」と言うとお風呂場に連れて行って、長男はすっかり夜のお風呂は必要もないくらいに仕上がって戻って来た。

 

また広い園庭の真ん中に、高く土を盛って大人達が作った山があって、そのてっぺんに長男は仁王立ちし、口をはぐはぐ開けたり閉じたりしていた。

最初は何をしているのだろうと思ったけど、どうやら吹いて来る風を食べていたようだ。

 

毎日が太陽の光と水と土にまみれて遊んだ。自然の中で、子ども達の中で、なぜかいつも真ん中に長男はいた。子ども達が長男を取り囲んで遊んでくれていた。

それを見る度に、私は保育園に通う前のあの引っ掛かりを、すっかりなくせるほどの出会いを、この保育園で果たせたんだと思った。

 

しかし、そんな保育園に行政は冷たい。園とともに保護者も頑張ったが、経営の難しさから認可への道を選ばざる得なくなった。

長男の卒園の年は認可保育園として、園舎も新しく建て替えて再スタートを切ったが、多くの規制に阻まれて「危ないことはタブー」という行政指導から、山も木も崖も登れず、そこに続く道を封鎖されてしまった。

先生達は、つまらなくなったと言っていたが、それは子ども達が一番感じていただろう。

けれどやはり知育玩具など一切置くこともなく、太陽の下で、新しい園庭の砂を大人が使うスコップやシャベルで掘って水を入れ、泥だらけになって遊んでいた。

 

そうして迎えた卒園の日は、名前を呼ばれると友達が手を引いてくれて、園長先生手作りの卒園証書を受け取った。

あの日、淋しいと泣いて下さった先生方とは今も年賀状のやり取りがある。

当時の先生方の多くはもう退職されていて、その中には、現在は福祉作業所で働いている先生方もいる。

あの冒険いっぱいの保育園は今はもうないけれど、それでもあの保育理念は忘れずに、今も先生方は頑張っていらしゃると聞く。

 

そして今でも、園長先生の即決と、涙が出る程に愛情を注いで下さった先生方、仲間として受け入れてくれていた友達、あの時の太陽と水と土に、心から感謝しています。

 

f:id:hisakokk:20180223130825j:plain

 

 

うちの自閉ちゃんはディーラーがお好き

f:id:hisakokk:20180222021346j:plain

 

「普通、人力の素手では出来ないですよ」

ディーラーのエンジニアさんが感心しながら言った。

 

うちの長男は、かれこれ10年程前から割と最近まで、愛車のワイパーを素手で曲げること、そしてシートを破ってしまうという、謎のこだわりが続いた時期があった。

試しに曲がったワイパーを持って更に曲げてみたが、大人がやってもそうそう曲がるものではない。人間は持っている力の30%位しか出さないらしいけど、どうやら長男は100%に近い力を出しているようだ。

しかも、親の目を盗んでのほんの数秒で、まるで針金の番線のようにクニャっと……。

見事に「ゲッツ」したワイパーをそのままに、ディーラーまで車を走らせることの恥ずかしさったらない。他の車の中から、ぎょっとした顔が見えて来るわけで。

エンジニアさんは「お〜、今回もお見事ですねぇ。」と工具を出して来て、チャチャッと調整してくれる。しかも何回もこの状態で車を持ち込むので、何と工賃も取らず、タダで修正してくれる。なんていい人達なんだろう……。

しかも修理中の数十分の間、長男はデイーラーさんの建物の中で、優しいお姉さんたちから接待を受けて、ジュース飲み放題にご満悦だったりする。

 

 

f:id:hisakokk:20180222023943j:plain

 

ちなみにシートはこんな風に身ぐるみ剥がされた姿に。

この日は雪だったし寒そう……。

なにせ私も昔の人なので、シートのクッションの中はスプリングが入っているとばかり思っていたら、何と今はウレタン素材。知らなかった……。

変な話し、こんなことでもなければ、知らずにすんだなぁと思ったりした。

折しも車検が近付いている頃。ディーラーさんによると、これでは車検は通らないとのこと。

しかし、新車を買う余裕なんかまだないし、旦那も考えた。

もう修理は無理なので、取り替えになるものの、それも数十万掛かる。そこで、旦那はディーラーさんにダメ元で相談してみた。

シートをオークションで落とした場合でも、取り付けなんてしてもらえます?

いやいや、普通有り得ないでしょう。旦那も言ってはみたものの、断られると思っていたらしい。

それをディーラーさんは「いいですよ〜」と軽く答えた。

え? そんなんでいいんですか? マジいいんですか??

旦那、パソコンに張り付いて本当にオークションでゲットし、そのまま持ち込むと、本当に工賃だけでシートを付けてくれました。

なんていい人達なんだろう……。

家の事情を知ってるから、大丈夫ですよと有り難い言葉も頂いた。

しかもやっぱり、取り付けの間長男は、優しいお姉さんたちから接待を受けて、ジュース飲み放題にご満悦だったりする。

 

あ、ホイルもばれてますか? ハイ。ネジは外せなかったけど、一瞬でホイルカバーの端っこをぐるっと外側に曲げられて破損したので、ネジも外してホイル本体だけに……。

ちょうど台風でひっくり返った傘みたいになったので。

 

長男は車でディーラーの前を通れば指さしをして「行く!」と要求するし、夜中脱走して家から6キロ離れた誰もいないディーラーの前で警察に御用になるし、そうまでしてディーラーに行きたいのか! 

ん? まさか、ディーラーに行くために車破壊してんのか??

 

という事で、定期的に洗車をして、その間長男は優しいお姉さんたちから接待を受けて、ジュース飲み放題にご満悦になる……というルーティンを作った。

お陰で、晴れの日も、風の日も、雨の日も、雪の日も、定期的な洗車は続いている。

我が家では洗車に天候は選ばない、いや、選べない。何せ一番大事なのは、優しいお姉さんたちから接待を受けて、ジュース飲み放題にご満悦になることだから。

 

ところでこの車が一番凄いビジュアルだった時、ちょうど次男の私立高校入試があった。

入試が終わった頃、この車で迎えに行ったが、学校周辺の駐車場が満車で停められず、これは困ったと思っていると、バックミラーに次男が車目指して走って来る姿が映った。折よく信号で停車中だったので、次男は無事に乗車に成功した。

 

「よく分ったね!」と言うと「分らんわけないでしょ。」との答え。

そりゃそうだ。ワイパーはいびつだし、ホイルカバーないし。

目立ってしょうがなかった事が幸いした。

ちなみに次男がドアを開けて車に乗り込んだ瞬間、その側を歩いていた他のたくさんの受験生達の顔が、この世のものではない物を見たかのような表情になっていた(笑)

 

ところでディーラーに定期的に通うようになって、長男の車の破壊行動が減ったかと言うと、実際かなり減ったのである。完全に無くなることもなかったけど。

きっかけはエラいこっちゃではあるけれど、ディーラーさんとの良い関係は長男が作ったものだし、これからも長男がいる限りは続くだろう。

 

 

 

 

今日、次男はアメリカに行く

f:id:hisakokk:20180220002717j:plain

次男坊から「もうすぐ荷物詰め終わるよ」とLINEが来た。同時に、持参する日用品かれこれ、買い物の支出を表にして送って来た。

 

次男は大学二年生。大学受験で第一志望の大学だけ落ちた。「はやぶさが地球に帰って来る。それに関わりたいな」そう言って受けたが、希望は叶わなかった。

後期で受かった国立大学には、銀河系の権威の教授がいた。なのに、彼は私立の大学に行かせて欲しいと言って来た。

 

今の大学との縁は、地元の本屋から始まった。本屋の前で次男は二人の青年に「ここは地元で一番大きな本屋ですか?」と声を掛けられ「そうですよ」と答えたらしい。

普通だったらここで話しは終わるだろうが、何故かそこで三人世間話に発展したそうだ。

青年の一人は、地元帝国大学の大学院に通っていて、もう一人は関西の有名難関大学を卒業して就職をしたばかりと言ったらしい。

その時受験生だった息子に、受験する大学はどこかと聞いて、その全ての大学に知り合いがいるから何かあった時連絡して、と自分達の連絡先を渡してくれた。

 

それから次男は第一志望を落ち、後期に受かった国立大と、気になっていた私立大の二つの間で悩んでいた。受験した大学は、自分の夢のためにシラバスも進路も調べに調べ上げていたので、親としては懐具合から国立が助かるんだけど、それでも後悔だけはさせられないので、自分でどちらか選びなさいと言っておいた。

 

悩み抜いた次男は「私立大は地元会場で受けたから、実際大学を見に行かせて欲しい」と言って来た。旦那も私も少し驚きはしたけど、行ってくれば?と伝えると、早速、本屋で出会った青年達に連絡を取り、青年達の知り合いにも連絡を取って、次男は東京まで飛んだ。

一人大学に突撃すると、案内役を買って出てくれた学生と会い、その後は1人オープンキャンパス状態だったらしい。

突撃して来た受験生がいると噂を聞きつけて、教授達まで研究室から出て来たらしく、学びたいと思っていた宇宙物理学の教授も出て来て、大学をわざわざ案内してくれたそうだ。

研究室や望遠鏡、今後関わる宇宙探査機の話しまで、次男のために長い時間を割いて下さった。有り難い話しだ。

その後は案内してくれた学生に学食でおごってもらい、何時間も話し込んだらしい。

 

そうして、国立大学入学申請の前日、次男は私達親の前で頭を下げた。

「親不孝します。私立に行かせて下さい。銀河系ではなく、その外を研究したいです」

 

次男は最後は何でも自分で決める。だから本人は後には引けないし、引いたことがない。本当に頑固者だ。

それを知っているから反対はしなかった。通帳を覗くと、かなり泣けては来たけれど(笑)

 

 

小さい頃の次男は、よく女の子と間違えられていた。マクドナルドやファミレスで子供がもらえるおもちゃは、次男が小6位まではどの店員さんからも、迷いなく女の子用を差し出されていた。

でも、好きなものは恐竜で、見るテレビというとディスカバリーチャンネルヒストリーチャンネルがほぼメイン。どこか行きたい場所は?と聞くと、TDLとかUSJなんて思いも付かないようで「地層を見に行きたい」とキラキラの目で答えていた。おじいちゃんに貰った望遠鏡で空を眺めるのも好きだったな。

興味を持つものを並べてみれば、やっぱり男の子だなと思う。

しかも好きなことは、今の今でもブレていない。

 

そんな次男だが、生まれた時はすでに重度の自閉症の兄がいたわけで、案外苦労はしたとも思う。

そういえば次男がまだ3〜4才だった頃、玄関先で転んでしまって、鼻血を出して服を真っ赤に血に染めて大泣きしたことがある。その時、長男が脱走を図ってダッシュしたので、私は次男をそのまま置き去りに長男を追いかけ、10分後やっと捕まえて戻って来ると、次男はそのままバイオレンス状態で立ちすくんでいたっけ。

長男はいつも脱走していなくなる。夜寝る前にもよく脱走されて、私はやはり次男を置き去りにダッシュで家を出て追いかけた。

旦那は当時、仕事で毎日夜中も2時を過ぎないと帰って来れなかったので、次男は夜なのに一人置き去りにされ、一人で待っていてくれた。

外国なら、児童虐待で私は逮捕かも知れないな。でも、次男まで小脇に抱えて長男を追いかけるのは絶対ムリな話しだ。

毎日私が布団の中で絵本を2冊読んでいたので、次男は自分でパジャマに着替えて、いつものように絵本を2冊選んで、それを抱えたまま待ちながら眠ってしまっていた。

この光景は何度も何度もあった。この次男の本を抱えて眠っている光景だけは、毎回泣きそうになったし、今も切なく脳裏に残っている。

でもその時も、そして今の今までも次男は自分の兄のことを悪く言ったことがない。

いつか爆発するんじゃないかとずっと思って来たけど、ただの一度もそれがない。

ましてやいつも兄をかばって守ってくれた。

そんな次男が東京の大学に行く日、長男は空港で見送りながら、ゲートをくぐってどんどん離れて行く次男を不思議そうに眺めていた。そんな長男を展望台に連れて行き「あの飛行機に弟が乗っているよ」と言うと、黙って飛行機が飛び立っていくのを見つめていた。

 

それからというもの、長男は毎日次男がいつ帰って来るのか、カレンダーを指差して聞いて来るようになった。

長男はよく、次男にくっついたり膝枕で寝ていた。しばらくそれも出来なくなって淋しそうだった。たぶん、長男は今も次男の帰りを待っている。

 

そして今日、カレンダーを指さしながら「弟はアメリカに行くよ」と伝えた。

長男はどこまで理解出来るかは判らないが、カレンダーの上で指が止まって、私をじっと見て来た。

「勉強に行くんだよ。たった1ヶ月だよ。でも、今度会えるのはきっと、夏休みかなぁ」

そう言葉で伝えながら、私も旦那もしみじみとなってしまった。

 

次男は行く大学も、留学も、全部自分で決めた。やっぱり頑固だ。一度決めたら一直線だ。語学留学だけど、宇宙物理はトップクラスの大学だと本人が言っていた。

貫き通すことだけは誰にも負けなさそうだ。そういえば今までだって負けたことはなかった気がする。

ものごとを行う事に対してショートカットを好む旦那と、挫折は得意項目の私。次男は誰に似たんだろう。

そういえばずっと野球少年だったけど、キャッチャーであることを通したな。イップスにもなったけど、自分で治してしまったな。案外、やるんだよなぁ(笑)

 

「外貨両替、学生レートで行けたよ」と、またLINEが来た。これで準備完了らしい。

今日、成田を出発。見送りには行けないけどね。今しか出来ないことを、しっかり貫いて来い!

 

 

 

ドライヤーが初めて天寿を全うした!

雪、雪、雪でございます。

みなさん、お元気でおすごしでしょうか?

 

f:id:hisakokk:20180204201116j:plain

 

父が退院して来たその日の内に再び倒れ、それを支えて母は坐骨を粉砕し、それぞれに別の病院に担ぎ込まれて、姉と私は数日間の奮闘の日々だった。

けれど、お陰様で全員、今日も頑張って生きています。

 

ということで久々のブログ更新。やっと落ち着いてパソコンの前に座れた。

生きてることは凄いな。長男も生まれて直ぐに死んでいたかも知れないのに、今回も父と母は一緒に居なくなったかも知れないのに、今日も全員、地球上に存在している。

そのことに感謝しようと思う今日。

 

そんな中にして、唯一天寿を全うして存在を消したものがあった。

ドライヤーである。しかも、我が家では初めてのことだ。

 

朝方、旦那が「おおー!」と雄叫びを上げたので何事かと思っていたら「ほら、ほら!」と正にたった今使っていたはずのドライヤーを、私の目の前に差し出してきた。

更にスイッチを何度も入れてみせて、うんともすんともいわなくなってしまった事を確認すると「自ら壊れた初めてのドライヤーだよ!」と……。

 

自家用車は全て自ら壊れて緊急に買い替えたものばかり。けれど、確かにドライヤーは自然に壊れたものはお初だ。

「おぉー! 確かに!」と、ちょっと朝から二人で盛り上がってしまった。

 

もちろんというか、ドライヤーが不自然に壊れるというのは長男が絡んで来るんだけど、今回はそのお話。

 

長男は小さい頃から、機械、特に回るものが大好きで、エアコンの室外機などは我が家の場合、吹き出し口のあみあみな部分は邪魔らしく、自分の素手で一瞬のうちにバキバキに折ってしまって、満を持してあらわになったプロペラに、何時間もの間惹き付けられていた。

そのプロペラと逢瀬を重ねるためには、毎度家から脱走を繰り返さなければならない。

室外機の見栄えは最悪になるし、こちらも脱走の度に猛ダッシュで追いかけなければならないので、必然と外に続くドアやサッシ、窓などの内鍵が増えていった。

 

さて、ドライヤーというと、長男にとって空気を吸い込むファンやモーター、電熱線などは非常に魅力的らしい。ふと気付けばいつの間にかすっかり分解されている。壊される前に色んな所に隠してみるが、宇宙人は本来超能力があるらしい。恐ろしい程的確に場所を特定して探し出してしまう。困ったものだ。

 

もう一つ困った事に、家の近所に総合ディスカウントストアと言われる大型スーパーがある。

そして、そこにもあるのだ。ドライヤーの売り場というものが……。

 

最近はめっきりご無沙汰だが、そのドライヤー売り場を目指して脱走を重ねた時期があった。よくそのスーパーに連れて行ってドライヤー見学はさせていたが、そんなもんでは満たされないらしく、数秒目を離すと家から居なくなるので、こちらはトイレでさえ行くのは大変だった。

それでも一瞬の隙を狙って居なくなってしまうので、いつも私はそのスーパーに直行で駆け込む事になる。

 

初めてそのスーパーを目指して脱走した日は、長男は小学部の5年生だった。多分暑い日差しの頃だったような気がする(曖昧)

当然その日が初めてなので、私の頭の中ではまだその店がリスト入りしていなかった。

脱走に気付いて追いかけていると、長男の姿はないが、道路の途中に靴が履き捨てられていた。

あわてて回収して更に行くと、長男の半袖シャツが脱ぎ捨てられていた。困惑しながら回収し、また更に進むと、今度は長男のズボンが脱ぎ捨てられていて……。

その先は、頼む、それで終わりにしていてくれ! と願いながら追いかけていたが、遂に長男の姿を見つけられずに、ちょうど旦那も帰宅して来て、結局最後の手段を使うしかなくなった。

 

これで何度目だ? そう思いながら警察に電話したら、今しがた保護したから、派出所に来てね……と。

「あぁ、まただ」見つかった安堵とため息で迎えに行くと、毎度のようにバツが悪そうな表情をする長男に、毎度のように苦笑うしかない旦那と私。

 

おまわりさんの話しでは、そのスーパーに裸で入店し(パンツも履いてなかったと旦那は記憶していた)ドライヤーの物色を始めたらしい。

周りの人の驚きは想像に難くないが、それに気付いたパートのおばさまもそうだったろう。

しかし、大げさな反応も見せずに、さらりと「ちょいとちょいと!」と手招きして事務所に誘導してくれたおばさまの行動は、自閉症の息子にとって実にナイスな対応だった。

その後に警察に連絡となったわけだが、さすが特別支援学校の校区内店舗。本来完全に不審者だが、長男の様子からすぐに保護対象者と解って警察に届けてくれたらしい。

 

派出所の中のソファーでちょこんと座った長男は、「ミスターMAX」と店名入りの従業員エプロンをしていた。服の代わりに着せてくれたようだ。スーパーからの「要らないから、エプロンは処分して構わないよ」とのメッセージも、おまわりさんが伝えてくれた。

何だか暖かい気持ちになった。

 

家に帰った時はもうすっかり暗くなっていたので、翌日、長男を連れてスーパーを訪れ、お礼を言った。多分、その時現場に居てくれた人達だったと思う。「お母さん、大丈夫ですよ」と何度も言って下さった。

今後この子が来たら教えて下さいと、私の携帯番号を書き込んだ長男の写真を渡してお願いしておいたが、それから長男が脱走してスーパーに行くことがなくなるまでの数年間、ずっとインフォメーションの壁に、長男の写真を貼っていてくれた。

 

それからは脱走成功した長男が入店すると、直接私に電話してくれるようになった。店のドライヤーを分解して買い取ったものも多い。

ある時は、若い男性店員さんがずっと側で見ていてくれて「今日は壊さずに済みました。良かったです。偉かったです!」と、笑顔で長男の背中を察すってくれた。

ある時は、長男を探しながら店舗を訪れ、「今日は来てますか?」と聞くと「今日は見てませんよ」と返事が返って来たりした。

 

あの頃、いい関係でいて下さった店のみなさんには、今も感謝しています。

今はあの頃の店員さんも見かけなくなったけれど、長男も裸で道路を突っ走ることはなくなった。

月日が経ったんだなぁ。長男も成長しているんだなぁ。

 

さて、旦那は早速新しいドライヤーを買って来た。

もちろん、ミスターMAXで。

長男はまだ気付いていない。今回も、天寿を全う出来るだろうか。

壊さないように、また我々が最期まで守りきれるだろうか。

さてさて……。