宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

ついに会えなかったガラス屋の棟梁

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この週末は私の父の百日法要ということで、長男にももれなく参加してもらった。

ちゃんと、お勤めをしてくれました。

お経の合間に、実に上手く喉をならしてみたり、ウヒッなんて言ってみたり、私も可笑しくて笑いをこらえていたけど、見ると旦那の肩もゆれてて、やっぱり笑いをこらえていたみたいで。

 

じいちゃん、喜んでいたよ。たぶん……いや、絶対に。

だって、長男の合いの手の度に、じいちゃんの笑顔が浮かんだからね。

 

さて、そんな週末の金曜日には、仕事場で関わる子供達も、特別支援学校の宿泊学習なんてものがあって、いわゆる公共の宿泊施設に一泊する学校恒例行事を終えて、疲れてデイにやって来たんでした。

懐かしいことに、我が家の長男もその昔、その恒例行事に参加したことはあったわけだ。

デイで、疲れたであろう子供達を迎えながら、あのことを思い出していた。

 

あのこと……。

 

当時、破壊行動がえげつなかった時代、なかなか学校の先生達も長男に上手く対応出来なかったあの頃。

親としても覚悟を持って、宿泊学習も学校に預けた。

でも、やっぱりというか、当然のように長男はやらかした。

 

後日、先生から電話をするように言われて、宿泊施設に電話をした。

電話の呼び出しコールを聞きながら、ドキドキして相手が出るのを待つことも、何度もあったことなのに、やっぱり慣れるものではない。

 

やらかしは、ふたつもあった。

ベットのマットを破って、窓のガラスを割ったと。

 

多分、親だったら止められた。

けれど、先生も長男とベッタリというわけにもいかなかったろうから、仕方ないだろうし、宿泊施設の職員さんから神妙に話しを聞いた。

 

マットは何とかなりそうなので仕方ないです、こっちは弁償してもらわなくても結構です(超〜上から目線)

しかし、窓ガラスは弁償してください。このままにしてても困りますからね。

 

そう言われて、本当に申し訳ありませんと、ひたすら謝るしかなかった。

しょっ中こうして謝るのだけれど、謝ることも何度やっても慣れるものではない。

 

どうすればよいですか? と聞くと、職員さんは、あるガラス屋さんを指定して、そこは市内の学校や公共施設と契約しているところだから、そこに連絡をするようにと言った。

その割ったガラスはおいくらくらいですか? と聞くと、サラッと2万5千円ってところだと言われた。

 

毎度毎度気が重いわけだけど、そのガラス屋さんに電話をした。

やっぱりドキドキして、相手が出るのを待つことは慣れるものではない。

 

本当に……何度もあるのに、それなのに慣れないことだらけだ。

 

そうして受話器の向こうで電話を取ったのは、なんだか柔らかくて優しい声のおじさんだった。

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あの、宿泊施設のガラスを割ってしまいまして……と一通り話すと、そのおじさんはその柔らかい声でこう言ってくれた。

「お母さんも大変やなぁ、学校での出来事やったのになぁ。大丈夫、ちゃんとやっとくから、心配せんでいいよ」

 

話ししながら、この人はいち社員さんではないな、ガラス屋の棟梁さんだな……と思った。

施設の職員さんとの余りの対応の差に、ちょっと気が抜けて泣きそうになった。

 

お金をお支払いしますから、いくら位用意しておけばいいですか? 2万5千円位と聞きましたが……と言うと、棟梁は2万5千円? と言って、はははと笑った。

 

「あの施設のガラスやろ? えらい上等なんやなぁ。いいよ、9千8百円のを入れとくから。それで十分やからね」

 

それを聞いて、更に気が抜けた。

いいんですか? だいじょうぶですか?? と、不覚にもプロに聞いてしまった。

棟梁は、またはははと笑って、大丈夫だと言った。

 

棟梁曰く、支払いは学校に預けておけば、しょっ中学校回りしてるから大丈夫だと言ってくれた。

しかし、実はそのガラス屋さんと学校はかなり遠い。

つまり、ウチもそのガラス屋さんからは遠いことに気を遣ってくれたんだと思った。

 

でも、数日後に予約を入れている長男の掛かり付けのクリニックに、母親カウンセリングに行くことになっていて、そこからなら車で10分程と近かったので、その日にお金は持っていけますと伝えた。

棟梁はまた柔らかい声で、無理しなくていい、来れたらでいいよと言った。

またその日は不在しているので、ウチの嫁に渡しといて……との返事だった。

 

施設の職員さんには何度も「すみません」と繰り返したが、棟梁には何度も「有難うございます」と繰り返した。

同じ息子のやらかしに対しての台詞なんだけれど、こんなにも気持ちが違うものなんだな。

 

人の声と言葉は、こんなにも相手の心を、暗くも明るくもするものなんだね。

 

ナビを頼りにガラス屋さんに行くと、そこは普通の家に広いガレージがあり、そこが作業場であり、倉庫になっていた。

ガレージの横のインターホンを押すと、優しそうな棟梁の奥さんが出てきて、やっぱり柔らかい声で

「ちゃんとお話は聞いていますよ、わざわざここまで大変だったでしょう」

と笑顔で迎えて下さった。

 

領収書には、ちゃんと9,800円と書かれていた。

それを見て、心がまた暖かくなった。

2万5千円が9千8百円になったからではなくて、あの棟梁とのやり取りを思い出したから。

奥さんにあの時のやり取りと、本当に嬉しかったことを伝えると、奥さんは

「お手伝いできて良かった。お母さんも頑張ってね」

と言ってくれて、ガラス店の名前入りのタオルを、使ってねと差し出してくれた。

 

長男がガラスを割らなければ会えなかった奥さん、会いたかったけど会えなかった棟梁。

その後、幸か不幸か奥さんとは2度と、棟梁とはついに会えてはいない。

 

長男のやらかしは時々、私の打ち拉がれたはずの気持ちにこうして、暖かいものを流し入れるようなことを起こしたりする。

ちょっと卑怯だよね(笑)

お陰で泣いたり笑ったり、君と一緒の人生は忙しいよ。

 

 

発達障害というだけで新聞の見出しになる世の中

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新幹線の中で起きた、数日前の無差別殺人事件。

当然世の中を震撼させた事件だったけれど、驚いたのは報道のあり方だった。

 

犯人は自閉症だったという新聞の見出し。

テレビのニュースでの解説。

 

本当に障害名が確認されずに報道されているという話しもあるけれど、何だか悪意と言うよりも、無知という2文字が頭に浮かんで来た。

見出しにするくらいだから、悪意があると言う人もいるが、新聞やテレビや世の中のライティングされたものは、見出しが肝心ということは、ライティングの講座でも声を大にして言われることだ。

つまり、見出しで読む人の興味を引かなければならない。

言ってしまえば、それで稼がなければならない。

 

自閉症というフレーズは、人を惹き付けると思ったのだろうな。

結果、批判を受けて謝罪と削除に至ったわけだが、余りにも薄っぺらいというか、プロの物書きさん、記者さんなら、批判が出ることくらい想像出来なかったのかな。

だって、問題は障害があることではなくて、事件を起こしたことですよ。

事件の見出しならまだしも、障害にスポット当てること自体、話しがズレてる。

 

発達障害(自閉症もその中のひとつ)は、世間に認知されてそんなに幾久しいわけじゃない。

しかも、ちゃんと理解されているかと言えば、これだけ様々な所でこのフレーズが使われ、新聞の見出しに使うほどなのに、実際はちゃんと理解されていない。

 

いわゆる自閉症といわれる人は100人に1人と言われ、さらに発達障害と言われる人を全部ひとくくりにすれば10人に1人とまで言われている。

全然めずらしい障害でもなく、ある医師も「発達障害なんてない」と言い切ってさえいる。

発達障害の検査をして、それに引っ掛かる人は実はたくさんいて、10人に1人というのは頷けるのだそう。

つまり、みんなそれで普通なんだということらしい。

 

うちの息子のように色んなことが極端だと、様々な便宜上から障害名も付いてくるけれど、もしかして、これ読んでくれてる人にも、色々生きづらさや困ったことを持ってるかも知れない。

 

問題は、本人の困り度なんだと思う。

 

発達障害と言われる人が起こす問題行動は、困った果ての行動であることが多い。

それは親のせいとか、誰のせいとかでなく、その時の環境や学校や家庭や友達や、本当に様々なことが絡まって起きることなので、一つ一つほどきながら向き合っていくしかない。

 

障害は、その人の持つ特性ではなく、その人が抱える困り度のことなんだ。

困って取ってしまう行動や言動が、理解され辛いところにあることに、深刻さの度合いも変わるんだと思う。

 

うちの長男は、特に学齢期は学校で溜め込んだイライラを、帰宅するなり私にブツけていた。

私が学校にいて、その姿を見つけようものなら、わざわざ追いかけてきて私を泣きながら叩いたりした。

家の中でも何やら溜め込んでしまうと、分らなくなってワーワーと泣き叫んで、私に全身でブツかって来た。

 

どうにかしたかったんだろう。私にどうにかして欲しかったんだと思う。

お互いどうしていいか分らなくて一緒に泣いたし、分ったときは一緒に笑った。

長男の辛い気持ちの受け皿はほとんど私だった。

余程のことがない限り、他の人の攻撃はなかった。

 

私なら受け止めてくれるって、信用してくれてたのかな。

 

今は、随分と自分で気持ちの整理が出来るようになったようで、私もあの時ほどの受け方はせずに済んでいる。

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小さい頃は、色々と困ってたんだろうな。

 

学校で、先生が見通しを立てるためにと写真でスケジュールを示して、この通りに動きましょうと構造化された環境を作ってくださった。

でも、本人は言われたことではなく、自分でスケジュールは考えたかったようだ。

そして困ったんだろう。

思い通りに動けないことに怒って、写真を破り、写真を貼られたホワイトボードを破壊するようになった。

ホワイトボードがなければ、写真は貼られないと思ったようだ。

 

けれど周りがだんだん理解し始め、写真はスケジュールではなく、何かを選択する時に見せれば有効だと気付いて、スケジュールも「これから何をする?」「その後まで決めておこう」など写真を選ばせることで、ホワイトボードの破壊もなくなった。

 

困らなくなると、問題行動も減っていく。

やっぱり、どれだけの人達に理解してもらって、関わってもらえるかで、この子達は本当に変わっていくのだと思う。

これは、到底親だけで出来ることではない。

 

あの、新聞の見出しに「自閉症」と書かれた犯人は、そんな人との関わりがなかったのではないだろうか。

そもそも、自閉症は人を殺さない。

自閉症の殺人者でも、自閉症以外のところにその原因はある。

そこを勘違いして欲しくない。

世の中の殺人者は、自閉症と診断されている人なんかより、ずっと普通の人と言われる定型の人間の方が多いんだから。

 

もし、発達障害者だったと強調されても、あの医師が言ったように10人に1人はそうであるなら、みんなみんな違っていて、みんなみんな一緒なんだ。

だから、新聞の見出しになること自体、意味がない。

 

あの見出しやニュースで、傷ついた人達も本当に多い。

でも、それを謝罪させて削除させた、たくさんの人達の「それは誤解を招く」という言葉は、少なくともこれからのことに、光を見せてくれた気がした。

 

 

癌かも知れないと言われた日

癌かも知れない……そう医師に言われた日、私は帰宅途中の車中で、色んな考えを巡らせた。

 

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最初は、何気なく受けた保健所での検診だった。

初めて受ける地域の健康診断で、しばらくして結果のハガキが届いた。

その内容は、どこかの医療機関にて受診してくださいというものだった。

つまり、検診に見事に引っ掛かってしまったわけだ。

 

ちょっと冷えた。気持ちが。

私の父方の叔母が、二人も乳癌で亡くなっていた。

二人とも、かなり壮絶な治療と最期だったのを覚えている。

とにかく、乳癌で治療実績のよい病院を探して受診することにした。

 

保健所ではマンモグラフィーのみだったが、病院ではそれとともにエコーも行われて、かなり丁寧に診てもらった。

 

そこで言われたことは、エコーの映像に、非常に気になるものが写っているというものだった。

たくさんの乳腺嚢胞(のうほう)という、丸い分泌物が溜まった袋が出来ていて、形がきれいに丸かったら良性だが、少しでも形が歪だったりギザギザしていたら、悪性の場合が多いというものだった。

 

私の場合は非常に微妙で、丸い袋の下の部分が少しギザギザしているように見える、というものだった。

けれど、かなり気になるから、もう少し形がハッキリ分るまで育った頃に、再検査しましょうと言われた。

乳癌自体、母親が発症していればかなりのリスクらしいが、叔母二人の発症でも、リスクは当然かなり高くなるそうだ。

 

その時の医師の言葉が

「3ヶ月より前ではまだ分りません。でも、3ヶ月を過ぎたらもう遅い。必ずきっちり3ヶ月後に来てください!」

 

何だか訳の分らない期日を言い渡されたようで、う〜ん……となったのを覚えている。

 

何と言うか、湧き上がった感情は「どうしよう……」なんだけど、自分に向かった「どうしよう……」ではなくて、長男の顔がバーン! と脳裏に浮かんで来てからの「どうしよう……」だった。

自分のことなのに、自分のことではなくて、長男の難題をどう解決しようか……と、そっちばかりが気になった。

 

もし、私が入院なんてことになったら、長男はどこに預けるの?

もし、私が死んでしまったら、長男を誰にどう託せばいいの?

 

入所施設にお願いしても、現行は夜の支援は手薄だから、脱走し放題じゃん!

だからといって、今の長男を受け入れてくれるグループホームなんて皆無じゃん!

 

何も良い考えなんて浮かばない。

とにかく分っていることは、その3ヶ月の間に考えをまとめること。

どこに相談して、どんな方法があるか検討すること。

旦那も仕事は続けられるように考えること。

そして、次男には隠さずに全てを話すこと。

 

取り敢えず、考えるだけ考えておいて、もし入院ということになったら、数日の猶予をもらって行動に移そうと決めた。

そして、万が一命に期限がついたら、医師には必ず告知してもらって、その期限までにやれることは何でもやろうと決めた。

 

本当に不思議だったのだけれど、その時自分が入院すること、死ぬかもしれないことを考えていたはずなのに、その考えの行き着く先は、自分のことではなくて長男のことでしかなかったので、全く死に対しての恐怖なんて、微塵も感じなかった。

 

むしろ、長男を残してこの世を去ることの方が恐怖だった。

 

3ヶ月経って、考えがまとまったわけでもなかった。

正直、難しい問題でしかなかった。

その現実の方が、何よりも辛かった。

悩むことだらけだったが、結果次第では何かしらアクションは起こさなければならない。

 

そうして病院を訪れ、再検査の後に医師が口にした言葉は、とても意外な一言だった。

 

「あれ? なくなってますよ!」

 

はい?

なくなっている??

 

まれにあるそうな。

医師は、多分癌だと踏んでいたようだったが、その物体自体がきれいに消滅していた。

ほっとした。

それも自分のことではなく、散々考えた長男の難題を、しばらくは考えないですむという安堵感。

本当に心からほっとした。

 

けれど、こんな事はまたあるかも知れない。

その時こそどうするか、常に考えておかなければならないんだよね。

 

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そして今日、小さく扱われたニュースをテレビで見た。

障害を持った弟と、ずっと弟をお世話していた兄が、転落死したというニュース。

多分、心中ではないかと……。

 

ニュースのコメンテーターが言っていた。

死を考える前に、誰かに相談して欲しかった……そしたら、きっと生きる道はあったはずだ……。

 

そうだろうか。

弟さんは、通所の施設に通っていたようだった。

ならば、相談するところの情報はもらっていてもいいはずだ。

きっと、相談はしていたのではないだろうか。

相談し尽くして、決して選んだ道は肯定し難いことだけれど、他に考えられなくなってしまったんだろうな。

きっと、悩んで悩んで、悩み抜いたはずだ。

 

母親と兄弟という違いはあっても、私の場合は死を選ぶほどの思いに駆られたことはない。

こうして病気をしても、長男を生かすことばかり考えていた。

生きて欲しいとしか思わなかった。

 

私は、まだまだ幸せなのかも知れないな。

 

 

危機感

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今月も終りに差し掛かって、長男の来月の福祉サービス利用についてコーディネーターからメールが入った。

来月の短期入所は、残念ながら利用できません……と。

 

前回、長男のお泊まり支援の「短期入所」について書かせてもらったが、月1回の利用がたまに利用出来なかったことは今までもあった。

でも、またその翌月は利用することが出来ていた。

しかし、今回コーディネーターのメールの内容で、私は少し、危機感を覚えた。

それは「スタッフの欠員が相次いでいる」という一文だ。

 

いや、少しなんてもんじゃない。

はっきりとはまだ聞いてはいないし、来月以降にはその言葉の意味が分ってくると思われるが、でも、想像は何となくついてしまう。

だからこそ、返信の中に

「誰か辞められたのですか?」

とは、怖くてどうしても書くことが出来なかった。

 

だって、今までもそうだった。

 

長男が今通っている通所の施設は、何年もかけて本契約にたどり着いた。

長男を、絶対ここに通わせたかった。

 

そして、長男は、今毎日そこに通っている。

長男の性格も、特性も、障害の重さも全て受け入れて、たくさんの工夫を凝らしながら、長男のリア充を目指してくれている。

長男の笑顔が好きだと言ってくれるスタッフに囲まれて、長男は笑顔で通っている。

 

実は、この施設には、長男が小学部低学年から縁があった。

なにせ、散々やらかす長男だから「何かあった時のために支援センターに名前を登録したら?」と学校に勧められた。

当時、この自治体に障害者の支援センターがあるとは余り知られておらず、それが多分、唯一この施設の中にあった。

 

登録に行ったその日、私が相談員と話しをしている間、施設のスタッフ達が長男の相手をしていてくれた。

長男はやらかす! という話しを私が相談員にしている間に、長男は実際にスタッフに、そのやらかしを体現して見せていたのだ。 

なぜそこにあったんだろう?……ドライヤーを、ものの見事に壊したらしい。

 

私達が帰った後、支援員の聞き取り内容を聞いたその場にいたスタッフ達は、すっかり納得してしまったのだとか。

そして、そのスタッフ達が、数年後に長男の外出の支援で、さらに数年後は今の施設で関わってくれることになる。

 

思えば運命的だな……。

 

ただ、本当に正式に通所出来るまでの間は大変だった。

けれど、その時のコーディネーターが凄かった。

本来なら定員いっぱいで通えない施設に、通うことを実現させてくれた。

最初は週に1日から、それを数年掛けて日数を増やし、最終的に毎日通えるようにしてくれた。

 

そしてまた、その施設のリーダーも凄かった。

その人は、その時既に長男の外出の支援をするヘルパーで関わってくれていた。

支援の仕方が上手く、施設でもカリスマ的な人物だ。

後から施設のスタッフに聞いたのだけれど、その人が常にスタッフに言ってくれていたそうだ。

「ひろき君はここに来てもらう。みんな彼に付こう。彼が何でも教えてくれる!」

 

それを聞いたスタッフは、今もその時のことをよく覚えていると言っていた。

そして、本当にみんな長男と関わってくれたようだ。

だから長男とスタッフの信頼関係が、長男の笑顔を引き出しているのだろう。

スタッフ達の凄さは、どんなに障害が重くても、心を寄せて、どんなことにも付き合ってくれることだ。

 

けれど、それは仕事として成り立っているのだろうか。

まるでボランティアではないだろうか。

 

この施設でさえ、素晴らしい福祉の人材に育っても、福祉で食べていけないなら、それを仕事としては続けていくことが出来ない。

 

これはボランティアではない。立派な仕事に他ならない。

 

息子が目の前でドライヤーを壊した時のスタッフ達も、長男を本契約まで導いてくれたコーディネーターも、そして長男に心寄せてくれたたくさんのスタッフ達も。

 

気付いたら、何人もいなくなっていた。

 

一番聞こえて来たのは、生活のため。

そうだろうな……だれも引き止めることは出来ない。

 

それでも、今も施設は頑張ってくれている。

心を寄せて、どんなことにも付き合ってくれている。

新しいスタッフを、育てようとしてくれている。

でも、育っても、いなくなってしまうのではないか……という危機感。

そもそも、リクルートすら上手くいかない現実。

 

どうして、福祉の世界では、人を支えながら自分もずっと立っていることが難しいんだろう。

親達の中でも、子供達の工賃など望めない中にあっても「何より先に、スタッフ達が身を立てられるようにして欲しい」という声は多いのに。

そうでなければ、子供達の居場所がなくなってしまう。

福祉の世界で頑張る人達が、保障された中で生活できるように、この国や地域は、そして親達は何をしていけばよいのだろう……。

 

せっかく育った人材が辞めていく。

福祉の世界は、いつか支える人がいなくなって壊れてしまうかも知れない……。

 

すごいすごい……危機感……。

 

短期入所の欠員について、あぁ、やっぱり……となるのは切ない。

だから「誰か辞められたのですか?」とは聞く勇気がない。

神様……どうかどうか、それが勘違いでありますように……。

 

 

ありがとう。

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長男は地域でも名の知れた大物だ。

長男の名前を聞いただけで、施設利用を何度もその場で断られている。

脱走、破壊、他害、自傷、何でもござれの長男を、そんなに易々と受け入れる施設などないと承知はしていた。

 

短期入所(短期の宿泊)などもっての他、何とか頑張って受け入れてくれた施設も、長くもって2年。

ほとんどの場合、もう支援は出来ない、この子がいれば職員をマンツーで付けなければならないし、そんな余裕はない、夜は眠らない、対応が難しい……と断られ続けた。

 

ただひとつ、強度行動障害者(激しい問題行動を起こしてしまう障害者)を積極的に受け入れているところだけが、今も断られることなくお世話になっている施設だ。

 

息子は睡眠障害もあり、なかなか眠らずにいて、夜中にみんなが寝静まると「しめしめ」と脱走する。

凄いことに、トイレの少ししか開かない窓から脱走したこともある。

まさにイリュージョンだ!

その執念は、親である私も感心するほどだが、夜中に脱走しても何もいいことがないと本人の学習が進まないままだったので、結局息子が熟睡するのを確認しなければ、私も就寝とはならなかった。

 

一番酷い時は、毎日私の睡眠時間は2時間を切っていた。

そこで支援センターの人が頑張って、定期的に強度行動障害者を受け入れる施設を利用できるようにコーディネートをしてくれた。

月に1度だけ、夕方6時から翌朝9時まで預かってもらう。

その時間、お母さんは寝てくださいね、と言われた。

しかし、月に1回だし、長男のいない隙に……とついつい普段できない片付けやら何やらやってしまうので、結局眠れないままで今に至っている(笑)

といっても、私も今は4時間は寝れるので、あの時期からするとかなりいい感じだ。

 

この自治体での障害者の短期入所は、余程の緊急でない限り、1泊のみと決まっている。

しかも、ニーズは多いが施設の数が少ないため、定員もいっぱいで、うちのような毎月1回の頻度で泊まれるのは、かなりのラッキーといっていい。

 

けれど、考えれば今も、福祉とはそのくらいしか回っていないのだ。

スタッフも施設の利用もいっぱいいっぱい。

それでも回して行こうとしてくれてることは、スタッフの努力以外にないと、知っておかなければならないと思っている。

 

何せ、それまでの施設では色んなことがありすぎた。

テレビを投げて壊した、壁に穴を開けた、ドアを破った、支援員の顔面をたたいて目をついてしまった……。

そんなこと、何回もあった。

親のいないところで、何度も暴れた。

その度に謝った。何度も何度も「すみません」と言った。

弁償をして、治療費を払った。

泊まる度に、大きなお金が必要になっていた。

その度に、心が折れた。

 

「有難うございます」と言いたいのに、それよりも言わなければならなかった言葉は

「すみません」以外になかった。

 

障害者専門の保険会社のお得意さんだったが「次は出ないかも知れません」とも言われたこともある。

でもその時、うちの味方について保険を降ろしてくださった、保険会社の担当者さんもいた。それはまた後日……。

 

そんな中に、やっと月に1度の宿泊。コーディネートの担当の努力も凄かった。

本当に本当に感謝した。

その施設では、スタッフが訓練されていたことと、まれに成功した破壊行動も、スタッフの落ち度だと弁償は請求されなかった。

そうして、かれこれ8年が経とうとしている。

息子は笑顔で施設に泊まりに行く。

相変らず、そこ以外には短期入所できる施設は増えていない。 

 

 

けれど、あのままどこにも親と離れて宿泊することができていなかったら、そんな場所がなかったら、さらに、こんな長男に向き合ってくれる人がいなかったら……。

私は、長男を残して死ぬことができない。

 

月に一度会う短期入所スタッフは、今や長男の理解者であり、我が家を支えてくれている。

大事なのは、施設に泊まることではなく、そのスタッフと人として関わる時間だ。

その時間こそ、私は大切にして行きたいと考えている。

 

そこのスタッフに、たわいない会話の中でこう言ったことがある。

「息子は脱走魔なので、いつ呼び出しが来てもいいように、もうかれこれ何年も、夫婦でお酒を飲んだことなんてありません。必ずどちらかが素面でいないと、直ぐに対応できないですから」

すると、そこのスタッフがみんな一様に

「ここに彼が来ている間は、夫婦で是非お酒も飲んでください。命に関わらない限り、呼び出すことなんてありませんよ。任せてください!」

と言ってくれた。

 

暖かい気持ちになった。

任せてください! という言葉が嬉しかった。

息子をお願いします……そう言って長男を預けた。

そして、その時の気持ちを言葉で伝えた。

 

「ありがとうございます」

 

私達親が死んだら、長男は誰かに託すしかない。

そのために出来ることは、周りに長男を理解して、愛してくれる人達を探し続けるしかない。

長男の名前だけで近寄らない人もいる。親の育て方が悪いからだと言う人もいる。

そうかも知れない。決していい親ではないから。

けれど、利用できる施設が限られているからと言って、長男を理解してくれる人達が少数であるとは思わない。

現実に、こうして関わってくれる人達がいて、その輪は、少なからずとも少しずつ増えている。

親が出来ることは少ない。でも、人との深い関わりが、長男をいずれ救ってくれるのだと信じている。

 

 

起きれるようになって良かったね〜……という話し

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大学生になった次男が、一番成長したこと。

それは、自分で朝、起きれるようになったこと。

東京で1人暮らしをするようになって、必要に駆られてのことなんだろうけれど。

 

睡眠障害でなかなか寝ない、寝ても眠りが浅い長男の真逆を行っていた次男。

起こしても起こしても土左衛門……ビクともせずに爆睡、毎日、朝起こす作業に一苦労でした。

地震が来てもそのまま寝てそうだし、オバケが来ても気付かれずに諦められそうなくらいの爆睡っぷり。

まぁ、それは小さい頃からで、寝相は悪過ぎたし、爆睡の上寝言はハッキリ言うし、夢遊病みたく歩いたこともある。

 

そういえば、まだテレビで戦隊ものとか仮面ライダーとか見ていた頃は、日曜日だけは起きれていたなぁ。

やっぱり、目的ないと起きれないんだね……という感じで、平日は超爆睡だった。

 

起きれないのも、寝相が悪いのも、障害児の兄がいることでの、家庭内のストレスのせいよ! と言った人もいた。

けれど、実際は毎日が天真爛漫を絵に描いたような次男だったので、ストレスと言われても、何ともどうすれば良いのか、母としてはお手上げ状態だった。

 

一度起きてしばらく覚醒に時間が掛かって、一旦動き始めたら元気元気。

リビングのサッシをカーッと開けたら

「鳥さ〜ん、おはよう! さとちゃんだよ〜!」

と、しょっちゅう叫んでいた。

すると、お隣のおばさんが「さとちゃん、今日も元気だね〜」とベランダから声を掛けてくれてた。

 

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4才くらいだったか、ちょっとした事件が起きた。

その日も次男は、その日のエネルギーを残さずに爆睡中だった。

当時は旦那が仕事で、毎日夜中の2時頃に帰宅していて、旦那がリビングで着替えていると、ふすまを開け放した隣の部屋から、次男が寝たままコロコロとリビングに転がって来た。

そしてテーブルの側までたどり着くと、何故か起き上がろうとした。

どうやら勢いを付けて起き上がったようで、その瞬間ガンっ! と少し鈍い、けれども大きな音がした。

なんと次男は、ガラスの重くて大きいテーブルの角に、顔面を打ち付けてしまった。

 

私もその音で驚いて目が覚め、慌てて次男に駆け寄ると顔面が血だらけだった。

しかも、目から出血している!

私も相当慌てて、オロオロしてしまった。

私自身、小さい頃に目をケガしたことがあり、今でも目に関しては苦労が絶えない。

とにかく早く病院に連れて行かなければ!

すぐに、夜間診療をしてもらえる病院を紹介してくれる機関に電話をして、わりと近いところの病院が紹介された。

その機関と病院が連携を取ってくれて、すぐに受け入れてもらえた。

 

私は長男が寝ていたので、動くわけにもいかず、旦那に病院に次男を連れていってもらった。

その後のことは、旦那から聞いた話。

 

結局次男は、目自体にはケガはしていなかったが、目の縁がバックリと割れてしまっていて、そこからとめどなく血が流れていたようだ。

で、お医者さんは止血した後、そのままチャチャっと縫ってくれた。

その間、次男はまな板の上の鯉。

 

実は次男、その間も睡魔に襲われていて、縫ってもらうことに対しても、眠くて眠くてそれどころじゃなかったようだ。

けれど、そんなこととはつゆ知らず、お医者さんは「こんなに小さい子なのに泣かないで凄い! 偉いね!!」と、本当に感心されていたそうな。

旦那、目の中が大丈夫と分ったからか、ちょっと気が緩んだようで、お医者さんの次男を褒めて下さる言葉に、いちいち「うぷぷっ」と笑ってしまってたようで……(笑)

 

治療が終わった頃には、次男も少し目が覚めて、帰り際に「がんばったで賞」のジュースを買ってもらって、ご満悦で帰って来た。

見てみると、黒い木綿糸位の太さの糸で目の縁が縫ってあって、絆創膏の端っこからちょっとはみ出していた。

 

それから1ヶ月ほどで抜糸と相成りました。

抜糸前日、超イケメンの若いお医者さんから「俺が抜糸してあげるからな、待ってるよ!」と言われてたので、私もテンションアゲアゲで翌日病院に行くと、実際に抜糸して下さったのは、奇麗な女医さんでした。

 

旦那が代わりに行きたかったそです。

 

さて、実は目の縁を縫った時に泣かなかった次男ですが、その翌日、たくさんの蚊にさされて「かゆいぃぃぃぃ」と涙を流して泣きました。

次男にとって、痛い痛くない、痒い痒くないよりも、問題は眠いか、眠くないか、ということのようでした(笑)

 

そんなこんなで、長い間、朝っぱらから起こすことに、ひと手間もふた手間も掛けてくれてた次男。

あの大変さから解放されて2年がとうに過ぎました。

 

起きれるようになって良かったね〜。

 

けれど、未だにちょっとだけ、母の淋しさも消えないわけで。

母という生き物は、案外と身勝手なものなのかも知れません……(しみじみ)

 

 

何十年掛かろうとも「出来た」ことは「出来た」ことなので

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我が家のトイレットペーパー、実に早くなくなります。

そんでもって、トイレがよく詰まります。

はい。ご想像通りでございます。

 

長男、最重度につき、トイレの自立に実に長い年月が掛かりました。

私としては、トイレットトレーニングを軽く見ていたわけでも、サボっていたつもりもないんだけど、自立に時間が掛かったことについては、まぁ、色んな人に色んなこと言われたかな……。

こういうことは、だいたい親がどうのこうの言われるわけで、実際自分の親としての適正も力量もないのかと、悩んだり本を読んでみたりもしたこともある。

 

躾本というのは当時から存在していて、今はネットで情報を得ることの方が多いと思うが、当時も様々な本が様々な説を、真しやかに書いていたりした。

でも、何かしっくり来ない。どうしてもしっくり来ない。

 

私は、長男が生まれる前から障害児達との交流もあったし、運良く仕事柄、発達についてや障害の特性、何より、待つ必要性は早くから知っていた。

それが幸いしたと思う。

何も知らなければ、何もかも試してみたかも知れない。けれど、うさん臭そうな物は、取り敢えずハネた上で、それから、いや、それでも悩んでいた。

 

周りの「あなたの努力不足」コールが重なると、どうしてもそうなるもので、過ぎてしまえば、というか相手の方が諦めてくれたら、精神的に楽になるというのが現実だ。

でも、問題の真っ只中の母達に言わせれば「じゃあ、あなた、やってみなさいよ!」とブチ切れたくなるものです。

 

えぇ、経験済みですよ(笑)

 

ただ、障害が治る商法にだけは手は出さなかった。

あれを食べたら治る、これを食べなかったら治る、悪い物質が体に溜まって障害を負ってしまうから、それを排出されるために、これを飲む……そんなものは、昔からたくさんあった。

もしかしたら、治った子もいたかも知れない。反対に、その関連療法で亡くなった子の情報も実際にある。

治ったといっても、子供は大人に成長するわけで、その成長によって症状が軽減したのかも知れない。

それは正直分らないし、人によるとしか言えない。

でも、私はしなかった。

しっくり来ない。どうしてもしっくり来ない。

たったそれだけかと言われても、私は目の前の長男と向き合って、笑顔が凄く良くて、誰もが騙される笑顔と向き合って、なんでこれを治さなければならないのか、すっかり分らなくなったというか……。

 

最重度の障害があっても、長男は大好きだし、変わって欲しいとは思えなかった。

それを非難する人も確かにいた。その度に「全ては親の責任だ」と言われた気がした。

障害を治してあげるのも親の役目だという人は、結構多い。

「躾しなさい」「大きくなって苦労しないように何でも出来るように教えなさい」「少しでも、周りに近いようになるようにしてあげなさい」

親は一番近くの、最も素晴らしい教師でなければならない。

そんな声は、未だにたくさんある。

 

親は、子供の教師なんですか?

それ、私は疲れます。親は親としてだけでいたいです。

 

けれど、世間は本当に自分の子供の教師を目指す親もたくさんいるし、本音を言えずに堪える親もいる。

小さいうちに必死に言葉や文字を教えて、厳しく何でも躾けて、本当に何でも出来るようになって、コミュニケーションが上手くなった子供。

凄いです。尊敬します。私にはとても真似できない。

それから、何も出来なくても、親が全てを受け入れて育った子供。

そのかわり、子供を理解してサポートをしてくれる人を探す努力をしている親は、結構多い。

受け入れて放ったらかしは、ネグレクトでしかない。正直、そういう親もいる。

子供は親を選べないけれど、その選択が子供の幸せに繫がることが、一番大事なんだと思う。

 

長男の場合、私は親として、せっかく生まれたのだから、そのままの姿を受け入れることに、何だかしっくりとくる不思議さを覚えた。…

きっとその選択の一番の理由は、長男の笑顔によると思う。

これに騙されると書いたが、この笑顔を見ると、他人でさえも手伝いたくなる、長男の願いを叶えたくなると言われたことが何度もある。

本当にそう。だって、親でさえ騙されている。

だから、笑って暮らしたいだけだ。それを怠慢だという人も多いのも事実なんだけれどね。

 

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けれど、全てに怠慢しているわけじゃない。

機会ごとに信号の見方も教えて覚えてもらった。4年掛かったけど。

トイレも、おしっこは学校に上がる直前に出来るようになった。

これは、何度やっても失敗していて、時間ごとに連れて行っても、あまり意味がなかった。でも、これはもしかして自立は無理かな……と思っていたところで、突然出来るようになった。

これには驚いた。なんせ1度出来たっきり、失敗の方が逆に全くなくなってしまったから。

 

以前、作業療法士の先生がコップに入った水に例えて、知識や経験がいっぱいにならないと水は溢れない。逆を言うと、いっぱいになったら、それは溢れて出来るようになるということだ、と言ったのを覚えている。

長男は、コップの水が溢れるまで待っていたのだろう。

 

そして、25年目にしてやっとペーパーでお尻を拭くことを覚えた。

ずっと介助が要ったけど、取り合えずは覚えた。介助の度に教えていたけど、これも自立は無理かな……と思っていたところに出来るようになった。

ただ、まだ使用するペーパーの量が分らないようだ。それで、よくトイレを詰まらせる。

本人は詰まらせるためにやっているわけではない。きれいに拭けたかどうかが問題で、本人なりにきれいになったという判断が出来た時に、おしまい! となる。

家族は、マズいぞ! と思った時は時々先に一度流すように促したり、それが難しそうなら、火鋏を持ってトイレ前に待機する。

 

今はそれでいい。また、何十年経って出来るかも知れない。出来ないかも知れない。

私は、そうする方を選んだ。それは、長男にとって良かったのかどうかは分らないけれど。非難されることだってあるけれど。

だって、何十年掛かろうとも「出来た」ことは「出来た」ことなので。

ただただ、出来る出来ないよりも、長男が、どうかどうか幸せであって欲しいと願っているだけなので。