家族とは関係ない話しなんだけど、23年前のあの日、夜中にずっと夢を見ていた。
ネタではなくて、その夢で見たものは街が壊れていたり火事が起こっていたり、散々な風景だった。
でもそれ、予知夢なんてものではなくて、私は小さい頃から発熱して体温が高くなるとよくそんな夢を見ていたので、朝目覚めた時に「あぁ、今日は熱があるな。」と思った程度だった。実際熱は39°を超えていて、やばいなぁ・・・と思っているうちにフラフラとして立ち上がれなくなった。
そんなもうろうとした中、朝一に病院に行こうと支度しながら見たテレビの風景は、驚きとともに今も忘れられない。
あまりにも夢とそっくりだったから。
再度言うけど、私には予知夢なんて力はない。
多分、ニュース映像が衝撃的過ぎて、夢と現実がリンクした瞬間だったんだろうな。
当時住んでいた家の隣が救急病院で、何とか歩いて行って診てもらうと、「流行に乗ってますね。」と一言。そうだろうとは思ったけど、やっぱりインフルエンザだった。
おかげで、23年前のこの日にインフルエンザにかかったことは、震災とともに忘れることはない。
街の被害が報道されるに連れて、親戚や友達の住む場所が正にその倒壊や火事のまっただ中にあるとわかり、今程の安否確認の手段なんて直電くらいしかなくて、連絡するのもはばかる状態だった。
そんなこんなで私は一週間もの間高熱にうなされ、毎日変な夢に悩ませられながら、やっとの事で復活を果たした頃、親戚や友達の安否も伝わりだした。
義弟嫁の話しでは、たまたまその日疲れていて体が動かず、洗濯物をベットの側に置いていた事が幸いしたと言っていた。それがクッションになって自分は怪我せずに済んだと。何が幸いするか分らないと笑っていた。
淡路の旅館の嫁になった友人は、幸い旅館は厨房が生きていて、震災直後から炊き出しをして周りに振る舞っていたらしい。生まれたばかりの息子さんを遠く実家に預け、街のために、生きていくために頑張った。
灘区に居た友人は、アパートの隣のビルが倒壊、そのビルに寄りかかった形でアパートは倒壊を免れ、落ちた天井を何とかくぐり抜けて脱出したらしい。でも、気持ちが元気になるまでしばらく時間が必要だった様だ。
大阪の友人達も、家の中も外もぐちゃぐちゃだったらしい。
でも、みんな生きていた。試練がしばらく続いても、みんな頑張っていた。
私は何も出来なかったかど、熱がどんどん上がる中、本当にあの時は神頼みをした。
今となっては、あの震災を神様が起こしたのか、神様が親戚と友人を救ってくれたのか分らないけど、あの時の「自分は無力だ!」という感情は、筆舌し難い始めての経験だったと思う。
あれからもみんな元気です。私も元気です。
元気という言葉は実は重い。
これからもみんな元気で。私も元気で。