長男の生まれた日はとんでもない嵐だった。凄い音で分娩室のガラスがきしんでいて、でもその他はあまり覚えていない。初産とはいえ難産で、私は何度も失神した様だった。
医師は義父の友人であり、義母の勧めで行った産科だったが、今ではあり得ないだろうけど、帝王切開や緊急手術の出来ない医師だった。
そうなった時は、車で40分はゆうに離れた病院から、別の医師が駆けつけるという産院だった。
実はその話しは私も知っていたけど、義父の友達というのはやはり狭い地域では決め手になってしまうもので、その当時は仕方ないものだった。
まさか自分はそんな目には遭わないだろうと思っていたが、思いっきり引っ掛かったわけだ。
この結構壮絶だったエピソードは、また長男の産まれた日にでも書きたいと思う。このブログが続いていたらの話しだけど(笑)
その壮絶だった誕生から1年半が経ち、保健所で検診を受けた時には、私は自分の仕事上の経験から長男が障害を持っていると気付いていた。
最初ハイハイが始まった頃、その床に付く手がどうも気になることから始まった。
手の平が伸びずに、指が曲がった状態でペタペタと音を立ててハイハイしていた。
その後始まった1人遊びが、普通のおもちゃには目もくれず、ダストボックスのフタを延々と揺らして遊んだり、同じ動きをする物にこだわって、それを何時間でも揺らしたり見ていることが多かった。
呼ばれたら一応振り向くけど、その後大人に関わろうとする事もなく、すぐ自分の世界に戻っていく。
1才を過ぎた頃から笑顔が消失して、「笑わん殿下」と呼ばれていた。
その頃から私は確信を持ってしまった。もう、間違いないと。
1才半検診に行ったとき、やはり明らかに周りの子達とは違っていた。そこで、保健婦さんに私の方から「この子、障害があります。」と言った。
保健婦さんは驚いて、「もう少し様子を見ましょう。また2才になった頃、お宅を訪問しますから。」と言われた。
多分、母親から自分の子供に障害があるなどと言ってくることは、あまりないことだろう。そういえば、ある保育士さんもやはり、自分の子供の障害に気付くのは早かったと言っていたな。
そして間もなく2才という時、訪問して来た保健婦さんに、明らかに発達が遅れている所をひとつひとつ申告しながら見てもらった。
保健婦さんも納得したらしく、訓練施設の紹介をされて、長男は程なくしてそこに通う事になった。
ところで、障害を持った子供としての道筋は少しずつ出来上がって来たものの、依然として誰からも「この子は障害児だ」と教えて貰った事がなかった。病院に行けば判定してもらえるかなと漠然と思っていても、どうすればいいのか、大きな病院はほぼ紹介状がいるし、なかなか小さな町ではこの先の行動をどうすればよいか分からずにいた。
通い始めた通園事業の訓練施設でも、当時は医師や専門家を紹介出来るようなパイプがなかった。
児童相談所に行くという方法さえ知らず、本当に障害児を育てるには、未熟な親達だった。
今は何でも自分で調べる事が出来るけれど、当時はネットなどの検索方法もなく、誰も教えてくれることもなくて、自分でどうやって調べれば良いかの分らないでいる私達の様な親達は実に多かった。
そんな中、旦那がラジオを聞いていて、某テレビ局が「言葉の相談」という言葉の遅れが気になる子供の相談を受け付けている事を知り、直ぐに申し込んだからと言って来た。
旦那も日々悶々としていたらしく、なぜ息子が喋れないのかを誰かにはっきりと言ってもらいたかった様だ。
私からは障害があるだろうと言われていて、多分そうなんだろうなと思ってはいても、何か靄がかかった様で、はっきりしない中にずっと居る様な気持ちだった様だ。
正直誰かに障害を断定された時、その覚悟も持ってくれていたのかも知れない。
それは後に分かって来ることになるが、本当に長男の障害に対しては、早く、穏やかに受け入れてくれた。
相談日の当日、某テレビ局に着いて受付を済ませると、子供達は一カ所に集められて保育士さんと遊んだ。
その側で三人だったか、高机の前に医師が座っていて、順番が来たらその前に進んで医師と向かい合い、どの位だったか忘れたが、結構長く話した気がする。
その中の女医さんがとても優しく接して下さって、子供達が遊んでいる中、遊びにならず手持ち無沙汰だった息子を見ながら「障害の入り口にいますね」と言った。
「これからずっと、成長の手助けをしていかなければなりませんから、良い医師を紹介しますよ。」
と言って、紹介状をその場で書いてくれた。
ここで初めて、それまでどうすればいいか分からなかった「専門医とつながる」という事が出来たのだ。
言われている事は本当はショックな内容だったはずだけど、それよりもこれでハッキリしたという、霧が晴れたような不思議な思いと、頼っていい人にも繋げてもらえるという安心感もあった。
悲しいというよりもスッキリしたような。それは、むしろ私よりも旦那の方が強かったみたいだ。
終わった後、テレビ局を出て近くの大きな公園で三人で散歩した。途中ホットドック屋さんがあって、そこで二人分買って三人で分けて食べた。
その時、公園の周りを多くの人達がジョギングしたり、学生達が並んで楽しそうに歩いていた。
その学生達を見ながら旦那は「息子にはこういう時期が来ないんだなぁ……」と思ったらしい。
それを、ほんの数日前に話してくれた。
後日分かったが、その女医さんは、実はとても有名な精神科医だった。
紹介してもらった医師もとても信頼出来る優しい医師で、転勤されるまでの間お世話になった。
その医師の初めての受診で「広汎性発達障害」と告げられた。
その時、まもなく3才になろうとしていた。
その日こそ、長男が何者であったかを告げられた様で、旦那とともにしっかりと覚悟を決めた最初の日になった気がしている。