(一六夜の月 愛宕浜から)
今年の4月は激動の1ヶ月。
忘れようにも忘れられない、我が家の平成フィナーレでした。
4月6日
今年は珍しい。
毎年すっかり忘れてる。なのに旦那も私も、ふと思い出した。
結婚記念日。
気付くと時既に遅し! 周りの〇〇婚でしたと発信を見る度に、あれ?と思って調べる。まぁ、だいたいもう既に過ぎていたりする。
けれど私達は余り、それらにこだわらない。
そういえば、結婚式がこの日だっただけで、実は婚姻届を出した日すら正確に覚えていない。
式は終わったものの、提出はすっかり忘れていて、旦那が
「今、時間が出来たから届けを出しに行こう!」
と言ったから、そのままレッツゴー!だったな。
そんな感じで日にちを意識すらしなかったので、未だに何日だったか思い出せない。
ただ一つ、これだけは忘れないこと。それは……
提出日は「仏滅」でした。
ちなみに今年も、気付きはしたけど何もなし。
あぁ、今年も無事に二人一緒にいるね、その確認だけで、我が家は十分な1日になる。
始まりが仏滅でも、今日も笑って過ごせれば、それは大安も飛び越えて、たまたま着地したのが仏滅だったってことかな。
4月9日
この日は毎年、忘れたことはない。あの嵐の中、息をしないでこの世に長男がやって来た日。
再度息をして、この場所に来てくれてありがとう。今も一緒にいてくれてありがとう。
そう思いながら、ただただケーキを一緒に食べて、笑って過ごした。
4月11日
合格。
次男が6日に大学院の入試を受けていた。
国立を蹴って私立の大学に行った事に、ずっと親に対して引っ掛かかりを持ち続けていたようで、院は国立に行こうと思っていたようだ。
そもそも研究内容で選んだ大学だから、それでよし、院も同じ大学でいいじゃないかと、甥、姪、従兄弟の院卒たちに囲まれて説得されていた。
実は大学から春に内部の推薦入試をするから受けるように、本人にも親にも連絡が3月に来ていた。
悩んだようだけど、周りの意見もあって、やりたい研究は引き続きできるので、内部院試を決意。
そして、この日の発表となりました。
4月18日
平成もあと半月を切ったこの日から、思いもしなかったことが始まります。
私は長男の施設の保護者会に出ていて、家族のLINEに目をやるのが遅れてしまった。
その内容に、既に父親とのやりとりがあり、その後は電話で緊迫した会話になったらしい。
出遅れた私は焦った。
父とは電話で、とにかく何処でもいい、何科でもいいから、歩いているその近くの病院に飛び込め、動けなかったら救急車だ! という会話になっていた。
こんな時、遠くに離れているとどうしていいか分からなくなる。
とにかくとにかく、ひたすらひたすら次男の次の報告を待った。
飛び込んだのは脳神経外科。
直ぐに受け入れてもらい、脳、心臓など、命に関わるところを飛び込み直後に調べてもらえたらしい。
ところが、所見がない。原因不明ということで、様子を見て翌日再診。
4月19日
ベル麻痺という顔面麻痺の診断を受ける。
でも、先生も別の病気も疑いを残していたようで、脊髄にウイルスが入っているかもしれない、ということで、取り敢えず5日間、抗生剤で様子を見ることに。
4月23日
ところが症状はどんどん悪化の一途を辿り、この日都立の病院を紹介されて、翌日の朝一に行くように言われた。
とにかく、みんな不安だった。
きっと本人はもっと……。
4月24日
ギランバレー症候群って………。
翌朝一番に来院すると、直ぐに診察してもらい、そこでギランバレー症候群の可能性があると診断。
午前中の間に、再度紹介状を貰い、救急体制で大学の付属病院に受け入れられる。
6時間に及ぶ検査の結果、ギランバレー症候群であることが判明。
そのまま入院となり、母は翌日の東京行きを決める。
この日は一日中、かわいい彼女が全部次男に付き添って助けてくれた。
泣きながら待っていてくれて、でも本人の前では気丈でいてくれた。
最悪の中に、感謝も積み重なっていく。
そして、私は急遽東京行きのチケットを取って、長男のことを思い出す限りで用意、連絡、お願いをして回って、大急ぎでスーツケースに自分の持ち物を最小限にして詰めた。
長男の寝顔を見ながら願った。
弟は頑張るよ、父も頑張るよ、いろんな人達が任せてと言ってくれたよ、だから大丈夫。