宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

リハビリの道を歩く(次男の旅立ち)

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前回からの続き。

 

次男が大学4年生の時、発症したギランバレー症候群。
寝たきりから何とか歩けるまでに回復した後、退院してからも心配な症状は続いていました。

 

頼りない足取り、瓶の蓋すらまだ開けられない状態からの退院。
それでも、日常の動作から回復を目指すことが、入院を続けるよりも精神的に負担が少なく回復も早いという病院側の判断からでした。

 

いや、何より次男自身の「帰りたい」という気持ちが大きかったのです。

 

確かにそれから、日常の中で暮らしに支障がないくらいに回復をしていくのですが、退院後は体が固まらないように、おぼつかない足取りでリハビリと称して散歩を日課としました。

 

あの日々を思い出しながら、今回はひとりの散歩です。

 

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護国寺

次男と歩いていた頃は、猫がたくさんいるお寺と聞いていましたが、その通りに何匹かの猫さんたちと遭遇しました。

いやほんと、あちらこちらに自由人、いや、猫たちが・・・。

 

(あの時の猫たち↓)

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自由な方達(猫)とまた会えることを期待しつつ、このお寺の守護神様たちに通行許可を得るために、ぺこりと頭を下げて、仁王門をくぐらせていただきました。


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通りま〜す。


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ぺこり。


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当時はこの階段も難関でした。
ゆっくり倒れないように、一段ずつ登ったのでした。


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けれど、慎重に登りつつも思ったよりスムーズに階段を登る様子に、病院でのリハビリを頑張ったんだなぁと実感したのでした。

 

そうして不老門をくぐると観音堂が。
これからの子供たちが、健やかで過ごせるようにお願いしました。


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ところで、階段を上がる前から思ってはいたのですが、あの自由な方達の姿が全く見えません。

どこで自由行動をしているのでしょう。

 

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その代わり、桜の花たちが迎えてくれたのでした。


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天気が悪いので、新緑の青さが写真ではわからないのが残念です。

それでも、目には美しい若い緑の木々の葉が、次男のこれからに希望をくれているようで、なんだか嬉しくなったのでした。


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お大仏様、あの自由な方達は何処に・・・?


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どこにも姿が見えません。


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ここには六地蔵さまや身代わり地蔵さまをはじめ、多くのお地蔵さまがいらっしゃいます。

その中の「一言地蔵さま」は、一言だけ願いを叶えて下さるとのことで、当時は子供たちが健康であるようにお願いしたのでした。

 

今回は本殿でその願いを主張してきたのですが、お地蔵さまには次男が病を克服したこと、無事に大学院を卒業したことを報告し、お礼をお伝えしました。

 

ちなみに、次男は何度お地蔵さまにお願いをしたかわからん・・・と言うとりました。
どんだけ他力本願なん?(笑)


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大仏さまと多宝塔、その間に咲き乱れる桜がなんとも綺麗でした。
あとは晴れてたらよかったんやけどなぁ・・・。


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しだれ桜が見事で、カメラ小僧ならぬカメラおじさん達に囲まれて、モデルばりの活躍を見せていました。

たくさんの綺麗な桜たちの写真が、そのカメラマンたちによって世に出たことでしょう。

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白い桜の花と


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ピンクの桜の花たちが


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すっかり私を癒してくれました。


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下界には春になった東京の街。
田舎者の私には、眩しい限り。
この街で次男は暮らしていたのだと、しみじみとした感情が湧きました。


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あの時も、次男と覗き込んで「金色だ、金色だ!」と盛り上がった手洗い水盤。
今回もしっかり覗着込んで、心の中で「金色だ!」と一人盛り上がりました。

しかしこの手洗い水盤、自噴式で湧水を利用しているというから驚きです。


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さて、再び仁王門をくぐってここを出ます。
あの日々を思い出すには充分の場所でした。
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結局、自由な方達とは一度もお目にかかれず。
おかげで、また訪れなければと、なんだか次回持ち越し的な感覚で護国寺を後にしたのでした。


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この街は緩やかな坂も多く、階段も多い。


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細く入り組んだ道が、リハビリ散歩をさらに面白くしてくれていました。


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病院では何度も階段の上り下りの訓練をして、疲れ果ててベッドで眠っていた次男ですが、確かに坂道と階段の多いこの街には、自然とリハビリができてしまう日常があったのです。


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病院の階段でのリハビリをするという目的よりも、郵便局に行くため、買い物に行くため、その目的のために、この街並みに普通にある階段を昇り降りすることの方が「精神的によい」と言われたことは、確かに間違っていなかったと思うのです。

 


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こんなに面白い街並みがそばにあったこと。


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生活感のある空気の中で、こんな風景を愛しみながら次男は過ごしたのでしょう。

 

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この街を離れることが寂しいと言った次男。
散歩していると、それがとても解る気がするのです。

 

次男を受け入れてくれたこの街に感謝しながら、そろそろ新居に戻るために地下鉄へ。

このお話、もう少し続きます。

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次男の旅立ち

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さて、次男はお陰様で大学院を無事に卒業する事ができました。

 

大学4年生の春に、早々に推薦で大学院入学を決めていましたが、直後にギランバレー症候群を発症して入院を余儀なくされました。

もし推薦に落ちていたら、あるいは一般入試であったなら試験勉強の余裕もなかっただろうし、大学院の2年間はなかったかもしれない。

 

もうひとつ良かったのは、奨学金返済が6年間分であったところ、大学院の2年間の分は全額免除が通ったこと。

なんにせよ、頑張ったことは実際に色んな成果を出せたことで解るし、親としても学費や生活費、住居費などなどなど、資金面でも頑張ってきた旦那には、大変お疲れ様でしたといったところかなと。

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卒業式は本当は両親揃って、そしてできるなら長男も連れて次男の晴れ姿を見たいところでしたが、さすがにそれは難しいので、今回は私が行くことにしました。

6年前の大学入学式は東京住まいの長かった旦那に行ってもらい、住居探しから様々な契約まで頑張ってもらいました。

その間、私と長男はお留守番。

 

そして大学卒業の年はコロナが猛威を振るい、卒業式は各学科の代表数人のみの参加、大幅に縮小された式典でした。

しかし、折角だからと大学に集まった学生たちが、大学で写真を撮りあって、その後集まって飲食もできないことで、そのまま別れたという寂しいものでした。

ちなみに卒業式の日、その行事のことををすっかり忘れていた次男は、研究室に篭っていつものように研究を続けていたのでした。

 

そして大学院の卒業式当日。

私は初めて次男の大学を訪れ、次男の晴れ姿と共に、周りの友人たち、ドクターの先輩、後輩たちと次男の楽しげな姿を眺めながら、良い友人たちに恵まれていたことを知り、心の中で頭を下げました。

 

次男は大学の中も案内してくれて、関係者以外は入れない屋上の望遠鏡も見せてくれました。

精密機械なので気温にはとりわけ神経を使い、夏は効きすぎるほどの冷房の中、寒い冬の空の下でも、暖房もつけられず凍えながら眺めたという望遠鏡。

それでも、何時間でも飽きずに眺める事ができたと。

 

小学生の小さな次男に、私の父が贈った小さな望遠鏡。

その時から、次男は宇宙に関わることを生業にしたいと思ったと言っていました。

 

私の父は法学部で学科は違うものの、次男は父の後輩になります。

天国の父も喜んでいるでしょう。

 

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次男が任されていた望遠鏡。


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向こうに見えるのは新宿。


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次男はこの後駅まで送ってくれて、友人たちと食事をするとのことで戻っていきました。


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卒業式の日は桜もまだ満開とはいきませんでしたが、その日を境に急速に街中をピンク色に染めていきます。

東京の街は桜の木が多く、本当に綺麗な桜並木をあちらこちらで見る事ができました。


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卒業式が終わると、一気に引っ越し準備に取り掛かりました。
今回、これが私が東京に来た大きなミッションのひとつでもありました。

卒業はしたものの、翌日からも次男は大学に投稿論文の関係で行ったり来たりで、なかなか片付けの時間が捻出できず、それで少しの時間を見つけては段ボールに荷物を詰める作業をしていました。

 

そうやって無事に引っ越しを終え、荷物は入社する会社が用意してくれた社宅に収まり、あとはマンションの鍵を不動産会社に返すところまできました。

その日も次男は大学に行かなければならなかったため、私が不動産会社の方に対応することにしました。


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不動産会社の人を待つ間に、6年間お世話になった、すっかり荷物のなくなってしまった部屋を眺めながら、この中にあれだけの荷物があったのかと、6年間の生活の跡は、荷物のなくなった部屋の中にも空気感として残っていて、なんともノスタルジックな気持ちになりました。

 

不動産会社の人が来ると、部屋の確認をして「こんなに綺麗に使っていただいてありがとうございます」と言っていただけました。

清掃費だけ敷金から引きますとのことで、いよいよ鍵を渡すと、不動産会社の人に玄関で見送られて出てきたのですが、それが何とも変な感じがして、その瞬間に次男が住んでいたことは過去になってしまったんだなぁ・・・と、もう入ることのないマンションを出て、次男の住んでいた部屋の窓を見上げたのでした。

 

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私はその窓に向かって小さく頭を下げると、新居の社宅に戻る前に、次男がギランバレーの時にリハビリと称して散歩をしていた場所を少し歩くことにしました。

 

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残念ながら、私の東京滞在期間は曇りの日ばかりでした。

それでも昨日よりも桜は多くの花を開いて、春を教えてくれました。
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住んでいた近くにある神社。

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葵の御紋に少しテンションが上がります。


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あのリハビリの日々を思い出しながら、散歩をもう少し続けます。

                         (つづく)

 

あの時の正門の桜と30年目の春

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桜が咲くと思い出す。

長男が特別支援学校の小学部6年生に、あと三日と進級を控えていた時。

学校の正門には、その年も見事に桜の花が咲いていました。

 

当時は放課後等デイサービスなどはなく、学校のない春休みを、とにかく家を飛び出しいなくなり、時には命に関わる行動をしでかす長男を守り、いっときも気の抜けない日々を過ごしていました。

 

そんな時に、長男の同級生が高熱を出して緊急入院をしたと聞きました。

ウイルスにはめっぽう強い、他県からも患者さんが訪れるという子どもの専門病院。

だからこそ、大丈夫だと思っていました。

 

ところが、同級生の男の子はたった三日・・・たった三日で自宅に帰ってきたのです。

あまりにも呆気なかった・・・後で彼のお母さんから聞きました。

 

このコロナ禍の時代ですが、当時もこんなにも強いウイルスが存在していて、たった三日で彼をとり込んでしまった。

 

笑顔の可愛い、癒し系の彼でした。

やらかしの多い息子の側で、笑って同じ教室に居てくれた子でした。

 

彼は11年間過ごした家に、両親に連れられて帰ってきました。

自宅の仏壇の前に布団が敷かれ、穏やかに眠ったように横たわった彼の側で、近所の子供たちがお別れに泣いていました。

みんな仲良くしてくれたんだと、息子も嬉しかっただろうとお母さんは後で語りました。

 

本当に多くの人たちが集まっていました。

その人たちの周りで、ずっとサザエさんのテーマソングがかかっていました。

「テレビでサザエさんが始まって、この曲がかかると、どこにいても必ず家に帰ってきてたのよ」

お母さんは気丈でした。

でも、きっとそれは火葬場に行くまでの間だったんじゃないかと思います。

 

母だから。親だから。

 

教頭先生が、手折った桜の枝を彼の隣にそっと置きました。

「正門のこの桜の下をくぐるはずだったから。明日から6年生だ」

 

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それから世間に桜が咲く頃、何度か彼の家に別の同級生のお母さんとお参りに訪れました。

そのお母さんは春休みだからと、同級生の子どもさんを連れてきましたが、その子が玄関を開けるや否や、「あー、ああーー!」と言って廊下に上がって走り出し、お風呂場の戸の前でキャッキャと笑いながら手を振り、楽しげにジャンプしたり手をパタパタと動かしました。

 

「あぁ、いるんだね、あそこに・・・」

亡くなった彼のお母さんは、切ないけど嬉しいような、なんとも言えない表情でその様子を眺めていました。

 

確かに、そこに彼はいたのだと思います。

教室で遊んでいたように、その時も教室と同じ時間が流れていたのでしょう。

 

「下の子の年齢が、もうすぐ追い越してしまうんよ」

それから数年後に、彼のお母さんが何気に言った一言。

家の中にも、車の中にも、あの頃の彼の写真が飾られていて、その時の年齢のままの彼が、もう少しで弟に年齢を越されていく。

 

きっと、あの可愛い笑顔のまま。

 

桜が咲くと思い出す。

 

そして、我が家の長男は昨日、30歳になりました。

長男の命は、今も続いています。

 

いつものようにケーキを買って、ロウソクを立てて、ハッピーバースデイを歌うと長男が火を吹き消す。

小さい頃は呼気がうまくいかずロウソクの火を吹き消すこともできず、練習してできるようになった時は本当に嬉しかった。

 

定形で発達していけば、なんてことないことも、できるようになって喜びをくれる息子が、30歳になって、今日もケーキをもっとちょうだいとおねだりをする。

私の皿のケーキの3分の1は、長男のお腹の中に収まりました。

 

いつもと変わらない時間、それが愛おしい時間だと強く認識するのは、私も歳をとったからなのでしょう。

 

大嵐の日にひどい難産で生まれ、一度空に旅立ったものの、もう一度私たちの元に帰ってきてくれた長男。

 

今日も明日も、そして明後日も、いつものように暮らせる保証なんてない。

私も旦那も、いつこの子を残して死ぬかわからない。

私たちが死んでしまっても、幸せに生き抜いてほしい長男に、今何をすればいいか、考える日々が続いているのです。

 


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「とろみのついたお茶が不味い」で思い出したこと

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少し前ですが、ワイドナショーで紹介されていた「とろみ付き自販機」の話を見た時のこと。

とろみの付いたお茶を飲んだ松本人志さんが「不味い!」と言っていましたが、そのシーンで思い出したことが。

 

医療用とろみ剤、料理に流しかけて、飲み込みやすくするために使うなら大丈夫だけど、これを料理する段階で入れ込んで調理したら、嚥下には助けになっても、食べること自体は・・・。

 

という経験の記憶が蘇ってきたわけです。

 

その経験は、次男がギランバレー症候群で入院していた時のこと。

食事の全てに、この医療用とろみ剤が入っていたわけです。

いや、かけられていた、というのが正しい。

 

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このネーミングがまた・・・。

小林製薬ではありませんが・・・。

 

ギランバレー症候群は、気道も潰れてしまうことで呼吸が辛く、息子も指に挟めていたパルスオキシメーターが、いつも「酸素の血中濃度低いで〜!」と警戒音を鳴らしていたのでした。

 

そんなわけで、当然食事も大きめの固形が喉を通っていくはずもなく、毎回届けてもらう食事は、切り刻んだ食材と、この「とろみ剤」がかけられていたのでした。

 

ちなみにこの「とろみ剤」

ある日の看護師さんが「病院の売店で買っておいてください」とのたまいました。

で、母は病室のある10階から1階にある売店へと急いだわけです。

次の食事が来るまでに・・・と。

 

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少しずつ食材は大きくなっていきましたが、この「とろみ剤」だけは必ず食材の上にかけられており、ついにはリハビリの病院に転院するまで続きました。

ちなみに、食事のたびに「とろみ剤」のネオハイトロミールも3本ついてきました。

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病院食にしては、美味しかったそうです。

とろみ剤は、やっぱり食材の上に包み込むように存在しています。

しかも、やはりネオハイトロミールは3本付いてくる・・・。

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これが退院の日の昼食、最後の食事でした。

そして、やはりネオハイトロミールは3本、当然のようにやってきました。

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あれ?

そもそも料理にはすでに「とろみ剤」はかけられているわけです。

そしてご丁寧にネオハイトロミールは、食事の度に使われることなく3本ずつ増えていく。

 

そしてそして、母が買ったネオハイトロミール50本入りの箱は、開封されることなく棚に鎮座している・・・。

 

そして、リハビリ病院に転院した日、母はその箱ごとと、食事毎に溜まりに溜まった分を、全て寝泊まりしていた次男のマンションにお持ち帰りをしたのでした。

 

それにしても病院のコンビニは、当然ながら医療用〇〇が目白押し。

この医療用ストッキングも、やはり看護士さんから言われてコンビニで購入したのでした。

 

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さて、次男はリハビリも最終段階になり、リハビリとして外出を許され、母と、次男にとっての叔母と従姉妹と、電車の旅を楽しみました。

 

スカイツリーの天井で下界を楽しんだ後、食したご飯が完全に固形のご飯。

次男も、普通に食べられることの幸せを知ったはずです。

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さて、溜まりに溜まった「とろみ剤」ですが、東京を離れて我が家に帰る時、箱が邪魔だったので中身をバラして、旅行ケースに全部入れて持ち帰りました。

まぁまぁなお値段だったので、もったいないと料理に使うことにしてのお持ち帰りだったのですが。

 

あくまで、料理の上からかけることを推奨します。

調理の材料として煮たり焼いたりは・・・・。

お察し下さい。

 

こんな我が家のコロナな話⑤ (次男は十日後に下界に戻って来た)

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夏の話を書いているのに、なんと新年明けてしまいました!

しかも、もう明けてからすでに半月以上経っているという・・・このブログの不人気の理由は、中身以外にもここにもありますね(反省・・・)

 

けれど、毎日数人は訪れてくださっていて、本当に感謝しかありません。
有難うございます!

 

遅ればせながら(遅過ぎながら)皆様、新年明けましておめでとうございます。

懲りずに読んでくださっている皆様、今年もよろしくお願いいたします。

 

ちなみに、次男は元旦の夜遅くに帰省して参りました。

今回は、ものの見事に「陰性」でございました。

 

はい。

夏のお話に戻ります。
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昨年の夏は暑くて、こんな野菜がめちゃくちゃ美味しかった季節でした。

頂き物でしたが、本当においしかった・・・しみじみ懐古。

 

そんな暑い中、我が家の2つあったはずのエアコンのひとつが、とうの昔に長男に破壊されて使えないという事態、しかも現在生きているエアコンはリビングのみです。

とんでもなく暑い中を、次男はひたすら2階で隔離されたまま過ごしたのでした。

 

というわけで、次男のために冷風機を購入しました。

エアコンは取り付けに何日も待たなければならず、すぐになんとかこの状況を「マシ」にするための苦肉の策でありました。

 

それにしても暑いので、次男は冷風機を貼り付けたような状態で、ひたすらリモートにて会議、ミーティング、研究をしていました。

何度も言ってしまいますが、こんなに机に向かっている次男は、高校卒業まで見たことがありません。

覚えているのは、放課後部活を頑張り、帰宅後にご飯を食べて爆睡、しばらくして起きてお風呂に入ったら、明日早朝に起きて勉強します・・・と宣言したものの、それも虚しく、朝起きて時計を確認し、絶望の表情をするという毎日・・・今思い出しても笑えます。

 

次男の高校時代、先生たちが威信をかけて、点数が取れない難解な問題を生徒達に解かせるという、謎の模試が定期的に行われていました。

もちろんトップクラスの生徒たちにはなんて事なかったのでしょうけれど、次男にとってはエラい事でした。

なんせお持ち帰りの点数が、先生達の目論みにまんまと引っかかっておりましたから。

 

その中でも壊滅的だった物理。なのに、大学進学を物理でと言い放った時は驚愕しました。
いやいや、そりゃ君は「恐竜」と「宇宙」はお好きでしょうけれど、現実はね・・・。

 

その現実は打ち破れるものなんですね。
好きが現実に打ち勝つ瞬間を見させて頂きました。
高校時代の物理の先生に、なんとかなりましたよ!と教えたい。
いや、親が常識と思っていたことを変えるきっかけにもなりました。

 

好きが研究になって、体内のコロナウイルスと共存しながら、次男はずっと暑い熱い2階で研究をしておりました。

 

 

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ちなみに、濃厚接触者である長男と私たち親は、リモートでの仕事をしつつ、長男のために時間を作ってドライブの毎日でした。

 

次男の気配だけで機嫌が良かった長男は、次男がいないドライブでもなんだか楽しんでいる様子。
人の少ない海や神社に出かけ、空や風や夕日、波の音を感じ取っているように見えました。

 

そして、そんなこんなで次男の感染発覚から10日が過ぎ、体調はそのまま元気印を貫き通して、晴れて次男は暑い熱い2階から、無事に下界へと戻って来たのでした。

 

次男が気配から姿を表したことで、長男はポーカーフェイスを貫いていても、そのふんわりとした空気が私にも感じ取れるのでした。

長男よ、良かったね!

でも、私たち濃厚接触者にはさらに、この先2週間の自宅待機が課せられているのだよ(泣)

 

そして、ようやく本来の目的であった次男運転免許証初回更新ですが、試験場に行くと職員の方に「わざわざ来なくても、住所変更をすれば東京で更新できたのに」と、もともこもない一言をいただいたらしいです。

 

住所変更しても、またすぐに就職後、社宅へと引っ越し変更しなければならないので、まぁいいか・・・と、みんなで納得することにしました。

 

それよりも、次男の帰省で嬉しかったであろう長男のこと、次男がそのまま東京にいて、知らないうちにウイルスを撒き散らすことを多少は防げたであろうこと、コロナ感染者へのサポートをされる方々への感謝、長男の施設やサポーターの方々のあたたかい対応。

そして、家族がこれを無事に乗り越えて行ったこと。

 

コロナは恐ろしいウイルスだけど、そんな中に戦っている人達、人を救うのは人だと改めて知らされました。
こうして関わってくださった方々に、何度だって「有難うございました!」と言いたい!

 

こうして無事に目的を果たし、まだ自宅待機の私たちを残して次男は帰京したのでした。

 

そしてその翌日、次男から「黒いシャツってそちらに忘れてってない?」とLINEが。
「これならあるよ」と写メを送ると
「いや、そんな可愛いのじゃない。」と返信。

そりゃそうだ。これは母が地元の量販店で買った500円のチャリティTシャツ。

そうして日々は過ぎていき、また長男が調子が上がっても崩れても我が家は通常運転。

 

こうして「こんな我が家のコロナな話」は終幕となります。

 

読んでくださった皆様、有難うございました♪

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こんな我が家のコロナな話④(努力は報われる!)

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職場付近の上空は、いつもこんな感じ。

そんな空からも、ここのところ雪が降ってきたりします。いや〜、寒い!

 

こんな寒い寒い年末に、夏の盛りの8月の、暑い暑い日々の中の出来事を書いている私です(汗)

 

さて、自宅療養が決まった次男ですが、あいも変わらず食欲モリモリ元気いっぱい、ひたすら一人自分の部屋に籠って、リモートにて研究とミーティング、会議などに精を出しておりました。

 

私は部屋には入りませんが、食事など運んでドアを開けた時、ドアの外から見かける次男は、いつも机の前に座って2台のパソコンと向き合っている姿しかありませんでした。

 

ちなみに、大学の研究室で全員でオンラインミーティングの時、コロナ感染を告白したらしく、どう反応されるか若干不安だったらしいのですが、准教授が笑ってくれたことで気が楽になったと言っていました。

 

コロナになったことに罪悪感を持ってしまっているのかと思いましたが、今や誰が感染してもおかしくない時期に来ているというのが正直なところ。

さて、問題は長男の陰性か陽性かの判定をするための検査について、どうするかということです。

 

多分、鼻の奥に綿棒を差し込む検査は無理と思われるわけです。
そこでふと、思い出しました。

次男がドライブスルーでやった検査は、唾液での検査だったではないか!

 

待てよ、唾液ならいけるんじゃないか? いけそうな気がするぞ!

 

「よし!唾液を出す練習をしよう!!」


それから、長男のトレーニングは始まりました。
小皿を用意して、その中に唾液を出す練習。
旦那が手本を見せて、それを真似するように指示する。

 

最初はなんのこっちゃ??だった長男は、少しずつ旦那の手本を真似するようになりました。

「よし、これならいける!!」

 

そんな当時はコロナが一番大暴れしていた頃。
何日も保健所からは連絡はないという世間の噂に、不安になりながらも連絡を待ちました。

 

検査についての連絡が最初にあった時、聞いたところ各検査会場は、鼻から綿棒を入れる検査方法と、唾液採取の検査方法と両方ともやっているところは「ない」とのこと。

 

つまり、会場はどこも、検査法はどちらかひとつしかやらないということ。

それならと、唾液採取の検査をやっている会場を希望する旨を伝えていました。

 

結局、保健所からのPCR検査の案内は、最初の連絡から二日後でした。
そしていよいよその三日後には本番となりました。

 

けれど、このタイミングではかなり早い案内だったようで、障害者がいることで優先順位を上げてもらっていたようです。

 

そして案内されたクリニックの会場の検査方法を、再度保健所との電話口で確認すると、鼻から綿棒を入れる検査とのこと。私は

「えぇえーーーーっっっ!?」

と、思わず声を上げてしまいました。

 

こりゃいかん!ってことで、再度、鼻からの検査は難しいこと、唾液を出す練習をしたこと、もし鼻からの検査しかできないなら、長男の通う事業所の男性職員数名が応援に駆けつけると言ってますが、どうすればいいですか??

 

と「えぇえーーーーっっっ!?」を引きずったままの物言いをしたのでした。
それを聞いた保健師さんも慌てて
「そんな事情が!?電話切らないで、このまま待っててください!!」
と言うや否や電話の保留音の音楽が聞こえました。

 

引き継ぎなかったんかーぃ!

いゃ、感染者爆増のこの状況、もぅ文句は言うまい。

 

しばらく待っていると

「受け入れができる会場がありました!唾液の方!!」

 

保健師さんの叫びに近い声を聞いた瞬間、私は「ありがとうございます」を連呼していました。

 

保健師さんが「今から情報を携帯に流しますね」と言われると、会場の場所や時間、検査の流れや注意事項がメッセージに添付されて送られて来ました。

 

コロナが昔の時代に来てたなら、こんなスムーズに情報を受け取ることなんてできなかったはず。

いや〜、昭和のアナログな時代にいた人間としては、情報伝達の進化にも目を見張るばかりですな。

 

さて、その連絡から翌日の正午、旦那、長男、そして私はPCR検査の会場におりました。
そこで受付をすると、長男の検査キットは私たち親のものとは違う場所から持ってこられました。

 

見ると検査容器のキャップの色が、私たちのはオレンジなのに、長男のものはグリーン。
どうやらこれで、また検査の優先順位を上げてもらえるようでした。

 

唾液を入れる容器は細長く。小皿で練習していたので一抹の不安はありました。
しかもストローのようなものを使って検体を入れるということで、さらに難易度が上がっている。

 

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検査は自分たちの車の中でするという決まりでした。
さて、練習の時のように旦那が手本を見せます。
最初、キットを手で払いのけた長男でしたが、旦那の手本を見ているうちに

「あぁ、あれか!」

と解ったみたいで、自分からストローに口を近づけて、どんどん唾液を入れていきました。

 

正直言って、一番うまくできたのは長男だったというオチ。
親子3人のうち、誰よりも早く検体採取を終えてしまったのでした。
練習を頑張った長男の努力は報われたわけです。

 

ちなみに一番遅く、四苦八苦したのは私なのでありました。

 

採取して容器を受付に持っていくと、キャップの色で気付いたのか
「お疲れ様、大丈夫でしたか?」
と聞かれました。

 

「大丈夫でした!実は練習したんです。スムーズにできました」

「よかった!お父様とお母様の協力のおかげですね。ありがとうございます!」

 

そう返って来ました。

 

いやいや、お礼はこちらの方ですよ。

こんな大変な現場で頑張って下さっている、あなた方がいらっしゃらないと何も回らないんですから。

 

あとは検査の結果待ち。
これも世間の噂では1週間後とも2週間後とも言われていたけれど、緑のキャップの威力は大きかった!

 

検査結果は翌日に来ました。
「よかったですね!みなさん、陰性でしたよ!!」

 

そしてその結果をすぐに次男に伝えると、次男は机に突っ伏して
「よかったー!本当に良かったよぉーーー!!」

 

実は、精神的には一番辛かったかもしれないね。家族に感染させていないか不安だったみたいなので。

 

それから長男の関係各所へ連絡。
この後の長い長い自宅待機生活は続くのだけれど、もしものことがあれば福祉関係には特に大きな迷惑をかけてしまうので、本当に心からほっとした瞬間でもありました。

 

さて、次回は長い自宅療養と自宅待機の日々について。

ちなみに明日は大晦日です。

こんな我が家のコロナな話し③(こうして隔離生活は始まった!)

f:id:hisakokk:20211212143932j:imageお寒うなりました。

冷える職場用に買ったこのアイテム。旦那にウケけた割に、職場ではあまりウケませんでした。

 

さて、長いブランクを経ての続きです。

 

「陽性」という画面を見た瞬間、次男は家族に向かって「申し訳ない!!」を連発しました。

帰省理由はともかく、家族に迷惑をかけた、これからの日々を考えると申し訳ないと何度も頭を下げました。

 

感染経路の心当たりは全くなく、ひたすら研究室と自宅の往復。

強いて言えば、暮らしていくために出かけた買い物くらいかと。

 

いわゆる無症状という状態。

 

でも、親としては不幸中の幸いと考えたわけです。

このまま何も知らずに過ごしていれば、もしかして人と接触しない生活での経路でも、どこかでウイルスのお裾分けをしていた可能性はあるわけです。

 

しかもこの先、無症状から症状が現れた時のことを考えると、側にいてくれる方が緊急事態に行動できるし、把握もできると思ったわけです。

 

ということで、まず民間の検査場から告知された、陽性者に対する今後の動きという項目を確認して、指定された医療機関のクリニックに連絡を入れ、再度正式に検査を受けることとなりました。

 

クリニックには旦那と次男で赴き、駐車場に着くとクリニックに連絡。すぐに看護師さんが駐車場までやってきて、そこでそのまま問診となりました。

 

熱はありますか?  いいえ。

倦怠感は?  ないです。

というくだりから、とりあえず体温計で熱を測り、36.9度・・・。

看護師さん「う〜ん・・・」とうなり

「微熱ってことで・・・」「倦怠感も少しって書いておきます」

 

本来、無症状ならざっと一万七千円ほどの検査代がかかるのですが、この文言があるおかげで保険対象となり、無料としていただいたわけです。

しかも丁寧に対応していただいたとのこと。

 

検査結果は電話連絡しますとのことでしたが、朝早くに検査だったのに、クリニックから電話がかかってきたのが夜の11時頃。

個人クリニックでしたが、皆さんこんな時間まで働かれているということだと理解しました。

本当にお疲れ様、ありがとうございますと頭が下がる思いでした。

 

で、結果めでたく陽性確定。

次男、隔離決定!

 

翌朝いちばんに保健所に連絡を入れたのですが、その頃ちまたで言われていた対応の遅さなど全く感じることもなく、むしろ丁寧で何度も電話してきてもらったという印象です。

 

ちなみに体調確認も毎日電話でありましたしね。

未知のウイルスが巻き起こす事態に、過酷な中に頑張っている人たちがこんなにたくさんいる。

よもやの事態でしたが、そう知るきっかけにもなりました。

 

保健所からは保健所の電話番号の他に、非公開の感染者専用の番号、濃厚接触者の番号が伝えられ、少しでもおかしいと感じたら直ぐに連絡してと言われました。

聞き取った番号は、リビングの一番見えるところに貼っておきました。

(番号のところは加工してます)

 

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無症状ということで、基本自宅療養であるとのこと。

福岡市は、40歳以降の年齢でなければホテル療養が案内できないとされているけれど、我が家には障害者がいるということで、優先してホテルでの隔離療養ができるが、どうしますか?と聞かれました。

 

陽性発覚から、次男は自宅の2階に隔離されたわけですが、全く顔が見れないというのに、長男は次男の気配だけで嬉しいのか、本当に機嫌が良かった。

それに、何かあった時に、知らないところで対応されるよりも、次男を側に置いておきたいという思いの方が強かったので、ホテルの件は辞退しました。

 

さて、長男の対応も考えていかなければならない。

直ぐに通所している福祉事業所、利用している施設全て、相談支援センターに連絡を入れ、今後の対応を話し、密に連絡を取ることになりました。

ちなみに事業所は、抗体検査にて全員陰性と聞いた時にはホッとしました。

 

この後、感染した本人は無症状のまま何もなければ、陽性が発覚した日から10日後に、無罪放免となる説明を受けました。

私たち家族は濃厚接触者として、感染者との接触がなくなった日から更に2週間の自宅待機が義務付けられています。

 

実は次男が直ぐにホテルに移っていたら、その日が感染者と接触がなくなった日として、私たちはそこから2週間待機でしたが、次男を自宅療養にしたので、次男の隔離10日間を経て、それから更に2週間が濃厚接触者の解放されるまでの期間となります。

 

ということで、まるまる24日間を、隔離者と待機者たちという立場でひとつ屋根の下の1階と2階で過ごしました。

 

さてさて、この後に避けられない難関が立ち塞がります。

それは長男も受けなければならないPCR検査。

 

鼻から検体を採取する方法は、下手すると暴れるだろうしトラウマになりかねない。

悩んでいると、長男が通所している事業所が、いざというときのために男性職員を数名派遣する提案をしてくれました。

 

でも、もし長男も陽性なら皆さんに迷惑をかけると言うと、防護服着ますという回答。

一瞬、ちょっと映画みたいなカオスな画が頭によぎってしまった。

でもでも、それもなんとか避けたいと必死で考えを巡らしたのでした。

 

しかし、そんなこんなで壁を乗り越えて、実は長男も無事に検査に成功したのですが、それはまた次回。

 

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ところで、保健所から「パルスオキシメーターを、ご自宅に送りました」と連絡が入りました。

パルスオキシメーターは、すでに次男はギランバレーの治療の時に経験済み。

コロナのおかげで、一般的にも「血中酸素濃度を計測するメーター」と周知されましたね。

これが、お役所からレンタルで届くわけです。

 

どのくらい酸素が足りないか指に挟んで計測する、洗濯バサミみたいな小さな機械なんですが・・・

【コロナ=息が苦しくなる=パルスオキシメーターで計測】

というのは、メディアでもよく取り上げられてましたね。

 

で、それが我が家にもメール便で届きました。

その配達を委託された業者さんが、我が家のインターホンを鳴らすや否や、そこらじゅうに響くほどの大声で叫んでくれたわけです。

 

「パルスオキシメーター、お届けに来ましたーーーーー!!」

 

いやいや、それ、どこの自宅療養者のいる家の配達でもやってるんですかね??

 

驚きました。

配達員さんの声によって、この家は感染者のいる家ですよ!と言ってるようなもんです。

ここのご近所さんは理解あるけど、これは地域によっては、コロナ差別の原因になったりするかもしれない。

 

配達員さん、それはないわぁ・・・。

つづく。