長男の今年の誕生日は、じいちゃんが天国に行ってから丁度1ヶ月だったので、1日遅らせてお祝いしました。
といっても、ただケーキを買ってハッピーバースデー歌って、ロウソク吹き消して食べるだけ。
それだけでも、満面の笑みで手拍子しながら、嬉しそうにロウソクを消す26歳なんて、そうそういないよね(笑)
なんだかね、その姿見てると、ホント幸せだなぁ〜と思える。
世の中、障害児産んで、ショックで立ち上がれなかったり、周りから避難受けたり、途方に暮れてたり……そんな家族はいっぱいいると思う。
大変な年月過ごして、何度も心折れて、そして何度も立ち上がって、何度も頑張って、何度も諦めて……けれど、生きてるだけで、幸せだと感じるこの瞬間は、必ずやって来るんだよ。
しかも何度だって。
だから、何があっても生きていれば、それだけでいいと思う。
26年間、よくぞ死ななかったよ。
そう思うような事件や事故は、たくさんあった。
交通事故に遭ったり、2階から落ちたり、液体洗剤を飲んでしまったり、都市高に駆け上がったり、丸一日どこかに行ってしまって探し続けたことだってある。
長男が生まれた日、平成4年4月9日。もの凄い嵐の日だった。
不思議なことに長男の誕生日は、嵐の日が多い。だから、毎年のように思い出す。
長男は難産の末生まれてきた。
帝王切開の出来ない医師だったので、後に搬送された病院からは、無理して引っ張られてストレスが強かっただろうと言われた。
生まれた瞬間は何となく覚えていて、医師にお礼の言葉を言ったところは覚えているけれど、その後は私は担架で病室まで運ばれて、長男はすぐに病室には来なかった。
当日、一人病院に居た私の母は、明らかに長男の体の色がおかしいと思ったらしい。
旦那はちょうどその頃、嵐の中の揺れる船の中で演奏中だった。
その後、私は少しずつ回復していったものの、長男は病室に数時間やって来ては保育器の中に戻って行くのを繰り返した。
医師の説明では、重症黄疸だとのことで、結局生まれて10日後に総合病院に搬送されることになった。
搬送は旦那が自分の車ですることになった。
私は動くことができず、一緒に義母と私の母も同行してくれたが、この時ほど旦那は運転に緊張した日はなかったと語った。
車が揺れないように、自分の初めての子供が疲れないようにと、あの旦那が、ゆっくり平らな道を選びながら車を走らせたそうだ。
その車中で、義母と母が医師から預かった紹介状の封が、また信じられないことに開いることに気付き、いけないかも知れないと思いつつ、二人はその中の診断書を見て驚いた。
医師からは一言も説明されなかったことが書かれていたのだそうだ。
それは、臍帯が首に巻いていて、結構な時間仮死状態が続いていたということだった。
それでも息子は息を吹返した。それから、頑張って生き始めた。
長男は一度死んで、そして帰って来てくれた。
NICU(新生児集中治療室)に運ばれて、そこの医師は「正直、今運ばれて何が出来るか、どんなことが起こるか分らない」と言った。
長い間、息をしていなかったことに、どんなリスクが付いてくるのかも分らないというものだった。
私も数日後には起き上がって、それから毎日、車で40分の道のりを母乳を届け、長男に会いに通った。
周りの赤ちゃん達はみんな、手の平ほどに小さくて、体にたくさんの管が入っていた。
長男は生まれるまでは普通だったので、体重は3,296グラムもあった。
もう、長男が大きいんだか保育器が小さいんだか分らない感じだったけど、まわりの赤ちゃんを見ると、うちはとんでもなく大きく見えて、こんなデカくて保育器に入ってごめんなさい……って思うほどだった。
結局、生まれて19日目にしての退院となった。
それから、私が障害を疑いだすのに7ヶ月、やっと診断名がついたのが、間もなく3才になるという頃、長男、人生初めて脱走をやらかしたんだった。
玄関から青い長靴が消えていて、本当に焦った。
やっと見つかって警察に迎えに行った時、おまわりさんに何度も何度も謝って、私は家に帰る車の中で涙がボロボロ出て止まらなかった。
長靴を履いて、日が暮れだして、物や人が黒い陰にしか見えなくなった町中を、たった一人で歩いていたのかと思うと、申し訳なくて辛くて、もうボロボロ泣いた。
そして、生きていてくれて良かったと抱きしめた。
探している間ずっと思っていたことは、生きていてほしいと、本当にそれだけ。
当の本人はというと、そんな私の顔を見ながら悪びれもせずニコニコと笑ってみせて、私の頬をパンパン叩いた。
きっと、長男の小さな手の平は濡れてしまったろう。
この先も、私はあの日のことは忘れられないだろうな。
そうして、今日で26才と1ヶ月と1日。
今日も生きている。
幸せだな〜ってこれからも思いたいから、今日も一緒に生きていくよ。