前回のブログで書いたように、令和も2年が終わり3年が始まった頃に、我が家は長男の啓示を受けつつ新しい年を迎えました。
そして令和3年の最初の日が暮れようとした頃、次男が帰省して来ました。
次男は東京住まいであることから、それは幾つかの質問から始まり、確認をするところから帰省決定への流れとなったのでした。
まず、体調が良いこと。
キャンパス内に感染者が出ていないこと。
研究に没頭して不要不急の移動、外出をしていなかったこと。
移動には主に徒歩で、殆ど公共交通機関を使っていなかったこと。
ということで、GOサイン発令となったのでした。
空港はガラガラ、人との接近や接触をするには、わざわざ近付かなければならない程の人しかおらず、遠くに立っていた次男を直ぐに見つけられたレベル。
さて、かくして次男は昨年3月から10ヶ月ぶりの帰省を果たしたのでした。
しかし世間はコロナな毎日で、しかも寒波に襲われるわ雪は降るわ。
まぁ、そうでなくても外を出歩くことはなかったでしょうが。
それにしても、長男は次男を待ち続けていました。
弟が帰ると聞くと、いつものようにカレンダーとにらめっこ、指を差しながら「いつだ?」と聞いてきました。
そして帰省した次男がその日から夕食に同じテーブルを囲むと、長男は次男の顔を何度見もしながら、でへへっと笑うのでした。
それからの長男の機嫌が良いこと良いこと。
次男が帰京した今でも、まだそれは続いています。
さて、次男は帰省してから何をしていたかというと、朝から夜遅くまでひたすらパソコンの前にいました。
何やら英文の論文を読み、突然暗号のような計算式を紙一面に書いて計算を始め、またパソコンに向かって何かを書き込み、殆ど休みもせず毎日、それをやっていました。
それに時代というかご時世というか、オンラインでの研究室や宇宙ステーションの解析班のミーティングもやっていました。
次男は中学高校と部活をしていて、家にいる時間のほとんどは寝ている姿ばかりを見てきたので、思わず
「いや〜、こんなに長時間、勉強している姿は見たことなかったわぁ〜」
と言うと、口をパクパクする次男なのでありました。
そんな次男を囲んでよく出る話しは、やはりあの時のこと。
ギラン・バレー症候群で緊急入院してからの日々の話です。
病院で過ごした日々から、退院しての1年7ヶ月。
実は……と次男の告白が始まりました。
とにかく早く退院したかった。
だから自分でも相当カラ元気出してたと思う……と。
本当は歩くのも不安だった。
いつ転ぶか怖かった。
それでも看護師さんや療法士さんには、大丈夫です!と言い切っていたと。
まだ上手く歩けない、すぐコケてしまう、体力もない、すぐ呼吸が上がって熱も出やすい、
ペットボトルの蓋さえまだ開けられない状態で退院したのは、本人の強い意志からでした。
とにかく頭の中から、退院の2文字が渦巻いて離れなかったんだと思う。
まぁ、知ってたよ。
相当無理して、平気なふりしてたことくらい。
リハビリの担当だった理学療法士さんと、実は次男のいない場所で話したんだよね。
本人が今の段階で退院したいと言い出したのは、入院自体に相当ストレスが溜まっているからだって。
リハビリは今やっていることを、ひたすら繰り返してやるだけだけど、幸い若いから、自分で日常で機能訓練をすることはできる。
ストレスを溜めて入院を続けるよりも、自分の生活の場で頑張る方がいいだろうって。
だからそれ、知ってたんだよね。
次男は声に出さず、そぅかぁ〜という顔をしていました。
今頃になってだけど、話の流れでたまたま話したのか、言いたかったのか……。
そうやって、高校時代まで殆ど見せてこなかった勉強姿をガッツリ公開し、退院時の不安だったことを告白まで終わらせた次男は、東京が緊急事態宣言を出した直後に大学に戻って行きました。
望遠鏡、覗かなきゃいけないからだそうで。
そうですか。
まぁ、好きなことだからガンバレ。
来た時よりも更に人がいなくなった空港で、また長男との「またね」を交わし、ゲートに消えて行った次男。
さて、今度会えるのはいつでしょう。
ますます帰省が難しくなる可能性もあります。
でも、好きなことをやっていることで、ギランバレーにやられてストレスを溜めていた時とは違い、しっかり地に足をつけて歩いていけるでしょう。
親はエールを送るのみ。
もう、やってあげられることはなくなってきています。
頼もしくもあり、寂しくもあり……。
そうやって、子どもは巣立っていくのでしょう。