3時間能古島の旅の思い出

時はコスモスの季節。
旦那、素材作りに「ちょっとコスモスを撮りに・・・」と言ってきました。
この日は平日。
長男を福祉事業所に預けている間に、任務を全うするつもりのようで。
旦那から「来ない?」とお誘いを受けましたが、う〜〜〜ん・・・と悩みました。
旦那は一旦撮影に入ると、当然ですが私のことは完全放置です。
でも長男もいないのであれば、私も自由に散策できるやん!貴重な時間やん!!と思い直し、同行することにしました。
長男は朝、事業所に行くために家を出発する動作にも、なかなか時間がかかります。
待つしかないので、それを横目に長男がよっこい腰を上げるまでは、旦那も仕事を始めたりするわけです。
旦那の場合、パソコンがあれば就業場所は問わないので、レンタルスペースと家で作業をしているのですが、作業は一旦始めればすぐに止めるわけにもいかないのが常。
それでも旦那の中で長男の動きを読み、時間の折り合いをつけながら、作業をするのがマストです。
この日も長男が腰を上げ、事業所に送り届けたのが12時前。最近の出勤時間です。
能古島までは、陸が繋がっていないので船を使います。
船出航が12時15分、何とか間に合いました。

能古島までの船の旅は10分ほど。
平日なのに人は多め。

海の風と波の音が心地良い。
能古の港に着いたら、そこからバスに乗ります。
目的は、、能古島アイランドパークに広がる一面のコスモス畑。

噂には聞いていたけれど
いや〜、圧巻です。
空に向かって咲き誇るコスモスたちに、既にすっかり魅了された旦那から、早々に放置された私なのでした。
こりゃ私が先に帰っても、絶対わからんパターンやな。
てなことで、私は私でこの旅を満喫することにしました。

あらら。
どなたさんで…。


覗きながら圧をかけるのはやめてほしい……。

コスモス畑を抜けてしばらく散歩をすると、赤い金魚さんに遭遇。

そういえば子供の頃、富山の薬売りさんなる訪問販売さんが、子供がいる家にはこのような油紙でできた紙風船をプレゼントしてくれたものです。
私の子供の頃というと、そんなものがおもちゃだったりしました。

古民家の中に昔の生活を再現した、古い家電ならぬ生活の必需品が展示されていました。
旧山下家だそうです。
そういえば、田舎のこんな環境の中に私は住んで育ったわけです。
釜戸がある土間には、自分より大きな私の遊び相手の犬がいました。

釜戸の薪を集めたり、時に割っていたのは私の姉や兄の仕事で、思えば幼い子供たちの仕事だったのだろうかと、今では考えられないことです。
お陰で、すっかりここでは思い出と共に時間が止まってしまいました。

こんな簞笥もあったし、大きな鍵穴のある飾り金具が、装飾にあった記憶があります。
小学校の時の机と椅子といえば、まさにこれでした。
魚の形の木彫りは、今でいうインターホンです。
木のハンマーで叩いて、訪問を知らせたわけです。
これでピンポンダッシュはムリですね。

旦那の実家は、今もこの洗い場が残っています。

大きな梁(はり)は、リフォームされた旦那の実家でもそのまま剥き出しで利用されていて、そこに旦那お手製のブランコをぶら下げて、子供達が遊んでいました。
昔の家では珍しくない天井風景でしたが、今は古民家を利用したカフェなどの、特別な空間でお目にかかるくらいでしょうか。

ネジで動くこれと同じ柱時計が、私が大人になっても私の実家の柱で動いていました。

釜戸は徐々にガス釜の時代になります。
それも今となってはレトロなお話。
火鉢も今やインテリアです。

今で言うダイニングはこんな感じでしたが、私の子供の頃、我が家ではすでに囲炉裏はありませんでした。


玄関も引き戸でした。
鍵もねじねじぐるぐる回して閉める単純なもので、補助的に引っかけるだけのアオリドメがついていたりもしました。
今思うと、なんという無防備さ。
ここにもさりげに付いている三角形の国旗立ても、どの家の玄関にもあった記憶があります。

実際、こんな感じの板張りの部屋でした。
今の建築を考えると、私もかなり昔を生きてきた人間だとシミジミ・・・。
木のおもちゃはどちらかというと贅沢で、遊んでいたのはもっぱら現役を引退した茶碗や鍋、庭の道具など、生活密着型の本物志向と言えますね。
ちなみにこの後、大学生らしき男子達が、羽子板で遊んで大盛り上がりでした。
昔は日本のお正月というと、羽子板は最初に思いつくアイテムだったんですけどね。

流石に私の子供時代もこの電話機の姿は見ることがありませんでした。
電話は家庭内に普及していて、いわゆる黒電話が一家に一台の時代でした。

三輪のトラックは普通に走っていました。
それにしても・・・
「使った後は 元の場所に戻して下さい。楽しくあそんで ちゃんとかたずけましょう。」
一瞬二度見(笑)
実際に元に戻すのはこちらの道具でした。
竹馬は本来は竹でできていますが、遊んでいた記憶はしっかり残っています。

家には井戸もありましたよ。
おや?
こちらの住人ですか?


ここに来て旦那登場。
「おぉ、猫だ猫だ!!」
早速カメラを構えていましたが、もうコスモスは気がすんだんかい。

このお方の目的は、こちらにありました。

おぅオヤジ、じゃまするぜ。
開けてくれ。
そんな声が聞こえてきそうです。
もう少し歩くと、幼稚園バス(?)に乗った子供達を、お母さんが優しく見送っている姿が。

いってらっしゃい。

さらにもう少し行くと、ヤギさん一家に遭遇。

そんなこんなで「3時間能古島の旅」は、長男を事業所にお迎えに行く時間が迫ってきたため、終了となりました。
再び船に乗り、博多湾を縦断して姪浜へと10分の船旅です。

たった3時間。
でも、圧巻のコスモス達と、いろんな記憶と出会った旅でした。

いつの間にか、それは脈々と。(写真編)

写真が最大の趣味だった義父のカメラを旦那が引き継ぎ、今度は旦那が「おじいちゃんの形見」として、ひとつのカメラを次男に託した。
その古いカメラは、たくさんの自然や街並み、人の織りなす一瞬の出来事を切り取る役目を、現役で三代に渡って引き継いでいる。
まだ暑い日に、次男はそのカメラを持参して数日間の帰省をしてきた。
ということで、せっかくだから・・・と、長男が事業所にいる数時間を使って、旦那と次男、そして私の三人で、市内の街を見渡せる山の上の展望台にカメラ持参で訪れた。

目的地に着くと、早速三脚を立てる旦那。
眼下に見える街並みや海を撮るのかと思いきや、どうやら雲の動画を撮るらしい。

次男はというと、これまたのんびりとフレームを覗き込んでいるけれど・・・君がレンズを通して見ているのも雲か〜いっ(笑)



実際に天気はだいぶ怪しい方向へ。
雷も鳴り出している。
まるで山の上から雲が爆発したように発達してきている。




下界はこんな感じ。
ちょっと上を見ると、雲の上に雲が噴き出しているように見えて面白い。
雲が近いのも、自然の大きさを感じて何とも気持ちがいい。
あ、だから雲を撮りたいのか??

旦那と次男が、ここでどんな写真を撮ったのかは、実は知らない。
雨が降る前にと退散したけれど、この高い展望台に来てまで雲を撮っていた二人。
なんかね。うん。なんかね。
親子だねって、ちょっとニヤニヤな私だったりする。
ちなみに、そんな父子が切り取った場面はこんな風である。

SNSでちょっとバズった旦那の切り取り風景。
朝4時に「ちょっと行ってくる!」と出かけて撮ってきたのがコレ。
今や「光の道」で有名になった宮地嶽神社の「月の光の道」
そして次男はというと・・・

世界コンテストで入選だったらしい。
その後、東京のコンテストで銅賞、ニューヨークで銀賞……そちらは建築物のフォトだけど、フレームの中の映像は、これまた親子よく似てる。
そんな次男。
実はこの帰省の少し前に、可愛い彼女を我が家に連れてきてくれた。
しかも次男が彼女と計画をして、旦那と私と長男に、ホテルでの食事をプレゼントしてくれた。
旦那と長男は彼女とは初めましてだったけれど、翌日も行動を共にして過ごして、旦那がポツリと一言。
「笑顔の多い子だね。うん、よかった」

そして、晴れて次男は今月、彼女と家族になりました。
旦那も安心したよね。
笑顔が増えるよ。
うん、よかった♪
いつの間にか、それは脈々と。(音楽編)

次男はよくフェスに出かけては、自分の好きなアーティストの音楽にどっぷり浸かっているようである。
よく言われるのだけれど、親の姿を見て育ったね・・・というのは、実際は違う。
次男の好きな音楽は、私と旦那のジャンルの中には全く入っていなくて、いわゆる今時のバンドに精神を持って行かれているようだ。
(ただね、旦那はもちろん多分私も、聞かせてもらえれば楽曲のあれこれは語れると思う)
ちなみに長男も障害が重いものの、音楽は自分の楽しみにしていて、ジャンルとしては邦楽洋楽とかなり広い。
ただ、長男に関しては親の影響は受けていると思われる。
昔、旦那も今以上にバンドをしていて、私も長男がまだ小さい頃は旦那のどさ回りによくついて行った。
生音に慣れているので、重度自閉症とはいえ、三つ子の魂が30過ぎても存在しているようだ。
旦那と私は初めて会った時、お互いそれはそれは印象が悪かった。
なんで距離が縮められたかというと、お互い聴くも演るも音楽の系統が似ていたことかな。
高校生の頃から私は、当時のアイドルも流行りの曲もさして興味がなく、バンドマン以外にあまり音楽の話の合う人がいなかった中で、旦那とはさして良くもなかった印象を飛び越して、ついつい音楽だけは話が通じてしまった。
ついつい・・・から先があるとは、その時は全く気づかなかった。
旦那は中学生の頃はブラスバンド、高校生になるとすっかりバンドに取り込まれていて、当然のように学校のステージにも立って、当時の昭和の先生に「エレキなんかしていたら不良になるぞ!」と言われていたそうだ。
いわゆる、The 昭和!な時代。

そんな旦那の大学時代。
義父の影響を受けて、当時は讀賣ジャイアンツのファン。
東京の大学に進学したおかげで、すっかり球場に通う日々に明け暮れることになる。
そしてある日、どんな心臓を持っていたのか、持参したトランペットの音を後楽園球場で響かせた、1番最初のヤツとなった。
そこから鳴り物仲間が集まりだし、当時の巨人選手の応援歌を作り、今も旦那の作った応援歌はたまに球場で鳴っていたりする。
義父と旦那の「野球好き」という共通点は次男にも引き継がれた。
旦那は野球をプレイすることはなかったけれど、よもや次男が野球を始めるとは思ってはいなかったようだ。
旦那と次男、その後二人の手にトランペットが持たれることはなかったが、よくこの父子は地元の球場にも足を運び、旦那もこの頃になると、すっかりホークスファンと変貌を遂げる。
母が全く分からない試合の戦略を語ることで、同じものを見ていた二人には何だか羨ましくもあった。

実をいうと旦那は、東京で社会人をしていた頃、友人とユニットを組んでメジャーデビューも果たしている。
CD発売とともに東京から実家に戻され、家を継ぐことになり、次回作は無くなった上に廃盤になってしまったけれど、それでも今もファンの方はいらっしゃるようで有り難い。
正直このアルバム作成に集まったメンバーは、かなりの大物揃いだったりもする。
それに結構長い間、テレビの番組中のBGMや、ドラマの挿入曲にも使われたりしていた。
ある日、私が次男を連れて買い物をしている時に、有線で店内に曲がかかった時はちょっとぶっ飛んだ。
それからの旦那は、地元に帰ってからも声をかけてもらってバンドに参加していた。
旦那との結婚前に私は、バンドマンたちから「クリスマスや世間のイベントの日は、自分たちの時間はないと思ってくれ」と言われた。
正直その通りになった上に、長男誕生の日も旦那は船の上で演奏していた。
ただ旦那はバンドから一時期離れていたこともあり、次男は長男と違って父親が演奏している姿を見たことがなかった。
その頃は旦那は仕事が忙し過ぎて、次男と好きな音楽を語り合うこともなかった。
それで旦那は音楽から完全に離れていたかというと、全くそうではなくて、仕事のために相変わらず曲は作っていたし、それは仕事部屋で行われていて、ヘッドホンで音が外に漏れることもなかったので、次男は長男のように父親が演奏する音楽に、常に触れているということはなかった。
けれど大学生になった次男は、すっかりフェスやライブに通うようになっていた。
ただ親とは聴く音楽のジャンルが違うだけで、いつの間にか音楽を楽しむことができる大人になっていた。
そういえば義父も音楽は好きで、エレクトーンを弾いたり、お酒が入ると夜中にレコードを掛けて一人部屋の真ん中に座っていたりした。
次男が私たちとは聴くジャンルが違うように、義父と旦那も聴く音楽のジャンルは全く違った。
ジャンルはともあれ、子供達も人生の中に「音楽を楽しむ」という時間を大事にしていることが嬉しい・・・な〜んて思ったりしている。

📷福津の海 早朝の月と海(旦那写す)
還暦祝いが秀逸すぎた件

今年、還暦、厄年、年女の私。
そうして無事に、その日はやってきたのでした。
とはいえ、例年通りサプライズなし、特別に何かするわけでもなし、お祝いの席もなし、いつものように自分でご飯を作り、スーパーから買ってきた、まだ食べている途中の私のケーキにフォークを近づけて、はいはい、僕にくれるよね、と私の皿の上のケーキを長男に強奪される。
もちろん、赤いちゃんちゃんこも着なければ、赤い大黒頭巾もかぶる事もなく。
もうね、厄年はこれまでがこれまでだったので、どんと来い!
そんで、年女ってなんかある? と聞かれても、生まれた時が辰年だったので、今年も辰年です・・・っていう以外に、思い浮かばないのでした。
そして、還暦迎えて数日後、用事ができて旦那と出かけたその日、たまたま3COINSの中を通り抜けている最中に、旦那が突然「これ、買う?」と。
それがコレ↓

なんとも怪しいビジュアルながら、実はマッサージボールなのでした。
還暦、肩こり、首こりな私。
おー! 買ってくれんの?
ということで、旦那に買ってもらいました。
「あれ?ってことは、これ、還暦祝いじゃん!」
「おぉ、そうそう、還暦おめでとう!」
めでたくないけど、買ってもらいました。三百円で。
でも、これが以外に秀逸なアイテムでした。
なかなか気持ちがいいので、時間さえあればクルクルガリガリやってます。
良き還暦祝いでございました。
三百円だけど・・・笑

ところで還暦を迎えた途端、何も変わらない日々の中にも、一つだけ変わったことがありました。
というより、より強くなった、が正しいかも。
それは、この先の自分の命が短くなっているという実感が、昨年より半端なく強くなったこと。
長男を残してこの世を去ることに、まだ解決できていないことが多すぎて、精神に焦りが、どどん!とのしかかってくるわけです。

そんな最中に、次男から「還暦祝い贈るよ〜〜」との連絡。
「そんなん、気を遣わなくていいよ〜、自分の生活を大事にしなされ〜」
と返事をすると、やりたいからやってるんだよ、と。
思うに、次男からの初の「お祝い」ではないかっ。
こんな日が来ようとは・・・シミジミ。
そして、玄関に置き配されていたのがコレ↑
箱のデカさに驚いた母でした。
開けてみると、椅子・・・物入れ・・・
にもなる・・・


フットマッサージ機でした!
私より旦那が先に足突っ込んだので、旦那に喝を入れつつ、スイッチを入れてじっくり堪能。
母にとって、夢のマッサージ機でした。
こんな日が来ようとは・・・。
つまり、次男はしっかり自分で生活をできるまでに、独り立ちをしたということなんだよなぁ。
親がこんなでも、子は育つんだなぁ。
それにしても、父子でマッサージアイテムを選択するとは。
ちなみに次男いわく「全身マッサージは置き場ないと思ったので、足だけでも・・・」
大丈夫です。
上半身については、すでに三百円アイテムが解決してくれております。

結婚式記念日と長男32年目のお話

気づけばこのブログ、半年も放置していました。
まぁいろいろありましたが、そのいろいろは今後ボチボチと書きたいと思います。
ということで、今回は結婚式記念日と長男の32年目のお話。
さて結婚式記念日だった日、『さくらまつり』なるものに出かけました。
しかもライトアップされた夜桜。
長年住んでいるとはいえ、ようやくお初に訪れることができました。

ひとひとひと、凄い人出でした。
さすがに、こんな人混みの中を自閉症の息子を連れて歩くのは難しい。
最近は花粉症と気圧のあおりか、若干調子もおよろしくない長男。

しかし、この日は旦那と私で訪れたのでした。
長男はというと、夕方から翌朝までの短期入所の事業所でお泊まりです。
『さくらまつり』が開催されているこの日に、図らずのタイミングで短期入所を入れてもらうことができました。
このタイミングでないと見れなかった夜桜。
今まで、長男を預かってもらえるタイミングがこの時期に重なったことはなく、ずっと見ることができなかった夜桜。
旦那と二人での、こんな外出はある意味奇跡なんです。
33年前の結婚式は、旦那のお父さんのためのイベントみたいなもので、私も旦那も、出席者の殆どを知らない人で締められていて、文金高島田でずっと、その知らない人に挨拶をしていた1日でした。
当時の田舎あるあるです。
夜桜のあとは、あの猫型ロボット活躍中のファミレスで食事をすませました。
幻想的な桜を鑑賞した後でも、折角だから食事も贅沢をしよう・・・とはならなかった私たち。
そもそも、夫婦で居酒屋に行ったことすらありません。
自分たちにお金を使うとか慣れてない……いやぁ慣れてないです。
そもそも、重度の自閉ちゃんがいたら、贅沢な外出は難しいお話で。
いやいや、それでも今回は十分贅沢でした。
良い時間を下さったスタッフさんに、感謝。

我が家は、このようにたくさんの人達に支えられながら暮らしています。
長男と向き合ってくれる人たちがいるからこそ、こうして生活をしていけるわけです。
そうして今年も、無事に長男の32年目の誕生日を迎えることができました。
壮絶な32年間でしたが、それでも生きてきた尊い32年間です。
命に関わることなんて何度もありました。
長男よ、32年間よくがんばりました。
そして私たちも。
そんなこの日に、いつものようにケーキを買いに親子3人で出かけました。
長男が選んだのはホールケーキではなく、かわいいイチゴのショートケーキ。
ろうそくをもらってくることもなく、パーティでもなく、ちょっと贅沢な食後、という感じです。
旦那と私でハッピーバースデーの歌を歌うと、長男はケーキの上に刺さっているわけでもない、、火がついているわけでもない、見えないろうそくにフーッと息を吹きかけました。
この先、こんな誕生日を何回迎えられるだろう。
私たち親が、あと何回祝ってあげることができるだろう。
長男32年目。
またこれからも、生きていきましょう。

やさしい町

長男は毎月、「行動援護」という福祉サービスを使ってヘルパーさんと外出を楽しんでいます。
行動援護とは一般には聞き慣れない言葉ですが、ワムネットが以下のように説明しています。
↓↓↓
行動援護とは<ワムネットより>
![]()
行動に著しい困難を有する知的障害や精神障害のある方が、行動する際に生じ得る危険を回避するために必要な援護、外出時における移動中の介護、排せつ、食事等の介護のほか、行動する際に必要な援助を行います。
障害の特性を理解した専門のヘルパーがこれらのサービスを行い、知的障害や精神障害のある方の社会参加と地域生活を支援します。
長男と行動援護について、こちらのサイトにも記事を書いています。
↓↓↓
長男のヘルパーさんたちは、本当に頑張ってくださっている。
親以外と外で過ごす時間は、障害のために外出が困難な人たちにとって、本当に貴重な時間になるのです。
実はへルパーさんと外出する機会を持つことができる人たちは、障害が重くなればなるほど難しいのです。
最大の理由は、支援できるヘルパーさんの数が足りていないこと。
長男も今のヘルパーさんたちに出会わなければ、それは叶わなかったわけです。
つまり、長男はラッキーな出会いをしたということではあるのですが・・・。
でもね、本当はラッキーなんていうこと自体、変なんです。
だって、誰しも同じように使えるはずの福祉のサービスが、受けられる人と受けられない人がいる・・・。
申請を許可する地域と許可しない地域、ましてやほぼ使えないという地域さえあるようです。
この格差を埋めていくことは急務のはず。
また福祉事業所においても、運営上に点数の加算の付く研修を職員の多くが受けています。
けれど実際現場では、支援できるヘルパーはとても少ない現実があります。
スキルを上げるための研修は、机上ではなく、もっと現場でやるべきだとの声はたくさん上がっています。
でも実際問題、なかなか進んでいかないジレンマがあります。
今、厚労省でも検討会も行われていて、少しずつ進み始めてはいるものの、先は長そうだなぁ。
もしかしてそれが進んで、福祉サービスがもっと受けやすくなって、バンバン使える頃が来たとして、その時私は生きているんだろうか。

さて、ようやく本題。
今回のお話は、先日その行動援護を終えて帰宅した時に、ヘルパーさんが報告の中で教えてくれた、ちょっと感動的なお話。
町を歩いていた長男たちが、すれ違った工事現場の人たちの優しい心遣いと、暖かさを受け取ったというエピソード。
暦は秋というのに、その日も暑い日。長男はいつものように歩く歩く。
それにヘルパーさんも、汗をかきかき付き合ってくださる。
怪我がないように
楽しい時間が作れるように
豊かな1日となるように
そして長男の笑顔が増えるように。
その道すがらに道路工事があっていたようです。
道路のアスファルトを剥がす重機の音は、大人でもかなり不快。
自閉症の長男は相当辛いはず。
けれどその道を通らなければ先に進むこともできません。
長男は、いつものようにキュッと顔をしかめて両手で両耳を塞ぎました。
それをどうやら、工事現場で作業している人たちが気づいたようです。
サッと重機のエンジンを切ってくれたのだとか。
どうぞ通ってねと誘導してくれて、長男とヘルパーさんが通り過ぎ、しばらくそこから距離が空いたところで作業が再開されたようです。
そして折り返しての帰り道、その現場を再び通ることになってしまったものの、現場の人たちは長男たちの姿が見えた時点で重機のエンジンを切ってくれたのだとか。
しかも通り過ぎて、かなり離れたところまで立ち去った後に、工事は再開されたそうです。
実際、その対応で工事は効率が悪いことになるのでしょうが、ヘルパーさん曰く、しっかり長男を意識して、嫌な顔ひとつせず皆さんで待ってくださったのだとか。
ヘルパーさんも、行きは偶然かな?とも思ったそうですが、明らかに帰りのその様子に「僕らのこと、ちゃんと見てくれてたんでしょうね」と。
なんだか、とっても温かい気持ちになりました。
こんな思いやりが、優しい町を作っていくんだなぁ。

町の中での心のふれあいは、外出が叶わなければ経験することもありません。
けれどヘルパーさんたちの力を借りれば、外出は叶うのです。
障害が重くても、人の優しさは理解することができます。
誰しもが人の優しさに触れながら、豊かな一日を過ごすことが当たり前の世の中になりますように・・・。
見えない先への勇気に、背中を押し続けた言葉をくれた人の話

長男が生まれて1歳になろうとかという時、私はすでに長男の障害に気付きつつも、自分の中で「違うかもしれないから」と折り合いをつけながら暮らしていました。
しかし、その後もモヤモヤが晴れることはなく、ついに自分の中で「障害がある!」と確信を持って認めてしまったその日から、少し自分の中のものが変わっていったように思います。
何が、と言われてもなんなのか、その正体はよくわからないものの、少し覚悟というか、自分が流されずに受け止めようと、自分の中に芯を持つことを決めたのだと、今にしてみれば思うのです。
私はそもそも、若い頃から障害を持った子どもたちとの交流もあったので、何となく一般的な生育歴を辿ることはないだろうとは思いました。
その後図らずも早々に医療に繋がれたことから、長男の障害については明らかにされることになります。
その後はいろんなことがあり、私の根性が試されることも頻発し、どんなに心が折れても、明日を迎えることを日々重ねていったのでした。
ただ、長男の障害が明らかにされた3歳ころは、まだ長男と私たちの生活の将来など考える余裕もなく、漠然とした不安だけはありました。
これがもっと年齢がいった頃に診断されていたら、将来の進路や生活については、もう少し想像していただろうと思います。
ちょうどその頃のこと。一本の電話がかかってきました。それは旦那の、東京時代の上司に当たる人からの電話でした。
旦那の同僚だった人から番号も聞いて、今かけているのだと。
その同僚さんは、長男のことを上司さんに伝えたのだそうで、その上司さんは旦那に、私に電話を代わってくれと言うのです。
一度も会ったことのない人から電話なんて、一体何だろう・・・同僚さんも何を上司さんに話したのか?
謎だらけの電話に出ると、電話の先は上司さんからその奥さんに変わっていました。
そして、いきなりこう切り出されたのでした。
息子さん、自閉症だって伺ったんですが・・・。
はい。と答えると、奥さんはしっかりとした言葉で話を続けました。
私に何としてでも伝えようという思いが染みるような、とても綺麗で上品な声の語りでした。
奥さんによれば、上司夫妻の息子さんが自閉症だということ。
今(当時)、高校生だということ。
東京の街で、親子で生活をしているということ。
息子さんの障害は決して軽くないこと。
それでも自分の意思が言えるようになったこと。
買い物にも行けるようになって、電車にだって乗れるようになったこと。
そして、こう言われました。
「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つのよ!」
この言葉を、何度も繰り返されたのでした。

長男がその後保育園に受け入れられてからも、将来のことなど見えることもなく、漠然とした思いは続きました。
そうこうしているうちに、他の園児たちは卒業までに小学校入学への準備が始まりました。
そこで長男も学校探しが始まり、他の子達とは違う進路へ進むことが決まります。
親である私たちも通ったことのない養護学校に、長男はどんな形で通い、どう成長するのか。
でもそんな時に、忘れていたあの言葉を突然のように思い出すのです。

次男が生まれ、2年後に長男の学校を必死に探して決め、そのために引っ越しをして、激動の時間を過ごしました。
その間、息子たちのことも、私たちの生活も、何も見えないままに決断と行動を続けました。
何もかもがバタバタと動いていく中に、長男が学校に入学すると、その時にまた、あの言葉を思い出すのでした。
この頃のバタバタ劇について、一切の後悔がないことは今も声を大にして言えます。
全ては今のためにあるのだと。

学校に通う頃には、長男はこの地域でも難しい子供だと、学校中、福祉関係者の中にも知れ渡ることになります。
毎日が精一杯の暮らしの中に、今日も家族で生きていたと実感することなど何度もありました。
毎日生きて、今日も生きて、明日も生きよう。
そんな中に、養護学校の高等部に進学しないことを決めたのは、少しずつ長男にとっての先を読めるようになってきたからなのだと思います。

その頃には、ずっと先は見えないけれど、ちょっと先、数年先は想像できるくらいになりました。
そしてまた、思い出すわけです。
はい。息子たちはもちろん、私たちも、親育ちが少しずつできている気がします、と。

それから長男は、いろんな出会いをもらい、長男を根気強く理解しようとする人たちに囲まれて、自分の思いを伝える術も身につけました。
長男の障害は決して軽くない、むしろかなり重いということ。
それでも自分の意思が伝えられるようになったこと。
買い物だって、電車にだって、長男を理解してくれる支援者と一緒なら乗れるようになったこと。
あの時の奥さんの言葉は、要所要所で私たちの背中を押してくれていたのです。
あの日電話で、奥さん自身の深い経験を私に重ね、私が良からぬ思いを抱かないように、子供を信じるように、そして私がずっと立ち続けていられるように、それを伝えようとしたのだと思います。
申し訳ないことに、そう気付くには少し時間がかかってしまいました。
そしてその想いに報いるためには、今度は私が誰かにそう話す番なのかもしれません。
「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つ!」

