長男が生まれて1歳になろうとかという時、私はすでに長男の障害に気付きつつも、自分の中で「違うかもしれないから」と折り合いをつけながら暮らしていました。
しかし、その後もモヤモヤが晴れることはなく、ついに自分の中で「障害がある!」と確信を持って認めてしまったその日から、少し自分の中のものが変わっていったように思います。
何が、と言われてもなんなのか、その正体はよくわからないものの、少し覚悟というか、自分が流されずに受け止めようと、自分の中に芯を持つことを決めたのだと、今にしてみれば思うのです。
私はそもそも、若い頃から障害を持った子どもたちとの交流もあったので、何となく一般的な生育歴を辿ることはないだろうとは思いました。
その後図らずも早々に医療に繋がれたことから、長男の障害については明らかにされることになります。
その後はいろんなことがあり、私の根性が試されることも頻発し、どんなに心が折れても、明日を迎えることを日々重ねていったのでした。
ただ、長男の障害が明らかにされた3歳ころは、まだ長男と私たちの生活の将来など考える余裕もなく、漠然とした不安だけはありました。
これがもっと年齢がいった頃に診断されていたら、将来の進路や生活については、もう少し想像していただろうと思います。
ちょうどその頃のこと。一本の電話がかかってきました。それは旦那の、東京時代の上司に当たる人からの電話でした。
旦那の同僚だった人から番号も聞いて、今かけているのだと。
その同僚さんは、長男のことを上司さんに伝えたのだそうで、その上司さんは旦那に、私に電話を代わってくれと言うのです。
一度も会ったことのない人から電話なんて、一体何だろう・・・同僚さんも何を上司さんに話したのか?
謎だらけの電話に出ると、電話の先は上司さんからその奥さんに変わっていました。
そして、いきなりこう切り出されたのでした。
息子さん、自閉症だって伺ったんですが・・・。
はい。と答えると、奥さんはしっかりとした言葉で話を続けました。
私に何としてでも伝えようという思いが染みるような、とても綺麗で上品な声の語りでした。
奥さんによれば、上司夫妻の息子さんが自閉症だということ。
今(当時)、高校生だということ。
東京の街で、親子で生活をしているということ。
息子さんの障害は決して軽くないこと。
それでも自分の意思が言えるようになったこと。
買い物にも行けるようになって、電車にだって乗れるようになったこと。
そして、こう言われました。
「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つのよ!」
この言葉を、何度も繰り返されたのでした。
長男がその後保育園に受け入れられてからも、将来のことなど見えることもなく、漠然とした思いは続きました。
そうこうしているうちに、他の園児たちは卒業までに小学校入学への準備が始まりました。
そこで長男も学校探しが始まり、他の子達とは違う進路へ進むことが決まります。
親である私たちも通ったことのない養護学校に、長男はどんな形で通い、どう成長するのか。
でもそんな時に、忘れていたあの言葉を突然のように思い出すのです。
次男が生まれ、2年後に長男の学校を必死に探して決め、そのために引っ越しをして、激動の時間を過ごしました。
その間、息子たちのことも、私たちの生活も、何も見えないままに決断と行動を続けました。
何もかもがバタバタと動いていく中に、長男が学校に入学すると、その時にまた、あの言葉を思い出すのでした。
この頃のバタバタ劇について、一切の後悔がないことは今も声を大にして言えます。
全ては今のためにあるのだと。
学校に通う頃には、長男はこの地域でも難しい子供だと、学校中、福祉関係者の中にも知れ渡ることになります。
毎日が精一杯の暮らしの中に、今日も家族で生きていたと実感することなど何度もありました。
毎日生きて、今日も生きて、明日も生きよう。
そんな中に、養護学校の高等部に進学しないことを決めたのは、少しずつ長男にとっての先を読めるようになってきたからなのだと思います。
その頃には、ずっと先は見えないけれど、ちょっと先、数年先は想像できるくらいになりました。
そしてまた、思い出すわけです。
はい。息子たちはもちろん、私たちも、親育ちが少しずつできている気がします、と。
それから長男は、いろんな出会いをもらい、長男を根気強く理解しようとする人たちに囲まれて、自分の思いを伝える術も身につけました。
長男の障害は決して軽くない、むしろかなり重いということ。
それでも自分の意思が伝えられるようになったこと。
買い物だって、電車にだって、長男を理解してくれる支援者と一緒なら乗れるようになったこと。
あの時の奥さんの言葉は、要所要所で私たちの背中を押してくれていたのです。
あの日電話で、奥さん自身の深い経験を私に重ね、私が良からぬ思いを抱かないように、子供を信じるように、そして私がずっと立ち続けていられるように、それを伝えようとしたのだと思います。
申し訳ないことに、そう気付くには少し時間がかかってしまいました。
そしてその想いに報いるためには、今度は私が誰かにそう話す番なのかもしれません。
「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つ!」