宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

他の学校とは一線を画したイレギュラーな交流が生んだもの

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長男が通った養護学校(現・特別支援学校)は、公立の小学校と中学校に挟まれている。つまり、小学校と中学校、養護学校の三校が横一列に並んだ状態で建っている。

 

長男が小学校に上がる時、学校を選ぶために何校も見学に回った。市内全部の養護学校、支援級のある学校の主な所は殆ど見て回ったと思う。

その中から一校を選択するに当たって決め手になったのは、その三校間の交流と環境ののどかさだった。

特に小学校と養護学校の生徒間交流は、多分他の学校とは一線を画していた。

ほとんどの学校は授業の中でお互いの発表の交換や誕生会といった、プログラムの中で構成された大人が作ったと言ってもよい交流だったけど、この小学校と養護学校はなんとも違っていた。

 

まず驚いたのは昼休み時間だ。

チャイムとともに、小学校から養護学校に子ども達がなだれ込む。

養護学校のグランドの遊具が子ども達であふれかえり、小学校の生徒も養護学校の生徒もごちゃごちゃに混じって遊ぶ。しかも、みんな名前で呼び合っていた。

変な話し、ただ友達同士で昼休みに遊んでいるだけの光景なのに、これが養護学校の親からしてみれば、何とも言えない感激を覚える光景なわけで。

多分、世の中の障害児の親にとっては、こんな普通のことが我が子にとって遠い事のように思えるから。

でもここはそれを、ただただ普通にやっていた。

「交流」とは大人が言っているだけで、子ども達は休み時間、ただ普通に遊んでいる。

ただそれだけのこと。

 

交流授業と銘打った時間もあった。

養護学校の教室の外に穴を掘って水を溜め、小さなプールにして遊んだり、畑でひたすら穴を掘って遊んだり。

ただ授業時間なだけでやっぱり遊びだったけど、小学校の子ども達にしたら、色んな子がいるという生きた授業にはなったに違いない。

長男はちゃんと名前で呼んでもらってたし、学年は違うけど次男も小学校側から来校して、兄以外の障害を持った子達と遊んでいた。

 

これは、この地域にも大きな役割を果たしていて、遊んだ事を親達に話しくれることで親達の理解も進んでいたし、子ども達の名前も覚えてくれた。

受け入れてもらえる事がどんなに嬉しく有り難いか、そう思えることがどんなに幸せか。

 

3度目の引っ越しは、この学校の近くに越して来た。

表札をつけると、その日の内に一人の男の子、一人の女の子が訪ねて来てくれて、息子の名前を呼んでくれた。

彼らはうちの隣と斜め前に住んでいて、珍しい名前だからすぐ誰が越して来たか判ったと言ってくれた。

これは凄いことだと思ったし、息子の名前を呼んでもらった時、これからここに住むことに私自身が妙に安心したことを覚えている。

それはイレギュラーな交流のお陰に他ならない。

 

 

でも、この取り組みは双方の学校の先生方の努力なしには実現しなかったはず。

当然、先生方は休み時間であろうと見守りに回らなければならないから、大変な労力だっただろう。トラブルも避けなければならなかっただろうし。

親としては、いくら感謝しても足りないくらい。決して忘れてはいけないと思っている。

 

それから年月が経ち、少しずつ世の中が変わって来て、学校は危険な事は出来ないということなのか、先生達の勤務形態に影響を及ぼすという理由からか、交流の形が変わり始めた。

退化したというか、他の学校に近づいたというか・・・。

寂しいことだけど、特別支援学校の生徒数が息子の時代から倍に増えて、昼休み交流は厳しくなって来たんだと思う。

 

親達も少しずつ変わって来た気がする。地域で暮らすということよりも、教育、療育に力を入れることが最優先になっているのかも知れない。

それに、学校トップが変わると学校も変わってしまうことが多い。

色んなことが重なって、学校も変わっていってしまうのかな。残念だなぁ・・・。

 

今はもう昼休み交流もなくなってしまったけど、あの時間があったからこそ、長男は子ども達と地域に受け入れてもらえたし、次男は兄のことでいじめられることがなかった。

 

学校のあり方は地域にとって影響が大きい。

あの時の学校を、もう見ることは出来ないのかなぁ・・・(泣)。

 

 

 

都市高逆走の話し(車じゃない方)

私の職場の若い子が自閉症の講習会を受けて来ると言ったので、講師が誰か聞いてみると、長男の養護学校(現・特別支援学校)時代に大変お世話に・・・というか、悩ませてしまった先生だった。

割とこの地域のこの世界では有名な先生なんだけど、ウチの長男はその上を行っていて、どんなに物事を構造化しても、どんなに整理してみても、全て台無しにしてくれていた。

申し訳ないというか、ウチの自閉ちゃん、自閉症の中の定型と違うんでないの?ってくらい、自閉症の中でも変わっている。

もう、ここだけでは書ききれないからぼちぼちと・・・(笑)。

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きっと、ウチの息子の名前は忘れられないだろうから聞いてみてよと言っておいたが、やはりというか当然覚えられていて、しかももう一人の講師の先生もウチの長男をよく知っていて、(というか、障害重過ぎて有名人)名前を言った途端、「あの、都市高を逆走した子でしょう?」と逆に聞かれたそうで・・・。

 

あ、それね。

数ある武勇伝の中の一つ「都市高逆走」がトップ3あたりに入っている感じなんだそうな。

てか、料金所で捕まったので逆走まで行っていないんだけど。

 

その頃の長男は未遂も含めて日に5〜6回は家から脱走していた。

足が速いので私では追いかけられず、いつも車で追いかけていたけど、ちょっと細い路地に入り込まれると車の進入が出来なくて逃がしてしまう。

その日も同じで、見失った後私はてんで見当違いの場所を探していた。

 

暫くして私の携帯が鳴って、出ると養護学校のS先生だった。

S先生は流通センターのあるトラックや車の多い道路を、実に良い姿勢で走り去る息子を見かけて、都市高の料金所に向かって裸足で走って行く息子を止めようと、なんとその交通量の多い道路の都市高の登り口の下に自分の車を乗り捨てて、息子を自分の足で走って追いかけてくれた。

料金所で息子が御用となった所で、私に連絡をくれたようだ。

取り敢えず、逆走はしていないという事なんだけど・・・。

 

時間的にも渋滞が激化している中、S先生にも料金所にも、S先生の乗り捨てた車辺りを走る車も、都市高に入ろうとする車にも、迷惑をかけてしまった。 

私が何度も謝っている間も息子は平然としていたけど、多分マズいなとは気付いていたと思う。

S先生は料金所で息子をむんずと捕まえたまま、肩で息をして髪も乱れ、若いお姉さんなのに、その時は一気に5才年を取ったかのような疲れた姿だった。

 

私は車で追いかけていたので、車でそのまま都市高の料金所まで来てしまったが、追いかけるために家を出る時、免許証と携帯しか持って出なかったので、お金の持ち合わせがなかった。

それを料金所の職員さんに伝えると、一枚のメモ紙みたいな書き付けを渡されて、それには「未払い600円」と書いてあった。

「あの、この子、療育手帳を持ってるんですけど・・・。」と言ってみたけど、料金所の人は「あぁ、そう。これは次に通る時に払ってね。」とだけ言われたので、「はい。」と返事して、S先生にもう一度お礼を言ってからそのまま都市高に乗って家に帰った。

療育手帳は都市高料金が、本人同乗で半額になるんだけど・・・。

皆様に迷惑を掛けてしまったし、ちゃんと後日、都市高に乗った時に600円支払いました。

さすがにここで療育手帳を出して、割引してもらうのは気が引けたし。

 

ただひとつだけ、S先生の話しでは信号機が赤の時は横断歩道で止まって、青になってから渡ったとか。

命に関わると思って、何とか覚えてほしいと4年間信号を教え続けていたけど、結局理解は出来なかったと思っていた。

思わぬ所でそれをちゃんと理解出来ていたと分かって、そこだけは何だか報われた気がした。

 

どうやら、この話しが講師の先生方のトップテン上位入りだった模様。

でも、ウチでは上位はまだまだ他にもありますよ・・・。

なんせ自閉症の定型から外れた自閉ちゃんなもので(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阪神淡路大震災、あの日に熱でうなされていた私が見た風景と祈り

家族とは関係ない話しなんだけど、23年前のあの日、夜中にずっと夢を見ていた。

ネタではなくて、その夢で見たものは街が壊れていたり火事が起こっていたり、散々な風景だった。

でもそれ、予知夢なんてものではなくて、私は小さい頃から発熱して体温が高くなるとよくそんな夢を見ていたので、朝目覚めた時に「あぁ、今日は熱があるな。」と思った程度だった。実際熱は39°を超えていて、やばいなぁ・・・と思っているうちにフラフラとして立ち上がれなくなった。

そんなもうろうとした中、朝一に病院に行こうと支度しながら見たテレビの風景は、驚きとともに今も忘れられない。

あまりにも夢とそっくりだったから。

再度言うけど、私には予知夢なんて力はない。

多分、ニュース映像が衝撃的過ぎて、夢と現実がリンクした瞬間だったんだろうな。

 

当時住んでいた家の隣が救急病院で、何とか歩いて行って診てもらうと、「流行に乗ってますね。」と一言。そうだろうとは思ったけど、やっぱりインフルエンザだった。

おかげで、23年前のこの日にインフルエンザにかかったことは、震災とともに忘れることはない。

 

街の被害が報道されるに連れて、親戚や友達の住む場所が正にその倒壊や火事のまっただ中にあるとわかり、今程の安否確認の手段なんて直電くらいしかなくて、連絡するのもはばかる状態だった。

 

そんなこんなで私は一週間もの間高熱にうなされ、毎日変な夢に悩ませられながら、やっとの事で復活を果たした頃、親戚や友達の安否も伝わりだした。

 

義弟嫁の話しでは、たまたまその日疲れていて体が動かず、洗濯物をベットの側に置いていた事が幸いしたと言っていた。それがクッションになって自分は怪我せずに済んだと。何が幸いするか分らないと笑っていた。

淡路の旅館の嫁になった友人は、幸い旅館は厨房が生きていて、震災直後から炊き出しをして周りに振る舞っていたらしい。生まれたばかりの息子さんを遠く実家に預け、街のために、生きていくために頑張った。

灘区に居た友人は、アパートの隣のビルが倒壊、そのビルに寄りかかった形でアパートは倒壊を免れ、落ちた天井を何とかくぐり抜けて脱出したらしい。でも、気持ちが元気になるまでしばらく時間が必要だった様だ。

 

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大阪の友人達も、家の中も外もぐちゃぐちゃだったらしい。

でも、みんな生きていた。試練がしばらく続いても、みんな頑張っていた。

 

私は何も出来なかったかど、熱がどんどん上がる中、本当にあの時は神頼みをした。

今となっては、あの震災を神様が起こしたのか、神様が親戚と友人を救ってくれたのか分らないけど、あの時の「自分は無力だ!」という感情は、筆舌し難い始めての経験だったと思う。

 

あれからもみんな元気です。私も元気です。

元気という言葉は実は重い。

これからもみんな元気で。私も元気で。

 

 

 

参拝直前に願いが叶ってしまった件

毎年、旦那さんは十日恵比寿神社に参拝に行きます。

 そこで祈願した後、初穂料を支払って福引きを引くんですが、毎年、色んな縁起物が当たるんです。

これがお目当ての人も多いってことは、周りを歩いている人達で一目瞭然。

今まで一度も同じものが当たったことはなくて、今年は何だろ〜・・・なんて、ちょっとした楽しみになってる訳です。

 

いやいや、もちろんダイソンの掃除機とか、最新性能のノートパソコンなんて当たりませんよ。神棚に掃除機とか鎮座してたらおったまげです・・・いや、そもそも神棚に乗らないって(笑)。

本来、洋風のおしゃれな家の中に置きでもしたら、その雰囲気を瞬時にぶち壊す破壊力のあるものですよ。

 

そもそも十日恵比寿祭りは1月8日から四日間あるんですね。今日は二日目でした。

で、旦那さん、パソコン画面を見つめて悩んでいる。

 

 

「この三日間、ちょっと時間がとれないなぁ。行くとしたら今日しかないんだけど・・・。でも、仕事がなぁ・・・。」

 

 

何をおっしゃいますか、旦那さん。今日は私もおりますがな、私も一役買いましょう・・・と、行く気満々で提案してみました。

いつも横を素通りで行ったことがなかったので、一度参拝に行ってみたかったんですもん。

 

提案は受け入れられ、入念に作戦を練ることとしました。

いや、やることは単純でしたけど。

 

 

毎年、朝早くから参拝客は並び始め、長蛇の列ができるそうです。

で、私が並んでいる間、旦那さんは事務所でひと仕事終わらせ、連絡を取り合いながら私が本殿に近づいた頃、旦那さんも境内の中に入って並んでいる私と入れ替わる・・・という算段です。

 

シュミレーションは完璧でした。

 

まず、必ず「最後尾」という看板を見つけてそこに並ぶ事。

「最後尾」は参道を大きく飛び出している可能性が高く、参道に入る前に周りの道路に長い列が出来ていないか確認する事。

本殿到達までは最低でも40分は掛かるという事。

途中から参拝の列と福引きの列に別れるが、参拝の方に並ぶ事。

 

初体験の私に、くれぐれも・・・と言われて、使命を帯びて別れました。

 

斯くしてそれは実行されました。

まずは「最後尾」の看板を見つける。

ところが、参道に飛び出している列が見つかりません。しかも、どんどん先に進んでしまう。参道の中にも、列らしき列が見つからない。

あれ?あれ?もしかして列を見逃した?列って途切れないから、それはないでしょ。

進んでも進んでも見つからずキョロキョロしていると、「あった!」

遂に見つけた「最後尾」は、本殿にとっても近くにありました。その間、40分どころか4分も掛かってないし。

あわてて旦那さんに連絡しましたよ。旦那さん、当然Uターンでした。

 

いよいよ神殿近く、6列に並ぶように指示された所で旦那さん登場。サササっと入れ替わりました。

列から弾かれた形になった私。初体験ゆえ、また要らん事を考えました。

 

旦那さんは参拝もすぐ順番が来るはず。なら、今度は福引きで列に並んでおこう・・・と。

 

並んだ途端、すぐ初穂料支払いとなってしまいました。料金は二千円。財布の中を見ると、一万円札が一枚。

初穂料だから、もしかして一万そのまま納める事になるのかな?と、少々ドキドキ。

でも、ちゃんと頂きましたよ、お釣りの八千円。お釣りは八千円と三千円で予め用意されていたみたいです。

でも、初穂料なんですよね、実は・・・なんだかなぁ。

もちろん、一万納めるのは痛すぎるんですけどね。

 

その流れで、なぜかついつい福引きの列に並んでしまい、旦那さんがなかなか来ないので、「列にいるけど?」と携帯メッセージを送ると、「え?そこから出て!」と返信が来ると同時に、神社の人に手を引かれて福引きの箱にそのまま突っ込まれ、引かざる得ない状態で棒を摑みました。

 

「ますます繁盛〜!」

 

渡して下さったものは、神様や小判などの縁起物がザクザク入っている大きな升でした。

やっちまった。

旦那さんには、「これは私が貰うから、自分で引いて来て。」と送ると、にっこりマークの返信。

で、旦那さん。

「干支の皿〜!」

 

はい。旦那さんの顔を見て、交換して上げました。

干支の皿(素焼きで粉も散るという・・・)は、今、我が家の玄関にあります。

 

 

さて、後々気付いたんですが。

「最後尾」が見つからず、ミッション遂行が危ういと思った時、ずっと「最後尾」見つかりますように・・・と願って参道を歩いていたんですよね。

私、参拝前どころか、列から離れたので参拝すらせず、既に願いを叶えてしまっていたんです。

それって・・・。

 

 

皆さんにとって、よき一年になりますように。(合掌)

 

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ブログ始めました。

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福間海岸 相島

ブログお初な私です。

 

 

私も最近、オバちゃんとして良いお年頃になりました。

そのせいか何かにつけて、色んな記憶が頭の中にちょこちょこ顔を出すようになりまして・・・。

せっかく顔を出すので、備忘録よろしく、そのちょこちょこな奴さん達を書き留めて、私の老後の楽しみにしようと思った次第です。

 

あ、皆さんを巻き込んでしまってすみません。

せっかく書くので、たまにお付き合い下さい。

 

ただただ記憶の書き付けにすれば、昔を懐古しながら修行のように反省ばかりになりそうなので、気軽に書いていきたいと思います。

 

 

 

我が家の宇宙人達(登場人物)

 

  • 旦那・・・仕事の肩書きが謎過ぎて、人に聞かれても答えられません。Web関係みたいですが、ささやかな会社の社長さん、たまに専門学校の先生をしてます。

 

  • 長男(ひろちん)・・・自閉症の26才。日本語はおろか地球語すら話さない。発するのは多分、宇宙語な気がする。

 

  • 次男(さとちん)・・・小さい頃は恐竜博士。「どこか行きたい?」と聞くと「地層見に行きたい!」と答えていた彼。現在も地球と宇宙LOVEな理系大学生。

 

※登場人物についてはH30年9月更新

 

この三人との、時々楽しく、時々あり得ないような、そんな日々の今昔を書き綴っていきたいと思います。

 

よろしければ時々、見に来て下さいね。