宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

今日、次男はアメリカに行く

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次男坊から「もうすぐ荷物詰め終わるよ」とLINEが来た。同時に、持参する日用品かれこれ、買い物の支出を表にして送って来た。

 

次男は大学二年生。大学受験で第一志望の大学だけ落ちた。「はやぶさが地球に帰って来る。それに関わりたいな」そう言って受けたが、希望は叶わなかった。

後期で受かった国立大学には、銀河系の権威の教授がいた。なのに、彼は私立の大学に行かせて欲しいと言って来た。

 

今の大学との縁は、地元の本屋から始まった。本屋の前で次男は二人の青年に「ここは地元で一番大きな本屋ですか?」と声を掛けられ「そうですよ」と答えたらしい。

普通だったらここで話しは終わるだろうが、何故かそこで三人世間話に発展したそうだ。

青年の一人は、地元帝国大学の大学院に通っていて、もう一人は関西の有名難関大学を卒業して就職をしたばかりと言ったらしい。

その時受験生だった息子に、受験する大学はどこかと聞いて、その全ての大学に知り合いがいるから何かあった時連絡して、と自分達の連絡先を渡してくれた。

 

それから次男は第一志望を落ち、後期に受かった国立大と、気になっていた私立大の二つの間で悩んでいた。受験した大学は、自分の夢のためにシラバスも進路も調べに調べ上げていたので、親としては懐具合から国立が助かるんだけど、それでも後悔だけはさせられないので、自分でどちらか選びなさいと言っておいた。

 

悩み抜いた次男は「私立大は地元会場で受けたから、実際大学を見に行かせて欲しい」と言って来た。旦那も私も少し驚きはしたけど、行ってくれば?と伝えると、早速、本屋で出会った青年達に連絡を取り、青年達の知り合いにも連絡を取って、次男は東京まで飛んだ。

一人大学に突撃すると、案内役を買って出てくれた学生と会い、その後は1人オープンキャンパス状態だったらしい。

突撃して来た受験生がいると噂を聞きつけて、教授達まで研究室から出て来たらしく、学びたいと思っていた宇宙物理学の教授も出て来て、大学をわざわざ案内してくれたそうだ。

研究室や望遠鏡、今後関わる宇宙探査機の話しまで、次男のために長い時間を割いて下さった。有り難い話しだ。

その後は案内してくれた学生に学食でおごってもらい、何時間も話し込んだらしい。

 

そうして、国立大学入学申請の前日、次男は私達親の前で頭を下げた。

「親不孝します。私立に行かせて下さい。銀河系ではなく、その外を研究したいです」

 

次男は最後は何でも自分で決める。だから本人は後には引けないし、引いたことがない。本当に頑固者だ。

それを知っているから反対はしなかった。通帳を覗くと、かなり泣けては来たけれど(笑)

 

 

小さい頃の次男は、よく女の子と間違えられていた。マクドナルドやファミレスで子供がもらえるおもちゃは、次男が小6位まではどの店員さんからも、迷いなく女の子用を差し出されていた。

でも、好きなものは恐竜で、見るテレビというとディスカバリーチャンネルヒストリーチャンネルがほぼメイン。どこか行きたい場所は?と聞くと、TDLとかUSJなんて思いも付かないようで「地層を見に行きたい」とキラキラの目で答えていた。おじいちゃんに貰った望遠鏡で空を眺めるのも好きだったな。

興味を持つものを並べてみれば、やっぱり男の子だなと思う。

しかも好きなことは、今の今でもブレていない。

 

そんな次男だが、生まれた時はすでに重度の自閉症の兄がいたわけで、案外苦労はしたとも思う。

そういえば次男がまだ3〜4才だった頃、玄関先で転んでしまって、鼻血を出して服を真っ赤に血に染めて大泣きしたことがある。その時、長男が脱走を図ってダッシュしたので、私は次男をそのまま置き去りに長男を追いかけ、10分後やっと捕まえて戻って来ると、次男はそのままバイオレンス状態で立ちすくんでいたっけ。

長男はいつも脱走していなくなる。夜寝る前にもよく脱走されて、私はやはり次男を置き去りにダッシュで家を出て追いかけた。

旦那は当時、仕事で毎日夜中も2時を過ぎないと帰って来れなかったので、次男は夜なのに一人置き去りにされ、一人で待っていてくれた。

外国なら、児童虐待で私は逮捕かも知れないな。でも、次男まで小脇に抱えて長男を追いかけるのは絶対ムリな話しだ。

毎日私が布団の中で絵本を2冊読んでいたので、次男は自分でパジャマに着替えて、いつものように絵本を2冊選んで、それを抱えたまま待ちながら眠ってしまっていた。

この光景は何度も何度もあった。この次男の本を抱えて眠っている光景だけは、毎回泣きそうになったし、今も切なく脳裏に残っている。

でもその時も、そして今の今までも次男は自分の兄のことを悪く言ったことがない。

いつか爆発するんじゃないかとずっと思って来たけど、ただの一度もそれがない。

ましてやいつも兄をかばって守ってくれた。

そんな次男が東京の大学に行く日、長男は空港で見送りながら、ゲートをくぐってどんどん離れて行く次男を不思議そうに眺めていた。そんな長男を展望台に連れて行き「あの飛行機に弟が乗っているよ」と言うと、黙って飛行機が飛び立っていくのを見つめていた。

 

それからというもの、長男は毎日次男がいつ帰って来るのか、カレンダーを指差して聞いて来るようになった。

長男はよく、次男にくっついたり膝枕で寝ていた。しばらくそれも出来なくなって淋しそうだった。たぶん、長男は今も次男の帰りを待っている。

 

そして今日、カレンダーを指さしながら「弟はアメリカに行くよ」と伝えた。

長男はどこまで理解出来るかは判らないが、カレンダーの上で指が止まって、私をじっと見て来た。

「勉強に行くんだよ。たった1ヶ月だよ。でも、今度会えるのはきっと、夏休みかなぁ」

そう言葉で伝えながら、私も旦那もしみじみとなってしまった。

 

次男は行く大学も、留学も、全部自分で決めた。やっぱり頑固だ。一度決めたら一直線だ。語学留学だけど、宇宙物理はトップクラスの大学だと本人が言っていた。

貫き通すことだけは誰にも負けなさそうだ。そういえば今までだって負けたことはなかった気がする。

ものごとを行う事に対してショートカットを好む旦那と、挫折は得意項目の私。次男は誰に似たんだろう。

そういえばずっと野球少年だったけど、キャッチャーであることを通したな。イップスにもなったけど、自分で治してしまったな。案外、やるんだよなぁ(笑)

 

「外貨両替、学生レートで行けたよ」と、またLINEが来た。これで準備完了らしい。

今日、成田を出発。見送りには行けないけどね。今しか出来ないことを、しっかり貫いて来い!

 

 

 

ドライヤーが初めて天寿を全うした!

雪、雪、雪でございます。

みなさん、お元気でおすごしでしょうか?

 

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父が退院して来たその日の内に再び倒れ、それを支えて母は坐骨を粉砕し、それぞれに別の病院に担ぎ込まれて、姉と私は数日間の奮闘の日々だった。

けれど、お陰様で全員、今日も頑張って生きています。

 

ということで久々のブログ更新。やっと落ち着いてパソコンの前に座れた。

生きてることは凄いな。長男も生まれて直ぐに死んでいたかも知れないのに、今回も父と母は一緒に居なくなったかも知れないのに、今日も全員、地球上に存在している。

そのことに感謝しようと思う今日。

 

そんな中にして、唯一天寿を全うして存在を消したものがあった。

ドライヤーである。しかも、我が家では初めてのことだ。

 

朝方、旦那が「おおー!」と雄叫びを上げたので何事かと思っていたら「ほら、ほら!」と正にたった今使っていたはずのドライヤーを、私の目の前に差し出してきた。

更にスイッチを何度も入れてみせて、うんともすんともいわなくなってしまった事を確認すると「自ら壊れた初めてのドライヤーだよ!」と……。

 

自家用車は全て自ら壊れて緊急に買い替えたものばかり。けれど、確かにドライヤーは自然に壊れたものはお初だ。

「おぉー! 確かに!」と、ちょっと朝から二人で盛り上がってしまった。

 

もちろんというか、ドライヤーが不自然に壊れるというのは長男が絡んで来るんだけど、今回はそのお話。

 

長男は小さい頃から、機械、特に回るものが大好きで、エアコンの室外機などは我が家の場合、吹き出し口のあみあみな部分は邪魔らしく、自分の素手で一瞬のうちにバキバキに折ってしまって、満を持してあらわになったプロペラに、何時間もの間惹き付けられていた。

そのプロペラと逢瀬を重ねるためには、毎度家から脱走を繰り返さなければならない。

室外機の見栄えは最悪になるし、こちらも脱走の度に猛ダッシュで追いかけなければならないので、必然と外に続くドアやサッシ、窓などの内鍵が増えていった。

 

さて、ドライヤーというと、長男にとって空気を吸い込むファンやモーター、電熱線などは非常に魅力的らしい。ふと気付けばいつの間にかすっかり分解されている。壊される前に色んな所に隠してみるが、宇宙人は本来超能力があるらしい。恐ろしい程的確に場所を特定して探し出してしまう。困ったものだ。

 

もう一つ困った事に、家の近所に総合ディスカウントストアと言われる大型スーパーがある。

そして、そこにもあるのだ。ドライヤーの売り場というものが……。

 

最近はめっきりご無沙汰だが、そのドライヤー売り場を目指して脱走を重ねた時期があった。よくそのスーパーに連れて行ってドライヤー見学はさせていたが、そんなもんでは満たされないらしく、数秒目を離すと家から居なくなるので、こちらはトイレでさえ行くのは大変だった。

それでも一瞬の隙を狙って居なくなってしまうので、いつも私はそのスーパーに直行で駆け込む事になる。

 

初めてそのスーパーを目指して脱走した日は、長男は小学部の5年生だった。多分暑い日差しの頃だったような気がする(曖昧)

当然その日が初めてなので、私の頭の中ではまだその店がリスト入りしていなかった。

脱走に気付いて追いかけていると、長男の姿はないが、道路の途中に靴が履き捨てられていた。

あわてて回収して更に行くと、長男の半袖シャツが脱ぎ捨てられていた。困惑しながら回収し、また更に進むと、今度は長男のズボンが脱ぎ捨てられていて……。

その先は、頼む、それで終わりにしていてくれ! と願いながら追いかけていたが、遂に長男の姿を見つけられずに、ちょうど旦那も帰宅して来て、結局最後の手段を使うしかなくなった。

 

これで何度目だ? そう思いながら警察に電話したら、今しがた保護したから、派出所に来てね……と。

「あぁ、まただ」見つかった安堵とため息で迎えに行くと、毎度のようにバツが悪そうな表情をする長男に、毎度のように苦笑うしかない旦那と私。

 

おまわりさんの話しでは、そのスーパーに裸で入店し(パンツも履いてなかったと旦那は記憶していた)ドライヤーの物色を始めたらしい。

周りの人の驚きは想像に難くないが、それに気付いたパートのおばさまもそうだったろう。

しかし、大げさな反応も見せずに、さらりと「ちょいとちょいと!」と手招きして事務所に誘導してくれたおばさまの行動は、自閉症の息子にとって実にナイスな対応だった。

その後に警察に連絡となったわけだが、さすが特別支援学校の校区内店舗。本来完全に不審者だが、長男の様子からすぐに保護対象者と解って警察に届けてくれたらしい。

 

派出所の中のソファーでちょこんと座った長男は、「ミスターMAX」と店名入りの従業員エプロンをしていた。服の代わりに着せてくれたようだ。スーパーからの「要らないから、エプロンは処分して構わないよ」とのメッセージも、おまわりさんが伝えてくれた。

何だか暖かい気持ちになった。

 

家に帰った時はもうすっかり暗くなっていたので、翌日、長男を連れてスーパーを訪れ、お礼を言った。多分、その時現場に居てくれた人達だったと思う。「お母さん、大丈夫ですよ」と何度も言って下さった。

今後この子が来たら教えて下さいと、私の携帯番号を書き込んだ長男の写真を渡してお願いしておいたが、それから長男が脱走してスーパーに行くことがなくなるまでの数年間、ずっとインフォメーションの壁に、長男の写真を貼っていてくれた。

 

それからは脱走成功した長男が入店すると、直接私に電話してくれるようになった。店のドライヤーを分解して買い取ったものも多い。

ある時は、若い男性店員さんがずっと側で見ていてくれて「今日は壊さずに済みました。良かったです。偉かったです!」と、笑顔で長男の背中を察すってくれた。

ある時は、長男を探しながら店舗を訪れ、「今日は来てますか?」と聞くと「今日は見てませんよ」と返事が返って来たりした。

 

あの頃、いい関係でいて下さった店のみなさんには、今も感謝しています。

今はあの頃の店員さんも見かけなくなったけれど、長男も裸で道路を突っ走ることはなくなった。

月日が経ったんだなぁ。長男も成長しているんだなぁ。

 

さて、旦那は早速新しいドライヤーを買って来た。

もちろん、ミスターMAXで。

長男はまだ気付いていない。今回も、天寿を全う出来るだろうか。

壊さないように、また我々が最期まで守りきれるだろうか。

さてさて……。

 

 

 

発達障害と初めて言われた日

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長男の生まれた日はとんでもない嵐だった。凄い音で分娩室のガラスがきしんでいて、でもその他はあまり覚えていない。初産とはいえ難産で、私は何度も失神した様だった。

医師は義父の友人であり、義母の勧めで行った産科だったが、今ではあり得ないだろうけど、帝王切開や緊急手術の出来ない医師だった。

そうなった時は、車で40分はゆうに離れた病院から、別の医師が駆けつけるという産院だった。

 

実はその話しは私も知っていたけど、義父の友達というのはやはり狭い地域では決め手になってしまうもので、その当時は仕方ないものだった。

まさか自分はそんな目には遭わないだろうと思っていたが、思いっきり引っ掛かったわけだ。

 

 

この結構壮絶だったエピソードは、また長男の産まれた日にでも書きたいと思う。このブログが続いていたらの話しだけど(笑)

 

その壮絶だった誕生から1年半が経ち、保健所で検診を受けた時には、私は自分の仕事上の経験から長男が障害を持っていると気付いていた。

 

最初ハイハイが始まった頃、その床に付く手がどうも気になることから始まった。

手の平が伸びずに、指が曲がった状態でペタペタと音を立ててハイハイしていた。

その後始まった1人遊びが、普通のおもちゃには目もくれず、ダストボックスのフタを延々と揺らして遊んだり、同じ動きをする物にこだわって、それを何時間でも揺らしたり見ていることが多かった。

呼ばれたら一応振り向くけど、その後大人に関わろうとする事もなく、すぐ自分の世界に戻っていく。

 

1才を過ぎた頃から笑顔が消失して、「笑わん殿下」と呼ばれていた。

その頃から私は確信を持ってしまった。もう、間違いないと。

 

1才半検診に行ったとき、やはり明らかに周りの子達とは違っていた。そこで、保健婦さんに私の方から「この子、障害があります。」と言った。

保健婦さんは驚いて、「もう少し様子を見ましょう。また2才になった頃、お宅を訪問しますから。」と言われた。

多分、母親から自分の子供に障害があるなどと言ってくることは、あまりないことだろう。そういえば、ある保育士さんもやはり、自分の子供の障害に気付くのは早かったと言っていたな。

 

そして間もなく2才という時、訪問して来た保健婦さんに、明らかに発達が遅れている所をひとつひとつ申告しながら見てもらった。

保健婦さんも納得したらしく、訓練施設の紹介をされて、長男は程なくしてそこに通う事になった。

 

ところで、障害を持った子供としての道筋は少しずつ出来上がって来たものの、依然として誰からも「この子は障害児だ」と教えて貰った事がなかった。病院に行けば判定してもらえるかなと漠然と思っていても、どうすればいいのか、大きな病院はほぼ紹介状がいるし、なかなか小さな町ではこの先の行動をどうすればよいか分からずにいた。

通い始めた通園事業の訓練施設でも、当時は医師や専門家を紹介出来るようなパイプがなかった。

児童相談所に行くという方法さえ知らず、本当に障害児を育てるには、未熟な親達だった。

今は何でも自分で調べる事が出来るけれど、当時はネットなどの検索方法もなく、誰も教えてくれることもなくて、自分でどうやって調べれば良いかの分らないでいる私達の様な親達は実に多かった。

 

そんな中、旦那がラジオを聞いていて、某テレビ局が「言葉の相談」という言葉の遅れが気になる子供の相談を受け付けている事を知り、直ぐに申し込んだからと言って来た。

旦那も日々悶々としていたらしく、なぜ息子が喋れないのかを誰かにはっきりと言ってもらいたかった様だ。

 

私からは障害があるだろうと言われていて、多分そうなんだろうなと思ってはいても、何か靄がかかった様で、はっきりしない中にずっと居る様な気持ちだった様だ。

正直誰かに障害を断定された時、その覚悟も持ってくれていたのかも知れない。

それは後に分かって来ることになるが、本当に長男の障害に対しては、早く、穏やかに受け入れてくれた。

 

相談日の当日、某テレビ局に着いて受付を済ませると、子供達は一カ所に集められて保育士さんと遊んだ。

その側で三人だったか、高机の前に医師が座っていて、順番が来たらその前に進んで医師と向かい合い、どの位だったか忘れたが、結構長く話した気がする。

 

その中の女医さんがとても優しく接して下さって、子供達が遊んでいる中、遊びにならず手持ち無沙汰だった息子を見ながら「障害の入り口にいますね」と言った。

「これからずっと、成長の手助けをしていかなければなりませんから、良い医師を紹介しますよ。」

と言って、紹介状をその場で書いてくれた。

ここで初めて、それまでどうすればいいか分からなかった「専門医とつながる」という事が出来たのだ。

言われている事は本当はショックな内容だったはずだけど、それよりもこれでハッキリしたという、霧が晴れたような不思議な思いと、頼っていい人にも繋げてもらえるという安心感もあった。

悲しいというよりもスッキリしたような。それは、むしろ私よりも旦那の方が強かったみたいだ。

 

終わった後、テレビ局を出て近くの大きな公園で三人で散歩した。途中ホットドック屋さんがあって、そこで二人分買って三人で分けて食べた。

その時、公園の周りを多くの人達がジョギングしたり、学生達が並んで楽しそうに歩いていた。

その学生達を見ながら旦那は「息子にはこういう時期が来ないんだなぁ……」と思ったらしい。

それを、ほんの数日前に話してくれた。

 

後日分かったが、その女医さんは、実はとても有名な精神科医だった。

紹介してもらった医師もとても信頼出来る優しい医師で、転勤されるまでの間お世話になった。

その医師の初めての受診で「広汎性発達障害」と告げられた。

その時、まもなく3才になろうとしていた。

 

その日こそ、長男が何者であったかを告げられた様で、旦那とともにしっかりと覚悟を決めた最初の日になった気がしている。

 

 

 

 

 

戦う担当者と出会った

今回ももれなく送られて来ましたよ。

はい。長男の障害福祉サービスの更新と、支給継続の申請書かれこれ。

毎年毎年書いている書類だけど、全然慣れないし、写メ撮って毎回おなじように書けばいいものを、写メもそのうち面倒くさくてなっていつの間にか消している。

でも、書かないと受給出来ないし、ここ数日のうちに重い腰を上げて書くことにしよう。(ガンバレ、私!)

 

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福祉サービスなるものは、障害者(児)がサポートを受けるために、国と地域にその費用負担軽減と支給について申請して、支給決定が通知された後に各福祉施設等と契約、更新をする仕組みになっている。

 

 送られてくる書類は書いていても結構難しい。しかも、長男の場合は重度過ぎて、このサービスの定型では使えないことも多く、サービス内容を少し変えて欲しいという「申立書」というのを毎回書いている。

 

そもそもこの「申立書」を書くきっかけになったのは、もう10年以上も前のことで、ヘルパーさんからの依頼だった。

長男の場合、ヘルパーさんと外に出掛ける時は、それなりの訓練と経験のあるヘルパーさんが付くことになっているが、公共機関などを利用する時、車内から飛び出そうとしたり、座席のシートを剥がそうとしたり、降車時に飛び出そうとしたり、ヘルパー1人では止めきれない事態を避けたいとの相談があったからだ。

ここの自治体ではヘルパーは原則1名なので、申し立てをしてヘルパー2名体制の承諾決定をもらったのが一番最初だった。

 

長男は近くの福祉施設を利用出来ていないが、それはその重い障害ゆえに、施設側から断られてばかりだったからだ。今の施設には5年の歳月を掛けてたどり着いている。

ただ、今の施設は居住地から離れた別の区にあるので、施設の送迎車に乗ることが出来ない。だから、毎日親が送迎している。

ところが、6年程前だったか、ある時から送迎途中の車内で暴れることが多くなった。

車内でワンワン泣き出すし、運転するこちらをバシバシ叩いて来るし、突然座席シートを破りだすし、車中に乗せている物を壊しだすし……これには参った。

こちらは運転しているわけだし、対応が難しい。毎日ではないのだが、月に数回という時期があった。

でも、そういう時はたいてい精神的に調子の悪そうな時だった。朝、調子が悪いなと感じたら、覚悟して家を出なければならない。

そこで、私は役所に申し立てをした。

 

調子が悪くても、ヘルパーさんとの移動は何とか出来た。2人体制だし、やはり多少は親よりも遠慮はあるような気もする。

この自治体ではヘルパーの移動支援の場合、必ず出発点は自宅、終点も自宅でなくてはならない。例えば、家を出発して学校に送り届けるということは出来ない。だから家から福祉施設の送迎も出来ない。もちろん施設から自宅もNGだ。

それを調子が悪い時期に限って、ヘルパーさんの移動支援を使って、通所時に自宅から施設、帰宅時に施設から自宅への送迎承諾をお願いした。

 

ヘルパー2人体制はすぐ取れたのに、こちらはなかなか取れなかった。

理由は、親が送迎出来るんだから要らないでしょ、ダメなら送迎車に乗れる施設にしたらいいでしょ? って……いやいや、送迎出来ないから言ってるし、近くは受け入れがないんですってば!

 

しかし、この「申立書」について、息子のために戦ってくれた担当職員さんがいた。

 

困り果てていると、役所から担当者という人から電話があった。

なぜその事が必要なのかを聞いてきた。きっと、捲し立ててしまったに違いないのに、私が話す間一切口を挟まずに全部聞いてくれた。

声はまだ若い男性の様だったので、いわゆるペーペーの職員だなと思った。話しだけ聞いて、後は無理で〜す! と言われて終わるかと思いきや、その担当者は「上に懸け合ってみます!」と言った。

これには驚いた。耳を疑った。この担当者、自ら交渉を請け負うなどと言うなんて。

 

経過は随時報告してくれた。普通、交渉の後は決定事項の連絡だけでもいいだろうに、きっと時間が掛かってしまっていることを気にしてくれていたんだろう。

話しの中から、何度も何度も交渉してくれていた事がわかった。その中には「僕は頑張っています」というものは微塵も感じられなかった。むしろ、何度も申し訳ないと言われた。

これは戦っている、戦ってくれている! こんな人、いるんだ!

そう涙が出そうになった事もあった。

 

それでも「上の人」はハンコを押してくれなかった。それで、その担当者は考えてくれた。

本来、親の乗る車にヘルパーも同乗する事は認められていない。けれど、その内容なら押して、なんとか通りそうだと言って来た。少しはそれで役に立たないか? と聞いてきた。

調子が悪い時は、親と一緒よりもヘルパーさんだけの方がスムーズだから、出来れば親はいない状態が良いと伝えたけれど、「親の運転する自宅の車にヘルパーが同乗する」がマックスだった。

 

私は折れた訳ではない。最初の交渉からマックスに至るまでの経緯を知ってしまったから。

私は、「それ、使ってみます」と答えた。でも、担当者は「本当にいいですか?」と聞いて来た。いや、だってそれ、あなたが交渉して持って来たことでしょうに(笑)

続けて「スミマセン」と言われて、こちらも「スミマセン」と答えた。あとは長い時間戦ってくれたことに心から感謝している事を伝えた。

これからは「お役所仕事」なんて言葉は使わないことにしよう。

 

その内容ではどうやらハンコゲットで、すぐに決定通知が来た。

で、今も使っている。

昔ほど車内で暴れなくなったけど、やはり時々は修羅場がやって来る。本当のところ、その申立て内容はイマイチ使い辛いところがあり、使う頻度も少ない。しかし、もしなかったらお手上げ状態になることもあり、ないよりは断然あった方がいい。

 

今回の「申立書」にも、継続の申請のところに、「通所送迎時における介護者同伴での自家用車利用」という文言を書くことにしている。

また一年、大事に使いたい。正直、使いづらいんだけどね(笑)

 

最近、長男が宇宙語を忘れ始めている

 

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地球上で自閉症と言われている長男は、日本語はおろか地球上の言葉は全く話さない。しかも、それを頑に25年もの間続けている。

でも、宇宙語らしき言語はずっと話している。
というか、どこかと交信でもしているかのような、音の羅列や怪しい発音だ。

それを時々、小さかった次男は解説をしてくれていた。

「お兄ちゃん、お腹すいたってよ。」「お兄ちゃん、お外行きたいって。」

この子達は、多分同じ星から来ているに違いない。

 

長男の発する音は「ィヨヨヨヨヨヨ」「ギガギガギガ」「ギギャギキ、キキ」「ウッボ〜イ」「モア〜イ」などなど、何ともけったいな音ばかりだった。

特に「モア〜イ」は、「モア〜イ」と言いながら床や机に四つん這いになってツバを垂らして、よくもまぁこんな量出せるもんだと思うくらいに水溜りならぬツバ溜まりを作って遊んでいた。

それを見て、当時同居していた義母が「あっ!モアイしよる!」とあわてていたが、それを聞いて義弟が「モアイって?」と不思議そうにしていたことがちょっと笑えた。

いや、正確には「モア〜イ」ですからね(笑)。

 

長男4才の時、当時大学病院で担当だった小児精神科の先生に、言語の先生にも見てもらいませんか?と提案されて、小児科受診後に耳鼻科に回された。

その先生は割と有名な方らしかったけど、最初の印象はあまり良くなかった。というか、印象は最初で終わり。その後会うこともなかった。

訓練室のような部屋で、その先生はジッと長男を見て、「あぁ、君はそんな風に物を見るのか。」と一言いって、おもむろに私の顔を見た。

「お母さん、自閉症って知ってる?」と聞かれたので「ハイ。」と答えた。

そもそも私は独身の頃から障害を持った子ども達との関わりが多かったし、仕事でも関わって来た。

まさか自分が最重度の自閉症の子どもの親になるなんて思ってもいなかったけど。

その先生は長男を見ながらこう言った。

「この子はね、知能が低過ぎるから、一生話すことなんかないよ。」

それで、ここの受診は終わり。別に訓練もムダということで、二度と訪れることもない部屋となった。

 

でも、私は悲しくなんかなかった。むしろ関わらなくて良かったなんて思ってしまった。

何でだろう。話せなくったって不幸になんかならないという、何だか自分でもよく解らない自信(と言ってしまうとまたちょっと違うけど)みたいなものがあった。

当時から、長男の周りには長男を理解してくれる、困った時は助けてくれる人達をたくさん作りたいとの思いが一番強かったから、言葉の優先順位はそんなに高くなかった。

だからかな。家族の中で、私だけが長男のしゃべる夢を、未だに一度も見たことがない。

私はお母さん失格かなぁ・・・。

 

でも、その先生の言葉は嘘じゃなかった。むしろ大当たり!

長男はけったいな発音しかしないし、この発音が面白くて、家族みんなで一緒にけったいな音を言い合って遊ぶことが日常になっていた。

 

しかし、しかしである。

それが最近消えかかっている。いや、ほとんど無くなって来ている。

最近は「あー」の一本勝負で来るようになった。この「あー」の発音が実に感情豊かで、楽しいのか、悲しいのか、怒っているのか、「?」と思っているのか、確実に伝わってくる。

 

きっと忘れ始めている・・・気がする。宇宙語・・・。

地球生活も25年過ぎて、間もなく26年突入だから、地球に慣れて交信の必要もなくなったのかな。

 

 

そういえば、言語の先生の言葉も当たったけど、私の思ったことも外れてなかったよ。

言葉は今も話さないけど、全然不幸なんて思ったことないしね。

 

 

他の学校とは一線を画したイレギュラーな交流が生んだもの

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長男が通った養護学校(現・特別支援学校)は、公立の小学校と中学校に挟まれている。つまり、小学校と中学校、養護学校の三校が横一列に並んだ状態で建っている。

 

長男が小学校に上がる時、学校を選ぶために何校も見学に回った。市内全部の養護学校、支援級のある学校の主な所は殆ど見て回ったと思う。

その中から一校を選択するに当たって決め手になったのは、その三校間の交流と環境ののどかさだった。

特に小学校と養護学校の生徒間交流は、多分他の学校とは一線を画していた。

ほとんどの学校は授業の中でお互いの発表の交換や誕生会といった、プログラムの中で構成された大人が作ったと言ってもよい交流だったけど、この小学校と養護学校はなんとも違っていた。

 

まず驚いたのは昼休み時間だ。

チャイムとともに、小学校から養護学校に子ども達がなだれ込む。

養護学校のグランドの遊具が子ども達であふれかえり、小学校の生徒も養護学校の生徒もごちゃごちゃに混じって遊ぶ。しかも、みんな名前で呼び合っていた。

変な話し、ただ友達同士で昼休みに遊んでいるだけの光景なのに、これが養護学校の親からしてみれば、何とも言えない感激を覚える光景なわけで。

多分、世の中の障害児の親にとっては、こんな普通のことが我が子にとって遠い事のように思えるから。

でもここはそれを、ただただ普通にやっていた。

「交流」とは大人が言っているだけで、子ども達は休み時間、ただ普通に遊んでいる。

ただそれだけのこと。

 

交流授業と銘打った時間もあった。

養護学校の教室の外に穴を掘って水を溜め、小さなプールにして遊んだり、畑でひたすら穴を掘って遊んだり。

ただ授業時間なだけでやっぱり遊びだったけど、小学校の子ども達にしたら、色んな子がいるという生きた授業にはなったに違いない。

長男はちゃんと名前で呼んでもらってたし、学年は違うけど次男も小学校側から来校して、兄以外の障害を持った子達と遊んでいた。

 

これは、この地域にも大きな役割を果たしていて、遊んだ事を親達に話しくれることで親達の理解も進んでいたし、子ども達の名前も覚えてくれた。

受け入れてもらえる事がどんなに嬉しく有り難いか、そう思えることがどんなに幸せか。

 

3度目の引っ越しは、この学校の近くに越して来た。

表札をつけると、その日の内に一人の男の子、一人の女の子が訪ねて来てくれて、息子の名前を呼んでくれた。

彼らはうちの隣と斜め前に住んでいて、珍しい名前だからすぐ誰が越して来たか判ったと言ってくれた。

これは凄いことだと思ったし、息子の名前を呼んでもらった時、これからここに住むことに私自身が妙に安心したことを覚えている。

それはイレギュラーな交流のお陰に他ならない。

 

 

でも、この取り組みは双方の学校の先生方の努力なしには実現しなかったはず。

当然、先生方は休み時間であろうと見守りに回らなければならないから、大変な労力だっただろう。トラブルも避けなければならなかっただろうし。

親としては、いくら感謝しても足りないくらい。決して忘れてはいけないと思っている。

 

それから年月が経ち、少しずつ世の中が変わって来て、学校は危険な事は出来ないということなのか、先生達の勤務形態に影響を及ぼすという理由からか、交流の形が変わり始めた。

退化したというか、他の学校に近づいたというか・・・。

寂しいことだけど、特別支援学校の生徒数が息子の時代から倍に増えて、昼休み交流は厳しくなって来たんだと思う。

 

親達も少しずつ変わって来た気がする。地域で暮らすということよりも、教育、療育に力を入れることが最優先になっているのかも知れない。

それに、学校トップが変わると学校も変わってしまうことが多い。

色んなことが重なって、学校も変わっていってしまうのかな。残念だなぁ・・・。

 

今はもう昼休み交流もなくなってしまったけど、あの時間があったからこそ、長男は子ども達と地域に受け入れてもらえたし、次男は兄のことでいじめられることがなかった。

 

学校のあり方は地域にとって影響が大きい。

あの時の学校を、もう見ることは出来ないのかなぁ・・・(泣)。

 

 

 

都市高逆走の話し(車じゃない方)

私の職場の若い子が自閉症の講習会を受けて来ると言ったので、講師が誰か聞いてみると、長男の養護学校(現・特別支援学校)時代に大変お世話に・・・というか、悩ませてしまった先生だった。

割とこの地域のこの世界では有名な先生なんだけど、ウチの長男はその上を行っていて、どんなに物事を構造化しても、どんなに整理してみても、全て台無しにしてくれていた。

申し訳ないというか、ウチの自閉ちゃん、自閉症の中の定型と違うんでないの?ってくらい、自閉症の中でも変わっている。

もう、ここだけでは書ききれないからぼちぼちと・・・(笑)。

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きっと、ウチの息子の名前は忘れられないだろうから聞いてみてよと言っておいたが、やはりというか当然覚えられていて、しかももう一人の講師の先生もウチの長男をよく知っていて、(というか、障害重過ぎて有名人)名前を言った途端、「あの、都市高を逆走した子でしょう?」と逆に聞かれたそうで・・・。

 

あ、それね。

数ある武勇伝の中の一つ「都市高逆走」がトップ3あたりに入っている感じなんだそうな。

てか、料金所で捕まったので逆走まで行っていないんだけど。

 

その頃の長男は未遂も含めて日に5〜6回は家から脱走していた。

足が速いので私では追いかけられず、いつも車で追いかけていたけど、ちょっと細い路地に入り込まれると車の進入が出来なくて逃がしてしまう。

その日も同じで、見失った後私はてんで見当違いの場所を探していた。

 

暫くして私の携帯が鳴って、出ると養護学校のS先生だった。

S先生は流通センターのあるトラックや車の多い道路を、実に良い姿勢で走り去る息子を見かけて、都市高の料金所に向かって裸足で走って行く息子を止めようと、なんとその交通量の多い道路の都市高の登り口の下に自分の車を乗り捨てて、息子を自分の足で走って追いかけてくれた。

料金所で息子が御用となった所で、私に連絡をくれたようだ。

取り敢えず、逆走はしていないという事なんだけど・・・。

 

時間的にも渋滞が激化している中、S先生にも料金所にも、S先生の乗り捨てた車辺りを走る車も、都市高に入ろうとする車にも、迷惑をかけてしまった。 

私が何度も謝っている間も息子は平然としていたけど、多分マズいなとは気付いていたと思う。

S先生は料金所で息子をむんずと捕まえたまま、肩で息をして髪も乱れ、若いお姉さんなのに、その時は一気に5才年を取ったかのような疲れた姿だった。

 

私は車で追いかけていたので、車でそのまま都市高の料金所まで来てしまったが、追いかけるために家を出る時、免許証と携帯しか持って出なかったので、お金の持ち合わせがなかった。

それを料金所の職員さんに伝えると、一枚のメモ紙みたいな書き付けを渡されて、それには「未払い600円」と書いてあった。

「あの、この子、療育手帳を持ってるんですけど・・・。」と言ってみたけど、料金所の人は「あぁ、そう。これは次に通る時に払ってね。」とだけ言われたので、「はい。」と返事して、S先生にもう一度お礼を言ってからそのまま都市高に乗って家に帰った。

療育手帳は都市高料金が、本人同乗で半額になるんだけど・・・。

皆様に迷惑を掛けてしまったし、ちゃんと後日、都市高に乗った時に600円支払いました。

さすがにここで療育手帳を出して、割引してもらうのは気が引けたし。

 

ただひとつだけ、S先生の話しでは信号機が赤の時は横断歩道で止まって、青になってから渡ったとか。

命に関わると思って、何とか覚えてほしいと4年間信号を教え続けていたけど、結局理解は出来なかったと思っていた。

思わぬ所でそれをちゃんと理解出来ていたと分かって、そこだけは何だか報われた気がした。

 

どうやら、この話しが講師の先生方のトップテン上位入りだった模様。

でも、ウチでは上位はまだまだ他にもありますよ・・・。

なんせ自閉症の定型から外れた自閉ちゃんなもので(笑)