宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

起きれるようになって良かったね〜……という話し

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大学生になった次男が、一番成長したこと。

それは、自分で朝、起きれるようになったこと。

東京で1人暮らしをするようになって、必要に駆られてのことなんだろうけれど。

 

睡眠障害でなかなか寝ない、寝ても眠りが浅い長男の真逆を行っていた次男。

起こしても起こしても土左衛門……ビクともせずに爆睡、毎日、朝起こす作業に一苦労でした。

地震が来てもそのまま寝てそうだし、オバケが来ても気付かれずに諦められそうなくらいの爆睡っぷり。

まぁ、それは小さい頃からで、寝相は悪過ぎたし、爆睡の上寝言はハッキリ言うし、夢遊病みたく歩いたこともある。

 

そういえば、まだテレビで戦隊ものとか仮面ライダーとか見ていた頃は、日曜日だけは起きれていたなぁ。

やっぱり、目的ないと起きれないんだね……という感じで、平日は超爆睡だった。

 

起きれないのも、寝相が悪いのも、障害児の兄がいることでの、家庭内のストレスのせいよ! と言った人もいた。

けれど、実際は毎日が天真爛漫を絵に描いたような次男だったので、ストレスと言われても、何ともどうすれば良いのか、母としてはお手上げ状態だった。

 

一度起きてしばらく覚醒に時間が掛かって、一旦動き始めたら元気元気。

リビングのサッシをカーッと開けたら

「鳥さ〜ん、おはよう! さとちゃんだよ〜!」

と、しょっちゅう叫んでいた。

すると、お隣のおばさんが「さとちゃん、今日も元気だね〜」とベランダから声を掛けてくれてた。

 

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4才くらいだったか、ちょっとした事件が起きた。

その日も次男は、その日のエネルギーを残さずに爆睡中だった。

当時は旦那が仕事で、毎日夜中の2時頃に帰宅していて、旦那がリビングで着替えていると、ふすまを開け放した隣の部屋から、次男が寝たままコロコロとリビングに転がって来た。

そしてテーブルの側までたどり着くと、何故か起き上がろうとした。

どうやら勢いを付けて起き上がったようで、その瞬間ガンっ! と少し鈍い、けれども大きな音がした。

なんと次男は、ガラスの重くて大きいテーブルの角に、顔面を打ち付けてしまった。

 

私もその音で驚いて目が覚め、慌てて次男に駆け寄ると顔面が血だらけだった。

しかも、目から出血している!

私も相当慌てて、オロオロしてしまった。

私自身、小さい頃に目をケガしたことがあり、今でも目に関しては苦労が絶えない。

とにかく早く病院に連れて行かなければ!

すぐに、夜間診療をしてもらえる病院を紹介してくれる機関に電話をして、わりと近いところの病院が紹介された。

その機関と病院が連携を取ってくれて、すぐに受け入れてもらえた。

 

私は長男が寝ていたので、動くわけにもいかず、旦那に病院に次男を連れていってもらった。

その後のことは、旦那から聞いた話。

 

結局次男は、目自体にはケガはしていなかったが、目の縁がバックリと割れてしまっていて、そこからとめどなく血が流れていたようだ。

で、お医者さんは止血した後、そのままチャチャっと縫ってくれた。

その間、次男はまな板の上の鯉。

 

実は次男、その間も睡魔に襲われていて、縫ってもらうことに対しても、眠くて眠くてそれどころじゃなかったようだ。

けれど、そんなこととはつゆ知らず、お医者さんは「こんなに小さい子なのに泣かないで凄い! 偉いね!!」と、本当に感心されていたそうな。

旦那、目の中が大丈夫と分ったからか、ちょっと気が緩んだようで、お医者さんの次男を褒めて下さる言葉に、いちいち「うぷぷっ」と笑ってしまってたようで……(笑)

 

治療が終わった頃には、次男も少し目が覚めて、帰り際に「がんばったで賞」のジュースを買ってもらって、ご満悦で帰って来た。

見てみると、黒い木綿糸位の太さの糸で目の縁が縫ってあって、絆創膏の端っこからちょっとはみ出していた。

 

それから1ヶ月ほどで抜糸と相成りました。

抜糸前日、超イケメンの若いお医者さんから「俺が抜糸してあげるからな、待ってるよ!」と言われてたので、私もテンションアゲアゲで翌日病院に行くと、実際に抜糸して下さったのは、奇麗な女医さんでした。

 

旦那が代わりに行きたかったそです。

 

さて、実は目の縁を縫った時に泣かなかった次男ですが、その翌日、たくさんの蚊にさされて「かゆいぃぃぃぃ」と涙を流して泣きました。

次男にとって、痛い痛くない、痒い痒くないよりも、問題は眠いか、眠くないか、ということのようでした(笑)

 

そんなこんなで、長い間、朝っぱらから起こすことに、ひと手間もふた手間も掛けてくれてた次男。

あの大変さから解放されて2年がとうに過ぎました。

 

起きれるようになって良かったね〜。

 

けれど、未だにちょっとだけ、母の淋しさも消えないわけで。

母という生き物は、案外と身勝手なものなのかも知れません……(しみじみ)

 

 

何十年掛かろうとも「出来た」ことは「出来た」ことなので

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我が家のトイレットペーパー、実に早くなくなります。

そんでもって、トイレがよく詰まります。

はい。ご想像通りでございます。

 

長男、最重度につき、トイレの自立に実に長い年月が掛かりました。

私としては、トイレットトレーニングを軽く見ていたわけでも、サボっていたつもりもないんだけど、自立に時間が掛かったことについては、まぁ、色んな人に色んなこと言われたかな……。

こういうことは、だいたい親がどうのこうの言われるわけで、実際自分の親としての適正も力量もないのかと、悩んだり本を読んでみたりもしたこともある。

 

躾本というのは当時から存在していて、今はネットで情報を得ることの方が多いと思うが、当時も様々な本が様々な説を、真しやかに書いていたりした。

でも、何かしっくり来ない。どうしてもしっくり来ない。

 

私は、長男が生まれる前から障害児達との交流もあったし、運良く仕事柄、発達についてや障害の特性、何より、待つ必要性は早くから知っていた。

それが幸いしたと思う。

何も知らなければ、何もかも試してみたかも知れない。けれど、うさん臭そうな物は、取り敢えずハネた上で、それから、いや、それでも悩んでいた。

 

周りの「あなたの努力不足」コールが重なると、どうしてもそうなるもので、過ぎてしまえば、というか相手の方が諦めてくれたら、精神的に楽になるというのが現実だ。

でも、問題の真っ只中の母達に言わせれば「じゃあ、あなた、やってみなさいよ!」とブチ切れたくなるものです。

 

えぇ、経験済みですよ(笑)

 

ただ、障害が治る商法にだけは手は出さなかった。

あれを食べたら治る、これを食べなかったら治る、悪い物質が体に溜まって障害を負ってしまうから、それを排出されるために、これを飲む……そんなものは、昔からたくさんあった。

もしかしたら、治った子もいたかも知れない。反対に、その関連療法で亡くなった子の情報も実際にある。

治ったといっても、子供は大人に成長するわけで、その成長によって症状が軽減したのかも知れない。

それは正直分らないし、人によるとしか言えない。

でも、私はしなかった。

しっくり来ない。どうしてもしっくり来ない。

たったそれだけかと言われても、私は目の前の長男と向き合って、笑顔が凄く良くて、誰もが騙される笑顔と向き合って、なんでこれを治さなければならないのか、すっかり分らなくなったというか……。

 

最重度の障害があっても、長男は大好きだし、変わって欲しいとは思えなかった。

それを非難する人も確かにいた。その度に「全ては親の責任だ」と言われた気がした。

障害を治してあげるのも親の役目だという人は、結構多い。

「躾しなさい」「大きくなって苦労しないように何でも出来るように教えなさい」「少しでも、周りに近いようになるようにしてあげなさい」

親は一番近くの、最も素晴らしい教師でなければならない。

そんな声は、未だにたくさんある。

 

親は、子供の教師なんですか?

それ、私は疲れます。親は親としてだけでいたいです。

 

けれど、世間は本当に自分の子供の教師を目指す親もたくさんいるし、本音を言えずに堪える親もいる。

小さいうちに必死に言葉や文字を教えて、厳しく何でも躾けて、本当に何でも出来るようになって、コミュニケーションが上手くなった子供。

凄いです。尊敬します。私にはとても真似できない。

それから、何も出来なくても、親が全てを受け入れて育った子供。

そのかわり、子供を理解してサポートをしてくれる人を探す努力をしている親は、結構多い。

受け入れて放ったらかしは、ネグレクトでしかない。正直、そういう親もいる。

子供は親を選べないけれど、その選択が子供の幸せに繫がることが、一番大事なんだと思う。

 

長男の場合、私は親として、せっかく生まれたのだから、そのままの姿を受け入れることに、何だかしっくりとくる不思議さを覚えた。…

きっとその選択の一番の理由は、長男の笑顔によると思う。

これに騙されると書いたが、この笑顔を見ると、他人でさえも手伝いたくなる、長男の願いを叶えたくなると言われたことが何度もある。

本当にそう。だって、親でさえ騙されている。

だから、笑って暮らしたいだけだ。それを怠慢だという人も多いのも事実なんだけれどね。

 

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けれど、全てに怠慢しているわけじゃない。

機会ごとに信号の見方も教えて覚えてもらった。4年掛かったけど。

トイレも、おしっこは学校に上がる直前に出来るようになった。

これは、何度やっても失敗していて、時間ごとに連れて行っても、あまり意味がなかった。でも、これはもしかして自立は無理かな……と思っていたところで、突然出来るようになった。

これには驚いた。なんせ1度出来たっきり、失敗の方が逆に全くなくなってしまったから。

 

以前、作業療法士の先生がコップに入った水に例えて、知識や経験がいっぱいにならないと水は溢れない。逆を言うと、いっぱいになったら、それは溢れて出来るようになるということだ、と言ったのを覚えている。

長男は、コップの水が溢れるまで待っていたのだろう。

 

そして、25年目にしてやっとペーパーでお尻を拭くことを覚えた。

ずっと介助が要ったけど、取り合えずは覚えた。介助の度に教えていたけど、これも自立は無理かな……と思っていたところに出来るようになった。

ただ、まだ使用するペーパーの量が分らないようだ。それで、よくトイレを詰まらせる。

本人は詰まらせるためにやっているわけではない。きれいに拭けたかどうかが問題で、本人なりにきれいになったという判断が出来た時に、おしまい! となる。

家族は、マズいぞ! と思った時は時々先に一度流すように促したり、それが難しそうなら、火鋏を持ってトイレ前に待機する。

 

今はそれでいい。また、何十年経って出来るかも知れない。出来ないかも知れない。

私は、そうする方を選んだ。それは、長男にとって良かったのかどうかは分らないけれど。非難されることだってあるけれど。

だって、何十年掛かろうとも「出来た」ことは「出来た」ことなので。

ただただ、出来る出来ないよりも、長男が、どうかどうか幸せであって欲しいと願っているだけなので。

 

 

日付が変わったので、長男26歳と1ヶ月と1日

 

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長男の今年の誕生日は、じいちゃんが天国に行ってから丁度1ヶ月だったので、1日遅らせてお祝いしました。

といっても、ただケーキを買ってハッピーバースデー歌って、ロウソク吹き消して食べるだけ。

それだけでも、満面の笑みで手拍子しながら、嬉しそうにロウソクを消す26歳なんて、そうそういないよね(笑)

なんだかね、その姿見てると、ホント幸せだなぁ〜と思える。

 

世の中、障害児産んで、ショックで立ち上がれなかったり、周りから避難受けたり、途方に暮れてたり……そんな家族はいっぱいいると思う。

大変な年月過ごして、何度も心折れて、そして何度も立ち上がって、何度も頑張って、何度も諦めて……けれど、生きてるだけで、幸せだと感じるこの瞬間は、必ずやって来るんだよ。

しかも何度だって。

 

だから、何があっても生きていれば、それだけでいいと思う。

26年間、よくぞ死ななかったよ。

そう思うような事件や事故は、たくさんあった。

交通事故に遭ったり、2階から落ちたり、液体洗剤を飲んでしまったり、都市高に駆け上がったり、丸一日どこかに行ってしまって探し続けたことだってある。

 

長男が生まれた日、平成4年4月9日。もの凄い嵐の日だった。

不思議なことに長男の誕生日は、嵐の日が多い。だから、毎年のように思い出す。

長男は難産の末生まれてきた。

帝王切開の出来ない医師だったので、後に搬送された病院からは、無理して引っ張られてストレスが強かっただろうと言われた。

生まれた瞬間は何となく覚えていて、医師にお礼の言葉を言ったところは覚えているけれど、その後は私は担架で病室まで運ばれて、長男はすぐに病室には来なかった。

当日、一人病院に居た私の母は、明らかに長男の体の色がおかしいと思ったらしい。

旦那はちょうどその頃、嵐の中の揺れる船の中で演奏中だった。

 

その後、私は少しずつ回復していったものの、長男は病室に数時間やって来ては保育器の中に戻って行くのを繰り返した。

医師の説明では、重症黄疸だとのことで、結局生まれて10日後に総合病院に搬送されることになった。

搬送は旦那が自分の車ですることになった。

私は動くことができず、一緒に義母と私の母も同行してくれたが、この時ほど旦那は運転に緊張した日はなかったと語った。

車が揺れないように、自分の初めての子供が疲れないようにと、あの旦那が、ゆっくり平らな道を選びながら車を走らせたそうだ。

 

その車中で、義母と母が医師から預かった紹介状の封が、また信じられないことに開いることに気付き、いけないかも知れないと思いつつ、二人はその中の診断書を見て驚いた。

医師からは一言も説明されなかったことが書かれていたのだそうだ。

それは、臍帯が首に巻いていて、結構な時間仮死状態が続いていたということだった。

それでも息子は息を吹返した。それから、頑張って生き始めた。

長男は一度死んで、そして帰って来てくれた。

 

NICU(新生児集中治療室)に運ばれて、そこの医師は「正直、今運ばれて何が出来るか、どんなことが起こるか分らない」と言った。

長い間、息をしていなかったことに、どんなリスクが付いてくるのかも分らないというものだった。

私も数日後には起き上がって、それから毎日、車で40分の道のりを母乳を届け、長男に会いに通った。

周りの赤ちゃん達はみんな、手の平ほどに小さくて、体にたくさんの管が入っていた。

長男は生まれるまでは普通だったので、体重は3,296グラムもあった。

もう、長男が大きいんだか保育器が小さいんだか分らない感じだったけど、まわりの赤ちゃんを見ると、うちはとんでもなく大きく見えて、こんなデカくて保育器に入ってごめんなさい……って思うほどだった。

結局、生まれて19日目にしての退院となった。

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それから、私が障害を疑いだすのに7ヶ月、やっと診断名がついたのが、間もなく3才になるという頃、長男、人生初めて脱走をやらかしたんだった。

 

玄関から青い長靴が消えていて、本当に焦った。

やっと見つかって警察に迎えに行った時、おまわりさんに何度も何度も謝って、私は家に帰る車の中で涙がボロボロ出て止まらなかった。

長靴を履いて、日が暮れだして、物や人が黒い陰にしか見えなくなった町中を、たった一人で歩いていたのかと思うと、申し訳なくて辛くて、もうボロボロ泣いた。

そして、生きていてくれて良かったと抱きしめた。

探している間ずっと思っていたことは、生きていてほしいと、本当にそれだけ。

 

当の本人はというと、そんな私の顔を見ながら悪びれもせずニコニコと笑ってみせて、私の頬をパンパン叩いた。

きっと、長男の小さな手の平は濡れてしまったろう。

 

この先も、私はあの日のことは忘れられないだろうな。

 

そうして、今日で26才と1ヶ月と1日。

今日も生きている。

幸せだな〜ってこれからも思いたいから、今日も一緒に生きていくよ。

 

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きっと、もう一度会いたいと思うよ。

今日は整形外科に行って来ました。

 

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まさか先月まで、自分が整形外科に通うなどとは思ってなかったよ。

だって、父の病院でも4階まで階段一気に駆け上がっていたし、仕事の放課後デイでは本気で子ども達と走り回って遊んでたからね。

腱鞘炎は徐々に重症化していったけど、膝の半月板は突然やってしまって、今は歩くことがちょっと辛い。

長男のお陰で痛みにはめっぽう強くなって、熱だって39度以上にならない限り寝ることもない私が、そもそも病院通いするなんて思ってもいなかったわけで……。

で、ヒアルロン酸の注射を打って来ました。

女優さんが顔に打つヒアルロン酸を、私は奇麗になるわけでもなく関節に痛み止めとして入れて来たわけです。

あんまり痛みも取れないけど。

 

さて、病院に実にかわいい天使のような顔をした女の子がいました。

奇声を発しながら走り回っている。

それを見守るように、いかにも絵に描いたように手を三角巾で吊った、小学校高学年くらいの男の子が立っていた。

男の子は「レントゲン撮りますよ」と呼ばれていて、すごく後ろが髪引かれるようにレントゲン室に入っていった。

すぐに判った。

女の子は重度の自閉症で、男の子はその子のお兄ちゃんだなって。

 

見ていると、お母さんもそこにいたのだけれど、たぶん上手く女の子には接することができない。

でも、それは責められるようなことではなくて、お母さんにも支援が要りそうな家族だった。

お母さんは座ったまま女の子を見ていて、時々「おいでおいで」をしては女の子を抱っこして女の子の動きを制限しようとするのだけれど、女の子は接触を嫌がる傾向にあるようで、抱っこは嫌がっていた。

感覚過敏は自閉ちゃんには珍しくないことなので、その女の子もそうだろう。

それで、レントゲン室から出てきたお兄ちゃんが、女の子の手を引っ張ったり、トラブルになりそうな時に抱えてその場から離そうとしたり。

お兄ちゃん、頑張ってた。

 

女の子は受付のプレートを手に取って、嬉しそうに両手で上に掲げてくるくる回って遊んでいた。

嬉しそうな女の子の顔に私はふふっと笑っていたが、正直お兄ちゃんからすると気が気ではなかったはずだ。

かなり混んでいた病院のロビーで、何度も何度も自分の番号が電光掲示板に表示されるのを待って、確認してはため息をついていた。

たぶん自分のことよりも、早くここから家に帰りたいと思っていたのだと思う。

 

幸いなことに、案外病院内で待っている患者さん達は、さらりと受け入れているように見えた。

嫌な顔をする人はいなかったし、時々危なくないか見守る人もいた。

けれども、お兄ちゃんのため息は重なる一方。

 

そんな時代、うちにもあったよ……。

家族はそんな時、走り回るし、ため息もつく。

けれど、いつの間にかだんだん楽しむことが出来るようになってくるから不思議。

 

長男4才、お腹に次男、時は臨月に差し掛かっていた時、長男の風邪で病院に連れて行ったものの、長男は元気で走る走る!

私が受付をして診察のファイルをもらっている隙に、長男得意の脱走劇!

私、お腹抱えながらも猛ダッシュ! 

追いついて長男を片手で小脇に抱え、もう片手でファイルを持って小児科の窓口に行くと、看護師さんに言われた。

「お母さん、それは妊婦さんがすることじゃないよ!」

私はというと「スミマセ〜ン」と言いながら笑った。

なんというか、だんだんたくましくなる自分に、変に笑いがこみ上げて来たりしていた。

 

最初の頃はビクビクしていたと思う。

大きな声を出さないように、走り回らないように、人に迷惑を掛けないように……そればかりが気になって、診察どころではなかった。

けれど、そう思えば思うほど息子は大きな声を出すし、走り回るし、嫌な顔をする人だってもちろんいる。

いちいち説明なんかしていられないし、説明したって「ハイ、そうですか」とはならない。

それを積み重ねていくうちに、すっかり息子に鍛えられて、大きな声が出れば合いの手を入れて息子を笑わかせ、走り回れば一緒に走り、嫌な顔をしている人がいれば「スミマセン」と頭を下げ、繰り返し繰り返し、そしていつの間にか病院のスタッフとも顔なじみになったりする。

 

いつも思うのだけれど、息子のやらかしは大きいが、人と繋がる不思議な力も持ってたりする。

 

あの女の子の家族も、いつの日か気付くと思う。

どんなに重い障害でも、その子なりの成長がある。それを見逃さないようにしていたら、面白いことはいくらでも見つかる。

そして私の場合、息子が教えてくれて、今も凄く大事にしていることがある。

「笑顔はうつる」

ということだ。

 

笑顔を見せると、息子は必ず笑顔で返してくれる。

それに気付いてからは、それを大事にし続けている。

 

もし来世で子どもが自分にやってくるとしたら、またこの長男と次男に会いたい。

もちろん、長男は今のままでいい。

この長男と次男だから、私は大声で「ガハハ!」と笑っていられる。

 

あの病院で見かけたお兄ちゃんのため息が「ガハハ!」に変わる日が来ると信じたい。

そうなれたら来世もきっと、妹ちゃんともう一度会いたいと思うはずだよ。

 

じいちゃんが死んだ

 

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子ども達にとってのじいちゃん、つまり、私の父が亡くなった。

映画を作れるほどの波瀾万丈な人生を歩んで、それでも何一つ自分の人生を悪く語ったこともなく、いい人生だったとたぶん言って生涯を閉じたように思う。

葬儀では、会場に入りきれないほどの人が来て下さった。

そして、父を古くから知る人は皆言った。

「お父さんは正義の人だった」

 

父は自分の生涯をノートにまとめあげていた。

凄まじい人生、戦争も体験し、戦後も人を助けるため命もいとわず、とうてい真似のできない父の人生が詰まったノートを次男にも見せた。

次男は留学のため葬儀に間に合わず、訃報を受け取って滞在していたホテルのロビーで、一晩泣き明かしたと言っていた。

このほど、無事に四十九日を執り行ったが、その日に次男も駆けつけた。

その時そのノートを手に取り、黙って読んでいた。

敢えて私は何も聞かなかった。次男の中の父が、きっとノートを介して語りかけたに違いない。

 

父は最期の最後まで意識があった。

42度の高熱が続いて、そのための痙攣が立て続けにやってきた。

その度にベッドの手すりを握りしめて絶える父を見るのは辛かった。

一番壮絶だった時間を一番長く一緒に側にいたのは私だった。

だからか、父が亡くなった後、少々脱力感から抜けられなかった。

 

けれど時間は凄いね。

人間を一番癒してくれるのは時間だと思った。

目に見える傷も、目に見えない傷も、時間が経てばちゃんと修復されていくということを知った。

 

ということで、ブログも戻って来ました。今は元気です。

 

さて、父の葬儀ではかなりしっかりしていた私。

気が張っているとはこういうことなんだろう。

そんな中、火葬場で珍事があった。

係員さんがお別れをした後、体のバランスを崩して、棺桶を安置した台の上にあったお鈴に鈴棒を落としたあげく、お鈴も台の上で転がしてしまい、お鈴の音が「かーーーん」と響いた。

しまったと思ったであろう係員さんは、かなり焦った様子で棺桶の窓を閉めようとして、その窓の蓋までも手を滑らせて「ダンっっっ!」と落とすように閉めてしまった。

静まり返ったその場にかなり大きな音で「かーーーん」と「ダンっっっ!」が響いて、笑うというより和んでしまった。

人に言わせれば意外な一面である、親父ギャグ好きの父の仕業だと思った。

直後に「今日のヒットはお鈴と窓の蓋ね! MVP!」

と私が言うと、周りも笑っていた。

きっと、父の思惑通りだ。

 

長男は父の看病から亡くなった時まで、そして葬儀から四十九日まで、全てに付き合ってくれた。

自閉症の子には、本人に訳の解らない時間の長い儀式などに付き合わせるのは負担だ、短期入所などに預けるべきだったのではないか? と言った人もいた。

けれど我が家では、家族のことは何でも教えていこうと旦那とは話している。

じいちゃんが死んだ。

それは解っていないかも知れない。けれど、そう伝えて一緒に最後を過ごそうと決めた。

けれど、長男はたぶん彼なりに理解をしていると思う。

長い儀式を、何度もあった供養を、パニックも起こさず静かに付き合って、ちゃんとじいちゃんを見送ってくれた。

昔の彼だったら、きっと長い時間は持たなかったろう。大きな声が出て、外に飛び出しただろう。

けれど、長男はじいちゃんの側にずっといてくれた。

すごくすごく愛してくれたじいちゃんを、ちゃんと見送ってくれた。

そして、それは次男も同じことだ。

じいちゃんの最期に立ち会えなかったけれど、じいちゃんは夢に現れたそうだ。

二人並んでテレビを見て、いつものように過ごして、そしてじいちゃんは消えたそうだ。

いつも通りだ。じいちゃんはいなくなっても、いつも通りに過ごしていれば、いつも通りに見守っていてくれる。

それは、姿が見えるか見えないか、それだけの差だ……そう話して、次男もまた戻っていった。

 

葬儀と四十九日は賑やかだった。なかなか会えない兄弟や親戚が集まって、父のことを語って、良い葬儀だった。

大事な人の死は、実は人を強くするのかも知れない。

悲しいのに、ちゃんと人は明日を考える力を持っていると実感することができたから。

そしてまた、いつものように暮らしていくよ。

いつものように見ててくれると思うからね。

 

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次男とおばさんと大根と

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15年程前までの話。当時は海の側のマンモス団地に住んでいた。

ご年配のご夫婦が家を建てて、空き家になってしまった前の住処を貸しに出されていて、縁があって入居したのが我が家だった。

昔の団地なので、5階建ての階段もないコンクリート造りで、いかにも高度成長期に栄えたであろう巨大団地群だったが、我が家が越して来たときは、もう住民の高齢化が問題になっていて、同時にメンテナンスにも何かと気を付けなければならない時期だった。

 

そんな団地の1階に、高齢者を差し置いて住んでいたわけで、まぁ、賃貸の契約に選択肢がそこしかなかっただけなんだけど、月1回の自治会掃除の時は、同じ階段のおば樣方に「楽でいいねぇ〜」と冗談まじりで言われていた。

そんな風に、新参者をあっけらかんと受け入れてもらったおば樣方には感謝しているし、今、どうされているかなぁ……と、これを書きながら思ったりする。

 

周りは海で囲まれていて、住んでいた棟は一番海側に建っていた。リビングから外を見ると、夜は月が昇って海面に映り込み、そこから光の筋が水面を突き抜けて、何とも美しい風景がお気に入りだった。

海岸に沿って散歩道があり、よくそこを長男と次男と三人で歩いたものだ。

 

そして我が家のお隣さん、ドアのお向かいさんだけど、そこのおばさんがいつも

「さとちゃ〜ん、お野菜採りにいくよぉ〜」

と誘ってくれていた。

団地には全ての家に畑があり、我が家のベランダの先には広大な区画整理された畑があった。

めんどくさがり屋の私は、たまにしか畑には行ってなかったが、次男はよく隣のおばさんに連れられて、一緒に畑で収穫を楽しんでいた。

時間のある高齢の方達は畑で過ごす時間が多いと見えて、次男はすっかり、母よりもしっかりとしたコミュニティーを構築していた様だ。

 

今までで一番収穫して戻って来ていたのは大根だったかな。どうやら引いて抜くのが楽しかったらしい。

毎回山のように貰って来るので、隣に顔を出して「いつもすみませ〜ん」と言うと「うちは年寄り二人だから、全部は多いのよ〜! 食べて加勢してね〜」がお決まりの文句だった。

大根をまず切って、葉っぱは塩だけで漬け物にする。他に頂いた野菜も切る、煮る、炒める、揚げる……おばさんの野菜は、次々に調理されていく。

長男はその隣で首を傾げて見ていた。

次男はその反対側で、踏み台に登って背伸びして、それをまじまじと見ながら言った。

「今度、僕のお誕生日に包丁買ってね」

「え?お料理すんの?」

「うん」

おぉ! いいねいいね、食育だね! 自分で作って食べるって、理想じゃん!

 

そう思った私は、誕生日を待たずして包丁を買ってあげた。

白いセラミックの子供用の包丁。ちょっとお高かったけどね。

 

次男は喜んで早速切ることを教えて貰い、とんでもなく楽しそうに切り出した。

おっ? 末は料理人か? と思っていると、とにかく切る切る切る! それはそれは楽しそうに大根を切りまくる!

「もういいよ」と言っても「まだ切るの!」と切り続ける。

なるほど……切った先はないのね。つまり、それは遊びだったのね。

それを長男が見ながらフフフと笑う。

長男と私が笑うと、次男は「なんで〜?」という顔をした。

あの顔が、何だか昨日のことのように思い出される。

 

まぁ私も助かったし、切りすぎた分は明日また使うとして「有り難う」と言うとご満悦の次男。

息子の遊びから生まれた料理達は、無事に我が家の食卓にのぼり「これ、さとちゃんが作ったんだよ〜」という註釈を付けると、これまた単純な旦那が感激して「さぁとぉちゃぁぁぁん!」とぎゅうっ! としていたりする。

いや、切っただけですぜ、旦那。

 

思えばおばさんの大根はよく我が家の食卓にあがっていたけれど、料理をする時は、大根を真ん中に私が立っていて、隣に長男、反対側に次男がいたんだっけ。

よく次男から「みたらし団子」のリクエストがあったけど、一緒に小麦粉をこねて、二人に丸めてもらって、私がお醤油と砂糖でからめる作業をして……鍋を前に三人並んで作っていたなぁ。いや、何をするにもそうだったと思う。

 

何てことない風景なんだけど、あの時の風景は再現しようにも出来ない。

今になって思う、あれは、本当にいい風景だったんだよなぁ。

 

そこでの暮らしが4年を過ぎようとしていた頃、次男が小学校に上がる事を機に、引っ越しを決意した。

長男の通う特別支援学校は、小学校と中学校に挟まれていて、3校横並びに建っている。交流が盛んで障害者に理解がある地域なので、次男もいじめにあわずに済むかも知れない、という理由からだった。

マンモス団地は高齢化が進んで子どもも少なかった。でも、引っ越しを決めた所は、子育てもしやすいということで子どもも多かった。

 

引っ越しする時、階段の全てのお宅に挨拶に回った。

自治会を1年満期で終わられた方に、最後の自治会費をいつものようにポストに入れた時、封筒に「1年間お疲れ様でした。有難うございました」と書いておいたのだが、「そんなに言ってくれた人は初めてだったのよぉ!」と言われて「淋しいわ、淋しいわ」と何度も繰り返して泣いて下さった。

他の階のおばさんも「今、これしかないの。持って行って」と、わかめの乾物を大量に差し出して「本当に行っちゃうの?」と泣いて下さった。

そして、お隣のおばさんにも「お野菜余っちゃう〜」と涙ぐまれた。

気付けば全階のおばさま達に泣かれてしまった〜。

これは、案外次男のコミュニティー構築の成果なのかも知れないなぁ。

 

そして、その次男も大学生になって東京で一人暮らしをするようになり、時々写メが送られて来る。そこに大根はなくても、おばさんの野菜は今もちゃんと息子の中に残っているような気がする。

 

↓ある日の次男作 in東京

 

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長男は、太陽と水と土の保育園に通った

 

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「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」

保育園の入園時期でもないのに、園長先生は入園許可を即決してくれた。

 

長男は障害があるゆえに、それまで訓練施設しか通った事がなかった。

施設は就学前通園施設で、親子で通わなければならない。親も訓練を受けるという機能もあってのことだろうけれど、そこで過ごすと、結局子ども達は個別指導や親と一緒にスケジュールに添って動くので、どうにも子供同士で遊ぶという場面が少ない。

そもそもコミュニケーションを取ることが苦手な子供達だから、そういう場面もなかなか作ることが難しく、子供同士のやりとりよりも先生や保護者とのやり取りばかり。

そこのところが、ずっと引っ掛かっていた。

そして、その思いが一つの保育園に結びついた。

 

その保育園は、家から車で15分くらいで自然の広がる場所にあり、オンボロの一戸建てに、更に横にプレハブが建て増しされているような園舎だった。

テレビもなく、気の利いた知育玩具なんていうのも一切なかった。

園庭には、おままごとで使うのであろう本物の食器、スコップ、バケツなど、普通に家にあるような日用品や、鍋、フライパン、おたまなどの本物の調理用具などが、子供が片付けたであろうクオリティーで置いてあった。

 

そこには障害を持った子ども達も受け入れられていて、保育内容も少し変わっていた。

保護者達は医師や弁護士、会社社長などの職業が多く、どうやらその保育理念に感銘を受けて入園を決めたということのようだった。

私も通園施設の保護者達からその保育園の噂は聞いていたし、どうにも興味が薄れず一度遊びに連れて行ってみようと思っていた。

 

長男3才の冬、入園には時期が外れていたが、アポを取って長男を連れて遊びに行ってみた。

そこで園長先生に「来春の入園も考えているので、検討して欲しい」とも伝えてみると、園長先生は「今は子供がいっぱいで、良い返事は出来ない」と言った。

実際には人数は一般の保育園からするとかなり少ない。だから、クラス分けもない。

けれど、保育理念を通すためのいっぱいいっぱいの人数だったんだろう。

長男は玄関口の庭の土を散々掘って遊んでいて、園長先生は話を止めてしばらく長男を見つめていたが、やがて私の方に顔を向けてはっきりと言って下さった。

「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」

 

かくして保育園訪問から翌日にはここの保育園生になった長男。

このスピード即決も、保育内容が少し変わっていることも、実は無認可保育園でなければ実現出来ていないもののようだった。

 

無認可保育園だから保育の質が悪い、なんて話はよく聞くが、ここは保育士さん達の士気が高く、認可保育園よりも敢えてこの保育園を選ぶ程の親達がいるのは、むしろその質が高いことを示している証拠だ。

 

長男は訓練施設に行く日以外は、毎日嫌がることもなく保育園に通った。

友達と一緒に裏山を登り、崖をよじ上って、木にも登る。

なんで子供はあんなに上を上を目指して登って行くのだろう。

お迎えに行くと、他の子供が案内してくれる。そこで私が見つけるのは、満面の笑みで木の上に座り、鳥の巣の中の小鳥のように声を出して笑っている長男の姿だ。

一本の木に鈴なりになって、子ども達が登ったり寄りかかったり下で座り込んだり……思えばこの園庭や裏山の木々は、随分と子ども達のために頑張って、根を生やして立っていてくれたんだと思う。

 

雨の上がった後にお迎えに行くと、先生が笑いながら長男の居場所を指で差す。

園庭にコンクリートなんてないから、まるで子ども達のために出来上がったかのような大きな水溜りに、キャーキャーと笑いながら浸かっていて、もう誰が誰だか分らないくらいに泥だらけになって遊んでいる。

先生は、さてと……と立ち上がって「もう少しお時間いいですか? ちょっと待ってて下さいね」と言うとお風呂場に連れて行って、長男はすっかり夜のお風呂は必要もないくらいに仕上がって戻って来た。

 

また広い園庭の真ん中に、高く土を盛って大人達が作った山があって、そのてっぺんに長男は仁王立ちし、口をはぐはぐ開けたり閉じたりしていた。

最初は何をしているのだろうと思ったけど、どうやら吹いて来る風を食べていたようだ。

 

毎日が太陽の光と水と土にまみれて遊んだ。自然の中で、子ども達の中で、なぜかいつも真ん中に長男はいた。子ども達が長男を取り囲んで遊んでくれていた。

それを見る度に、私は保育園に通う前のあの引っ掛かりを、すっかりなくせるほどの出会いを、この保育園で果たせたんだと思った。

 

しかし、そんな保育園に行政は冷たい。園とともに保護者も頑張ったが、経営の難しさから認可への道を選ばざる得なくなった。

長男の卒園の年は認可保育園として、園舎も新しく建て替えて再スタートを切ったが、多くの規制に阻まれて「危ないことはタブー」という行政指導から、山も木も崖も登れず、そこに続く道を封鎖されてしまった。

先生達は、つまらなくなったと言っていたが、それは子ども達が一番感じていただろう。

けれどやはり知育玩具など一切置くこともなく、太陽の下で、新しい園庭の砂を大人が使うスコップやシャベルで掘って水を入れ、泥だらけになって遊んでいた。

 

そうして迎えた卒園の日は、名前を呼ばれると友達が手を引いてくれて、園長先生手作りの卒園証書を受け取った。

あの日、淋しいと泣いて下さった先生方とは今も年賀状のやり取りがある。

当時の先生方の多くはもう退職されていて、その中には、現在は福祉作業所で働いている先生方もいる。

あの冒険いっぱいの保育園は今はもうないけれど、それでもあの保育理念は忘れずに、今も先生方は頑張っていらしゃると聞く。

 

そして今でも、園長先生の即決と、涙が出る程に愛情を注いで下さった先生方、仲間として受け入れてくれていた友達、あの時の太陽と水と土に、心から感謝しています。

 

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