「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」
保育園の入園時期でもないのに、園長先生は入園許可を即決してくれた。
長男は障害があるゆえに、それまで訓練施設しか通った事がなかった。
施設は就学前通園施設で、親子で通わなければならない。親も訓練を受けるという機能もあってのことだろうけれど、そこで過ごすと、結局子ども達は個別指導や親と一緒にスケジュールに添って動くので、どうにも子供同士で遊ぶという場面が少ない。
そもそもコミュニケーションを取ることが苦手な子供達だから、そういう場面もなかなか作ることが難しく、子供同士のやりとりよりも先生や保護者とのやり取りばかり。
そこのところが、ずっと引っ掛かっていた。
そして、その思いが一つの保育園に結びついた。
その保育園は、家から車で15分くらいで自然の広がる場所にあり、オンボロの一戸建てに、更に横にプレハブが建て増しされているような園舎だった。
テレビもなく、気の利いた知育玩具なんていうのも一切なかった。
園庭には、おままごとで使うのであろう本物の食器、スコップ、バケツなど、普通に家にあるような日用品や、鍋、フライパン、おたまなどの本物の調理用具などが、子供が片付けたであろうクオリティーで置いてあった。
そこには障害を持った子ども達も受け入れられていて、保育内容も少し変わっていた。
保護者達は医師や弁護士、会社社長などの職業が多く、どうやらその保育理念に感銘を受けて入園を決めたということのようだった。
私も通園施設の保護者達からその保育園の噂は聞いていたし、どうにも興味が薄れず一度遊びに連れて行ってみようと思っていた。
長男3才の冬、入園には時期が外れていたが、アポを取って長男を連れて遊びに行ってみた。
そこで園長先生に「来春の入園も考えているので、検討して欲しい」とも伝えてみると、園長先生は「今は子供がいっぱいで、良い返事は出来ない」と言った。
実際には人数は一般の保育園からするとかなり少ない。だから、クラス分けもない。
けれど、保育理念を通すためのいっぱいいっぱいの人数だったんだろう。
長男は玄関口の庭の土を散々掘って遊んでいて、園長先生は話を止めてしばらく長男を見つめていたが、やがて私の方に顔を向けてはっきりと言って下さった。
「お母さん、もう来年からでは遅い。明日から連れて来なさい」
かくして保育園訪問から翌日にはここの保育園生になった長男。
このスピード即決も、保育内容が少し変わっていることも、実は無認可保育園でなければ実現出来ていないもののようだった。
無認可保育園だから保育の質が悪い、なんて話はよく聞くが、ここは保育士さん達の士気が高く、認可保育園よりも敢えてこの保育園を選ぶ程の親達がいるのは、むしろその質が高いことを示している証拠だ。
長男は訓練施設に行く日以外は、毎日嫌がることもなく保育園に通った。
友達と一緒に裏山を登り、崖をよじ上って、木にも登る。
なんで子供はあんなに上を上を目指して登って行くのだろう。
お迎えに行くと、他の子供が案内してくれる。そこで私が見つけるのは、満面の笑みで木の上に座り、鳥の巣の中の小鳥のように声を出して笑っている長男の姿だ。
一本の木に鈴なりになって、子ども達が登ったり寄りかかったり下で座り込んだり……思えばこの園庭や裏山の木々は、随分と子ども達のために頑張って、根を生やして立っていてくれたんだと思う。
雨の上がった後にお迎えに行くと、先生が笑いながら長男の居場所を指で差す。
園庭にコンクリートなんてないから、まるで子ども達のために出来上がったかのような大きな水溜りに、キャーキャーと笑いながら浸かっていて、もう誰が誰だか分らないくらいに泥だらけになって遊んでいる。
先生は、さてと……と立ち上がって「もう少しお時間いいですか? ちょっと待ってて下さいね」と言うとお風呂場に連れて行って、長男はすっかり夜のお風呂は必要もないくらいに仕上がって戻って来た。
また広い園庭の真ん中に、高く土を盛って大人達が作った山があって、そのてっぺんに長男は仁王立ちし、口をはぐはぐ開けたり閉じたりしていた。
最初は何をしているのだろうと思ったけど、どうやら吹いて来る風を食べていたようだ。
毎日が太陽の光と水と土にまみれて遊んだ。自然の中で、子ども達の中で、なぜかいつも真ん中に長男はいた。子ども達が長男を取り囲んで遊んでくれていた。
それを見る度に、私は保育園に通う前のあの引っ掛かりを、すっかりなくせるほどの出会いを、この保育園で果たせたんだと思った。
しかし、そんな保育園に行政は冷たい。園とともに保護者も頑張ったが、経営の難しさから認可への道を選ばざる得なくなった。
長男の卒園の年は認可保育園として、園舎も新しく建て替えて再スタートを切ったが、多くの規制に阻まれて「危ないことはタブー」という行政指導から、山も木も崖も登れず、そこに続く道を封鎖されてしまった。
先生達は、つまらなくなったと言っていたが、それは子ども達が一番感じていただろう。
けれどやはり知育玩具など一切置くこともなく、太陽の下で、新しい園庭の砂を大人が使うスコップやシャベルで掘って水を入れ、泥だらけになって遊んでいた。
そうして迎えた卒園の日は、名前を呼ばれると友達が手を引いてくれて、園長先生手作りの卒園証書を受け取った。
あの日、淋しいと泣いて下さった先生方とは今も年賀状のやり取りがある。
当時の先生方の多くはもう退職されていて、その中には、現在は福祉作業所で働いている先生方もいる。
あの冒険いっぱいの保育園は今はもうないけれど、それでもあの保育理念は忘れずに、今も先生方は頑張っていらしゃると聞く。
そして今でも、園長先生の即決と、涙が出る程に愛情を注いで下さった先生方、仲間として受け入れてくれていた友達、あの時の太陽と水と土に、心から感謝しています。