宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

やさしい町

長男は毎月、「行動援護」という福祉サービスを使ってヘルパーさんと外出を楽しんでいます。

 

行動援護とは一般には聞き慣れない言葉ですが、ワムネットが以下のように説明しています。

↓↓↓

行動援護とは<ワムネットより>

障害のある方の安全と安心をサポートするサービス

行動に著しい困難を有する知的障害や精神障害のある方が、行動する際に生じ得る危険を回避するために必要な援護、外出時における移動中の介護、排せつ、食事等の介護のほか、行動する際に必要な援助を行います。
障害の特性を理解した専門のヘルパーがこれらのサービスを行い、知的障害や精神障害のある方の社会参加と地域生活を支援します。

 

 

長男と行動援護について、こちらのサイトにも記事を書いています。

↓↓↓

tetote-net.com

 

長男のヘルパーさんたちは、本当に頑張ってくださっている。
親以外と外で過ごす時間は、障害のために外出が困難な人たちにとって、本当に貴重な時間になるのです。

実はへルパーさんと外出する機会を持つことができる人たちは、障害が重くなればなるほど難しいのです。

最大の理由は、支援できるヘルパーさんの数が足りていないこと。
長男も今のヘルパーさんたちに出会わなければ、それは叶わなかったわけです。
つまり、長男はラッキーな出会いをしたということではあるのですが・・・。

 

でもね、本当はラッキーなんていうこと自体、変なんです。

だって、誰しも同じように使えるはずの福祉のサービスが、受けられる人と受けられない人がいる・・・。
申請を許可する地域と許可しない地域、ましてやほぼ使えないという地域さえあるようです。

この格差を埋めていくことは急務のはず。

 

また福祉事業所においても、運営上に点数の加算の付く研修を職員の多くが受けています。
けれど実際現場では、支援できるヘルパーはとても少ない現実があります。


スキルを上げるための研修は、机上ではなく、もっと現場でやるべきだとの声はたくさん上がっています。
でも実際問題、なかなか進んでいかないジレンマがあります。

 

今、厚労省でも検討会も行われていて、少しずつ進み始めてはいるものの、先は長そうだなぁ。
もしかしてそれが進んで、福祉サービスがもっと受けやすくなって、バンバン使える頃が来たとして、その時私は生きているんだろうか。

 

さて、ようやく本題。

 

今回のお話は、先日その行動援護を終えて帰宅した時に、ヘルパーさんが報告の中で教えてくれた、ちょっと感動的なお話。
町を歩いていた長男たちが、すれ違った工事現場の人たちの優しい心遣いと、暖かさを受け取ったというエピソード。

 

 

暦は秋というのに、その日も暑い日。長男はいつものように歩く歩く。
それにヘルパーさんも、汗をかきかき付き合ってくださる。


怪我がないように
楽しい時間が作れるように
豊かな1日となるように
そして長男の笑顔が増えるように。

 

その道すがらに道路工事があっていたようです。

道路のアスファルトを剥がす重機の音は、大人でもかなり不快。
自閉症の長男は相当辛いはず。

けれどその道を通らなければ先に進むこともできません。
長男は、いつものようにキュッと顔をしかめて両手で両耳を塞ぎました。

 

それをどうやら、工事現場で作業している人たちが気づいたようです。
サッと重機のエンジンを切ってくれたのだとか。

 

どうぞ通ってねと誘導してくれて、長男とヘルパーさんが通り過ぎ、しばらくそこから距離が空いたところで作業が再開されたようです。

 

そして折り返しての帰り道、その現場を再び通ることになってしまったものの、現場の人たちは長男たちの姿が見えた時点で重機のエンジンを切ってくれたのだとか。
しかも通り過ぎて、かなり離れたところまで立ち去った後に、工事は再開されたそうです。

 

実際、その対応で工事は効率が悪いことになるのでしょうが、ヘルパーさん曰く、しっかり長男を意識して、嫌な顔ひとつせず皆さんで待ってくださったのだとか。

 

ヘルパーさんも、行きは偶然かな?とも思ったそうですが、明らかに帰りのその様子に「僕らのこと、ちゃんと見てくれてたんでしょうね」と。

 

 

なんだか、とっても温かい気持ちになりました。

こんな思いやりが、優しい町を作っていくんだなぁ。

 

町の中での心のふれあいは、外出が叶わなければ経験することもありません。
けれどヘルパーさんたちの力を借りれば、外出は叶うのです。


障害が重くても、人の優しさは理解することができます。


誰しもが人の優しさに触れながら、豊かな一日を過ごすことが当たり前の世の中になりますように・・・。




見えない先への勇気に、背中を押し続けた言葉をくれた人の話

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長男が生まれて1歳になろうとかという時、私はすでに長男の障害に気付きつつも、自分の中で「違うかもしれないから」と折り合いをつけながら暮らしていました。

 

しかし、その後もモヤモヤが晴れることはなく、ついに自分の中で「障害がある!」と確信を持って認めてしまったその日から、少し自分の中のものが変わっていったように思います。

 

何が、と言われてもなんなのか、その正体はよくわからないものの、少し覚悟というか、自分が流されずに受け止めようと、自分の中に芯を持つことを決めたのだと、今にしてみれば思うのです。

 

私はそもそも、若い頃から障害を持った子どもたちとの交流もあったので、何となく一般的な生育歴を辿ることはないだろうとは思いました。
その後図らずも早々に医療に繋がれたことから、長男の障害については明らかにされることになります。

 

その後はいろんなことがあり、私の根性が試されることも頻発し、どんなに心が折れても、明日を迎えることを日々重ねていったのでした。

 

ただ、長男の障害が明らかにされた3歳ころは、まだ長男と私たちの生活の将来など考える余裕もなく、漠然とした不安だけはありました。
これがもっと年齢がいった頃に診断されていたら、将来の進路や生活については、もう少し想像していただろうと思います。

 

ちょうどその頃のこと。一本の電話がかかってきました。それは旦那の、東京時代の上司に当たる人からの電話でした。

旦那の同僚だった人から番号も聞いて、今かけているのだと。

 

その同僚さんは、長男のことを上司さんに伝えたのだそうで、その上司さんは旦那に、私に電話を代わってくれと言うのです。

一度も会ったことのない人から電話なんて、一体何だろう・・・同僚さんも何を上司さんに話したのか?

 

謎だらけの電話に出ると、電話の先は上司さんからその奥さんに変わっていました。

そして、いきなりこう切り出されたのでした。

 

息子さん、自閉症だって伺ったんですが・・・。

 

はい。と答えると、奥さんはしっかりとした言葉で話を続けました。
私に何としてでも伝えようという思いが染みるような、とても綺麗で上品な声の語りでした。

 

奥さんによれば、上司夫妻の息子さんが自閉症だということ。
今(当時)、高校生だということ。
東京の街で、親子で生活をしているということ。

 

息子さんの障害は決して軽くないこと。
それでも自分の意思が言えるようになったこと。
買い物にも行けるようになって、電車にだって乗れるようになったこと。

 

そして、こう言われました。

「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つのよ!」

 

この言葉を、何度も繰り返されたのでした。

 

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長男がその後保育園に受け入れられてからも、将来のことなど見えることもなく、漠然とした思いは続きました。

 

そうこうしているうちに、他の園児たちは卒業までに小学校入学への準備が始まりました。
そこで長男も学校探しが始まり、他の子達とは違う進路へ進むことが決まります。

 

親である私たちも通ったことのない養護学校に、長男はどんな形で通い、どう成長するのか。

 

でもそんな時に、忘れていたあの言葉を突然のように思い出すのです。

次男が生まれ、2年後に長男の学校を必死に探して決め、そのために引っ越しをして、激動の時間を過ごしました。

 

その間、息子たちのことも、私たちの生活も、何も見えないままに決断と行動を続けました。

 

何もかもがバタバタと動いていく中に、長男が学校に入学すると、その時にまた、あの言葉を思い出すのでした。

 

 

この頃のバタバタ劇について、一切の後悔がないことは今も声を大にして言えます。
全ては今のためにあるのだと。

 

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学校に通う頃には、長男はこの地域でも難しい子供だと、学校中、福祉関係者の中にも知れ渡ることになります。

毎日が精一杯の暮らしの中に、今日も家族で生きていたと実感することなど何度もありました。

 

毎日生きて、今日も生きて、明日も生きよう。
そんな中に、養護学校の高等部に進学しないことを決めたのは、少しずつ長男にとっての先を読めるようになってきたからなのだと思います。

 

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その頃には、ずっと先は見えないけれど、ちょっと先、数年先は想像できるくらいになりました。

 

そしてまた、思い出すわけです。
はい。息子たちはもちろん、私たちも、親育ちが少しずつできている気がします、と。

 

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それから長男は、いろんな出会いをもらい、長男を根気強く理解しようとする人たちに囲まれて、自分の思いを伝える術も身につけました。

 

長男の障害は決して軽くない、むしろかなり重いということ。
それでも自分の意思が伝えられるようになったこと。
買い物だって、電車にだって、長男を理解してくれる支援者と一緒なら乗れるようになったこと。

 

あの時の奥さんの言葉は、要所要所で私たちの背中を押してくれていたのです。

 

あの日電話で、奥さん自身の深い経験を私に重ね、私が良からぬ思いを抱かないように、子供を信じるように、そして私がずっと立ち続けていられるように、それを伝えようとしたのだと思います。

 


申し訳ないことに、そう気付くには少し時間がかかってしまいました。

 

そしてその想いに報いるためには、今度は私が誰かにそう話す番なのかもしれません。


「大丈夫、障害があっても、ちゃんと子どもは育つ!」

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父、事務所を引っ越す。そして息子の絵は2語文に!

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親子3人でさよならをして来ました。

コロナの波は働き方にも影響を及ぼしました。
長年事務所として使ってきたこの場所も、この日でお別れです。

作業場であり、セミナー会場であり、スタジオであり、宴会場でもあったこの部屋も、セミナーや飲み会はすっかりオンラインに場所を移したことで、ここまで広い部屋は必要ではないだろうという判断です。

 

スタジオも自宅でなんとかなりそうなので、とりあえずは荷物を自宅に運び出すため、業者さんにお願いして引越し決行となりました。

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事務所の前の道は狭いながら、車も人通りも多く賑やか。
雑多なショップや飲食店が軒を揃えていて面白い。
市内の中心にありながら道が入り込んでいて、歩いているだけでも楽しい場所です。

私も息子達も、度々訪れた場所。
少し寂しくもありますが、そんなことも吹っ飛ぶ、今度は我が家に運び込まれた荷物の、片付けという作業が待っています。

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最後に長男も事務所について来てもらい、この部屋とのお別れをしました。


実は休日に引越しを決行。
事務所にあったはずのものが、どんどん我が家に運び込まれるのを目の当たりにした長男は、説明はしておいたものの、なぜこんなことが起きているのか、今ひとつ理解が追いつかなかったようでパニックになってしまい、大泣きと父親と私に他害が出てしまいました。

 

引越しというイベントについて、重い自閉症の長男には説明も理解も難しい・・・やはりこうなったか。

 

ということで敢行した「ありがとう、さよなら」の儀式。

引越し後の荷物がすっかりなくなった部屋を、親子3人で掃除をして、この部屋に訪れることは、今後ないことを再度説明したのでした。

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「綺麗になったね。ありがとう」
と言うと、この笑み。

長男もどうやら解ってくれたようです。

 

そして記念に3人並んで、この部屋での最後の写真を撮りました。
長男もいつか、その写真を見て懐かしいと思う日が来るのでしょうか。

 

部屋を出て鍵を閉める時、部屋に再度向き直って「ありがとう、バイバイ」と言いました。

長男も、静かに手を振りました。

 

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さて、事務所には大きなホワイトボードがありました。
長男にとっては、以前は破壊対象でしかなかったホワイトボードです。
それが長男を囲んでいる支援者によって、すっかりコミュニケーションのツールに生まれ変わったのでした。

 

それはこちらで書いています↓

tetote-net.com

 

今回の引越しで、旦那はこれを処分するつもりのようでしたが、これを敢えてお持ち帰りしました。
そしてリビングの壁にどどーーーん!と立て掛けたんでした。

息子が破って剥がしてしまった壁紙も隠れてしまって、なかなかいい感じ。

 

さて、こちらに鎮座したホワイトボードには、私が最初に書き初めをしたのでした。
書いたのはコレ!

 

息子がよくカレンダーに書き込んでいる「H」
ディーラーに行きたいと意思表示してくるために書く「H」

 

それもこちらで書いてます↓

 

hisakokk.hatenablog.com

私が書いた後に旦那もすっ飛んできて「H」と書いてニヤニヤ。

 

それを見ていた長男。
いやいや、君たちの「H」は甘い、まだまだだのぅ・・・と、のっそりと歩いてきて、ふふふと笑いながら「H」と書いてくれたのでした。

 

と言うわけで、親子3人の「H」は完成!

これからこのホワイトボードでも、どんなコミュニケーションが交わされていくのか、ちょっと楽しみでもあるのです。

 

そして、そのコミュニケーションについての進化が見られました。
言葉を持たない長男が描いた絵。


なんと2語文になった!!


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「ディーラーに行って飲み物のみたーーーい!」

 

旦那、早速ディーラーに洗車の予約を入れたのでした。

引越しの片付けの手を少し止めて、息子の願いを叶えよう。

明日は晴れるよ!

 

旅に出ました!(一瞬の)

飛行機での旅ではありません。
福岡の上空は毎日こんなもんです。

さて・・・

「旅に出ます!」

「ん、ん?」

 

この、すっとんきょうな旦那と私の会話から始まった、私の旅(?!)のお話。

博多駅みどりの窓口は、いつも混み混み。

ということで、特急も停車しない駅を出発点にして、まずは切符を買うことにしました。
案の定、私の前にはひと組しかいないみどりの窓口

 

「往復券が欲しいんですけど」

「それなら2枚切符の方がお得ですよ」

 

ほんとやん!
片道にちょっと上乗せくらいで買えました。しかも席も指定可能。

とりあえず、まずはここから2駅先の博多駅へGO!

 

博多駅からはこちらに。

 

 

敢えて指定席にはせず。
車内アナウンス「指定席は満席でございます」

自由席はガラガラでございました。

 

まぁ色々と複雑な過程がありまして、西九州新幹線が開通したことで「リレーかもめ」という特急列車が誕生したのでした。
このリレーかもめ1本で懐かしい場所へ向かいます。

さて今回の旅、ことの発端と言いますと、旅館の息子さんにみそめられ、遠い遠い淡路島の地にお嫁に行った地元の友達が帰ってくるというので、その情報をくれた同じ地元の友達と「会おう!」と盛り上がってしまったことにありました・・・。

 

来年還暦を迎える人たちのLINEとは思えまい・・・。

 

そういえば、淡路島に嫁に行った友達の結婚式の思い出。

彼女のお父さんが
「おりゃぁ(俺は)悔しか!!」
と、可愛い娘が遠くに嫁にとられる悲哀を大声で叫んだのでした。

 

それに間髪を入れず、彼女の親戚が「もう諦めろ!」と、こだまを返したのが面白いやらほっこりするやら・・・。

私も幸せで寂しい、お父さんの気持ちが1ミリだけわかる気がしたのでした。

 

声をかけてくれた方の友達は、ゆったりとした喋り方と、怒ってモノ言う時もなんだか柔くて気迫がこもらない、ほんわかした温かさがあって、彼女といると居心地がいいのです。

そんな彼女達と会いにいくのです。

 

 

わくわくわく

 

 

 

少し前までは、自分のために遠出をするなんて考えられませんでした。

息子を置いて、丸一日たったひとりで自分の楽しみのために時間を使うことは、何だか悪のような気さえしていました。

やむを得ない理由がなければ、出ていくことは憚れました。

 

でも、この日はそんな思いも微塵も感じませんでした。

いつもなら移動は車。
どこに行くにも、息子の緊急時にはスッ飛んで行けるように。

 

でも、この日は旦那が息子の事業所にもお迎えに行って、夜私が帰ってくるまで息子を見ていてくれます。

 

わくわくわく

 

落ち合った駅は、私たち3人が高校時代を過ごした場所です。
当時はディーゼル車で、この駅に乗り降りしていたのでした。
でも、私たちが青春を過ごした時の駅舎は、すっかり跡形もなく変わってしまっていました。

 

さて、新駅舎になってから降り立ったのは初めてでしたが、あの二人は駅で出迎えると言っておきながら姿が見えません。

 

「どこや?」「どこや??」とLINEを飛ばし合いながら『在来線』と『新幹線+リレーかもめ』の改札口は、完全に別だということに気付き、やっと出会うことができました。

 

高校生の時、列車が到着するギリギリの時間にジャンケンをして、負けた人が全速力でポテトチップスを買いに行くという迷惑な遊びをしていたキオスクは姿を消し、何だか立派なショップとカフェが駅舎の中にありました。

 

そこを横切りながらも「うそぉ〜」「こんなんじゃなかったよ、武雄駅ぃぃぃ!」という言葉が口からこぼれるこぼれる・・・><

 

すっかりこの町自体変わってしまっていて、私たちの通った高校も建て替わり、たわいないお喋りをしていた喫茶店も、貸しコード店も、映画館も、色んな場所がなくなってしまっていました。

 

けれど昔のままの通り、通った古本屋、変わらない建物も見つけて、ちょっと嬉しくて、ノスタルジーにもかられてしまいました。

そして名物の楼門も、変わらずにそこにいてくれました。

 

さて、居心地のいい友達が予約してくれていたお店に到着。
いつもは満席、なかなか予約も難しい人気店らしく、それはこの後、納得や〜!と相成りました。

 

しかもこの日はラッキー日だったようです。

 

なんかいっぱい綺麗に盛り付けられていました。
全部食材の説明を聞いたけれど、なんか難しくてなんの記憶にも残らず。

でも、味は記憶にしっかりと残りました!

 

んまっ!(ほんと!)

 

3人とも別々のパスタを注文して・・・

シェアしまくる。

贅沢贅沢。

 

メインが豚肉なんだけど、還暦真近のおばちゃん達には有難いくらいに柔らかい。

 

んまっ!(ほんとほんと!)

待ってましたー! 2種のデザート!

 

たくさんの小鉢で出てくるから・・・という理由らしいけれど、そんなお店のインスタはコチラ↓

「ワイン食堂cobacini」

https://www.instagram.com/cobacini/

 

幸せな胃袋と一緒に会話も弾む弾む。
昔話も記憶の底から滝のように流れ出て、ランドセルを背負っていた頃から制服を着ていた頃のエピソードまで出るわ出るわ・・・。

 

老化してる脳が、今まさに活性化してるよね!

そんな会話の中から、現在の私たちの地元の話にも及びました。

 

何やら地元も道路拡張がされるとか、温泉付き高級旅館ができるとか、変わりつつある町の様子を教えてもらったのでした。

 

さっぱりそんなことになっているとは知らなかったので、想像できないなぁなんて言っていると、「じゃあ!」ってことでこの二人に拉致された私は、友達の車で地元の町まで足を運んだ、いや連れ去られたのでした。

 

変わりゆく場所を車の中で教えてもらいながら、時は経ったのだと実感もせざるを得ないわけです。

変わってしまうと寂しくもあり、でも変わらなければ時代遅れなんて思ったり、人間なんて勝手なものです。

 

そうして行き着いた先は、今回帰省してきた友達の実家。
彼女のお母さんが、懐かしい顔で出迎えてくれました。

 

昔のまま、相変わらずに勝手口から勝手にキッチンに上がり込み、あれを食べな、これも食べな、と昔と同じようにお母さんにもてなしてもらい、子供の頃の自分がそこにいるような気さえしたのでした。

 

笑った笑った。

嬉しかった嬉しかった。

 

懐かしかった懐かしかった。

 

そして温かかった。

 

そんな旅の終わりを迎えるために、地元の駅まで送ってもらった私は、今回思い切って電車に乗る決心をして良かったと思いました。

 

地元の駅は、駅舎は建て替えられたもののプラットホームは昔のまま。
古き良き時代、朝ギリギリに走り込んで列車に飛び乗ると、すっかり顔を覚えてくれていた車掌さんもいて「今日も間に合った!良かったな」と言ってくれてたっけ。

 

考えてみると、迷惑を掛けっぱなしだった高校時代。
大人達に見守られながら過ごせた事も、今なら解ります。

この町を離れるために2枚切符のもう一枚を使って特急列車に乗り、やっぱり満席の指定席ではなく、席が結構空いている自由席に落ち着いたのでした。

 

この山は高校の近くにある、この町のシンボル的な山。
毎日この山を見ながら通学していたんだった。

列車の窓から不思議な光が筋を立てていました。

 

旅も終焉が近づくと、居心地のいい友達からラインが。

「うちに帰るまでが遠足です。気をつけて帰ってね〜」

 

そうか。

 

遠足だったか・・・。

 

旅と言い切っていたけれど、日帰りだったしな。

夜も20時超えての帰宅。
旦那と長男は待っていてくれました。


帰宅した私に旦那いわく
「即席でできるトルコライスの素、買ってるよ。ご飯は炊いてる」

 

旅のトドメは晩御飯作りでした。
まぁ、旦那は仕事の締切を山のように抱えて、仕事をしながら長男を見ていてくれたのでね。

 

こうして私の旅、いや、遠足は幕を閉じたのでした。

 

袋の裏を凝視しながら作るもイマイチ上手くいかず。
でもまぁ、家族三人で食べる晩御飯は、何はともあれ

うまっ(笑)

罪作りな梅雨の時期に、長男が見せた成長

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梅雨の合間の雲から覗く月。

今年も七夕は雨でした。

 

梅雨の時期というのは、割と体調も気持ちも空と同じように、重くてスッキリしません。

 

私達でさえ、も〜、なんなん?毎日毎日……と愚痴をこぼしたくなる最中に、長男も、自分の頭をポンポンと軽く叩いては「あー、あー」と訴えてきます。

 

「そうか、君もね。」

言葉を持たない長男の頭を撫でながら、頭が重いのか、痛いのか、私も長男を慮りながら返事をします。

 

それができなくて、どう訴えればいいかを知らなくて、泣いて大暴れしていた少し前までのことを思えば、何とか気持ちを伝えて、周りの共感を得る方法を知った今、本当にすごい成長を果たしたのだと思ったりするのです。

 

さて、そんな罪作りな梅雨の最中の出来事。

 

長男、突然「書くよ〜〜〜」とマジックを手に取り、ブンブン振ってニンマリな表情。

ん?何事?と思って動向を伺っていると、長男はズンズンとカレンダーに突進して「H」と迷いもなく書いたのでした。

 

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おぉ! これは!!

長男と付き合ってくれている人たちは、すぐに判るコレ。

 

この「H」は、実は長男がよく絵を描くときに見られるホンダのロゴ。

つまり長男は「ディーラーに行きたーーーい!」と、こうして伝えてきたわけです。

 

そう。長男は行きつけディーラーがお気に入り。

優しい人たちはやっぱり好き♪

ジュースもくれるから、めっちゃ好き♬

 

これは以前も書きました。

 

hisakokk.hatenablog.com

 

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ん?待て待て、これは、まさしく今日の日付!

迷わずこのスペースに、ちゃちゃっと書いたではないかっ!

 

月のスケジュールをカレンダーで確認するようになった長男は、いつどんなことが待っているのか、人とのやり取りで確認することが、すっかりルーティンになっています。

 

ここで大事なポイントは、人とのやり取りが好き!というところ。

 

いつもは私とのやり取りの中で「今日はココ、このイベントまで……1、2、3」とカレンダーを指差しながら一緒に日にちを数え、楽しみにしていてくれる訳です。

 

でも、今回は「今日はココ」なんて言ってない。

 

ん?まさか??

君は実は、今日は何日とか理解しちゃってるんではないの??

 

ちなみにそんな疑念を抱きつつ、後日「今日はどこ〜?」と聞いてみると、ふふんと笑ってカレンダーから離れる長男。

 

もやるわぁ〜、でもなんか面白いわぁ〜。

 

という訳で、ピンポイントで今日という日に「ディーラーに行きたい!」と意思表示をした長男。

 

そうかそうか。
君の思いは叶えたい!

 

で、ディーラーさんに「洗車したいです!」と電話をしてみました。

 

ところがこの日、お客さんいっぱい過ぎて座る場所の確保も難しそうとのこと。

実はサービスの良さと人の良さで、人気店なのであります。

 

しかし、実は定期点検の時期が来ておったのでした。

それで早速予約を入れ、長男に交渉。

 

今日は人がいっぱいで行けないみたい。

でもね、来月8日に行けるよ!楽しみにしていよう!

 

えー?!っという顔をしつつも、取り敢えず受け入れてくれた長男にマジックを渡し、私は「8日ど〜こだ?」と聞いて試すことも忘れて(不覚!)8日を指差し「書いてね!」と。

 

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で、カレンダーを一日一日、8日を目指して指差し数えました。

これだけ待ったら行こう!

 

自分の想いを伝えようとすることも、それがすぐに叶えられなくて待つことも、君の成長で、君が頑張って学んできたからなんだよね。

 

さて、そうやって数えて待った点検日は、いよいよ明日です。

なのに梅雨は罪作り。明日の予報も大雨とな。

 

でも、長男の心の天気は「晴れ」になるのかも。

きっとね。

 

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8ヶ月を経て新入り登場!

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ちょいと前のお話ではありますが、我が家のトイレ事情のお話し。

今回、2代目が壊れて8ヶ月目にして、3代目がお目見えとなりました。

 

ひたすら仕事の合間にパソコンと睨めっこして、なんとか低予算で済まされないか頑張っていた旦那の想いが届き、やっと見つけたこの3代目。

やんわりとお伝えするためですので、なんかこの言い方はある筋の推しの方々に怒られそうではありますが、ご容赦ください。

 

3代目とは、この方のことであります↓

 

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3代目がやってくるまで、実は8ヶ月もの間、バケツを使って風呂から水を汲み上げ、人力で流しておりました。
その理由は、ある時水洗レバーが完全に折れて使い物にならなくなり、いっさい水で中を流してはくれなくなったからです。

 

1代目はこの家に引っ越して来た時、すでに割れている部分があり、2代目に交換する必要がありました。。

 

2代目は、本当に頑張ってくれて、長男の自己主張に付き合ってくれました。
個室が故、思いが吹き出すのか、探究心が増すのか、その主張は結局破壊に繋がってしまうことがほとんどでした。

 

便座には謎の長男の歯型が放射状につけられていたり、便座をもぎり取ろうとして、すんでのところで止められて曲がってしまったり、それでも2代目は、それを静かに受け止めていたのでした。

 

ちなみに今の施設でも便座を剥ぎ取り、小脇に抱えてトイレから出てきたなんて前科もあります。
それを、できたスタッフさん達は爆笑しながら話してくれて、親としては深刻に「大変申し訳ありませんでした」なんてならずに済んで、気持ちがすごく楽でした。

 

昔利用していた施設であれば、長男が何かを破壊した時、施設の方から深刻な顔をして報告をされ、謝罪や修理の費用について話し合うなんてことは山のようにありました。

 

あの時の精神状態は正直どん底でしんどかったのですが、今はそれがグッと少なくなっているのです。
長男の破壊歴が減少しているのも少しはあるものの、何より今のスタッフ達は柔らかい対応をしてくれます。

 

昔の定番は「息子さんが壊しました!」というセリフが迎えに行った時の最初の言葉でした。

でも今は「油断してました!すみません」「男性スタッフがいなくて、女性スタッフで外で見守っていたら、便座を小脇に抱えてトットットッと出てきちゃいまして・・・」

という話し方で、親を笑わせてくれます。

 

敢えて、このような対応をしてくれるのかもしれません。こちらも申し訳ない気持ちはありますが、また明日も、息子を元気に送り出して預けることができるのです。

 

ちょいと話はそれましたが、2代目の話に戻しましょう。


2代目は歯型や剥ぎ取り未遂の他に、止水栓をぶっちぎられた過去があります。
止水栓からは水がとうとうと流れ、あっという間に川となって廊下に水面ができ、その上をスリッパがザザーっと流されていくのを目の当たりにしました。

 

慌てて水の元栓を閉めて流水を止めたものの、そうなると水自体が使えないので生活できません。
旦那もなんとか仕事を終わらせて帰宅、しばらく止水栓と格闘し、なんと修理をしてしまいました。

 

旦那もこういうことが得意なので、障害が重く破壊魔の長男が我が家にやってきた理由のひとつになっているかもしれません。
世の中、ようできております(きっと)。

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あの日から随分経って、ついに2代目が自ら壊れてしまい、お風呂の水とバケツにお世話になる日が来ようとは。

しかも、3代目に出会うまでに8ヶ月も掛かってしまうなんて。

 

そうやって、3代目はやってきたのでした。
普通にレバーを回して水が流れた時は、「おぉーーー!」と声が上がりました。

そして業者の方が取り付け後に2代目をドナドナした時には、本当に「ご苦労様」という思いでした。

 

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そして今回、もうひとつの挑戦をしています。

 

破壊魔の長男なので、今までは敢えて便利なものは排除していましたが、満を持してこの方にも我が家にやって来てもらいました。

 

それはこの方↓


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まだ破壊されることなく、この状態を保っています(スゴいぞ!)。

 

長男よ、共生もまた大事なことです。
今回は可愛さ余って破壊した、なんてことがないように、ここにあるものを認めるということも学びながら生活してみよう。

 

いろんなことに成長をしながら頑張っている君なら、きっとできるよ、ね?


まぁ、もし破壊したらあのスタッフ達のように、笑い飛ばそうと思うけどね。

 

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母は一生分のありがとうを、ブラックホールの外に散りばめて逝った。

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私の母は厳しい人だった。
実際に母からは褒めてもらえたことなどほとんどなく、たとえば大学でトップの成績をとっても「お金がかかっているのだから、そのくらいできて当たり前だ」と言ってのけたくらいだ。

 

何か手伝っても「ありがとう」とは言われることはなく、むしろどこが出来ていないか指摘されて、やり直すように叱られることの方が多かった。

 

特に私の九つ上の姉にはさらに厳しかったようで、そのため姉は自立も早かったのか、私の母親のような役目もしていた。

 

そんな姉が関東から引き上げて来て、母の介護をずっと担ってくれていたが、認知症が進んで介護が厳しくなった母と、沼に入ったかのように徐々に戦いが激化していった。

 

母は睡眠障害により夜通し眠らない。しかも夜中に40回程もトイレに行き来して、姉は母のトイレの介助と、辺り撒き散らされた汚れの掃除を、外が白むまで続けるのが日課になっていたようだ。

 

さらには介護により姉自身も靭帯を損傷してしまい、ついに医師から自宅介護は厳しいと宣告され、そこからいろんなことが動き出した。

 

まずは睡眠調整のため、精神科へ入院したが、やむなく腸にゼリー状の異物が溜まったことで、外科のある病院へ転院。


この病気は3度目で、毎回名医が執刀してくれていたが、今回は一番厄介で腸の中にいくつもの袋ができてしまったため、ゼリー状の遺物は全て取っても袋は取ることができず、4度目もあり得るが手術は難しいだろうとのことだった。

 

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外科の退院が決まると、精神科から再び受け入れOKで出戻り転院となった。この頃から食事を摂れなくなって来て、点滴もだんだん血管に入らなくなってきた。

 

精神科を退院した後の受け入れを許可してくれていた施設が、その後の返事がうやむやになり出したため、母のその後が宙に浮いた形で、姉はまた母の介護を覚悟していた。

 

その間、ケアマネージャーからの連絡も対応もなく、担当者会議もないままに、精神病院側からもどうして良いものかと何度も姉に連絡が来た。

結局病院と施設への連絡係のようなことを姉がしていたが、ようやく施設が「受け入れますよ」と言ってくれたため、施設への移動となった。

 

施設での看護と介護は、スタッフの皆さんは本当によくやってくださった。

そして、スタッフの皆さんからはこんな言葉をいただいた。

 

「お母様はとても優しく、いつも"ありがとう”と言ってくださるんですよ」

 

驚いたことに、姉や私にはほとんど言ってこなかった「ありがとう」という言葉を、母は惜しげもなく1日にも何度も言っているというのだ。
しかも優しく、当然出来ていないところの指摘などもしない。

 

そもそも母は、周りの人たちからは優しく笑顔の人と言われていた。でも子供の頃の私たちにとって、それは真逆のように思っていた。

 

姉と私は、お互い顔を見合わせて笑った。
そうか。
私たちには言わなかった一生分の「ありがとう」を、母は命のあるうちに周りの人たちに言い尽くしているんだと。

 

私たちはブラックホールで、ありがとうや褒める言葉が欲しかったけれど、そこに母の言葉が吸い込まれていくことはなく、むしろ今、その外側に散りばめているんだなと思った。

 

それで良い。母らしいと思う。

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そして、母がきっと一番会いたかったであろう兄が、やっと帰ってくることとなった。
その時は、すでに言葉を話す力もなくなっていた。

 

面会は二人ずつしか入室できないことになっていた。
先に、兄と姉が面会に向かった。

 

しばらくして戻ってきた兄は「俺のことは忘れていた」と言っていた。
しかし、再開したその時の写真を見ると、母の顔は何とも言えない今にも泣き出しそうな表情だった。

 

忘れていたかもしれない。けれど、大事な人と会っていることだけは解ったのだろう。
そして力のない手で、兄の手を握っていた。

 

次に姉の娘である姪と私が入室した。姪が実家の猫の写真を見せて笑いかけると反応していた。
私も父の若い頃の写真を見せると、母の顔がパッと明るくなった。

 

「これ、誰?」
母は頭を横に振る。でも笑っている。
父のことも忘れてしまったのかもしれない。でもやはり、父は母の好みの人だったようだ。

 

そして、母の最期の日。
姉と兄、姪と私の四人で午前と午後の2回の面会をした。
午前の反応は薄かったが、午後は目を開けて息で言葉を発しながら反応をしてくれていた。

 

この日の夜、私はどうしても長男のことで一度自分たちの家に帰らなければならず、旦那と長男と三人で一度帰宅した。
翌日午後に実家に戻るつもりだったが、帰宅と同時に姉から電話が来た。

 

急激に心臓が弱っているらしい。自分たちもすぐに病院に行く!

 

私は結局、翌日の用事はキャンセルして実家に折り返した。 運転は自分がするからと旦那が言ってくれて、そのまま親子三人で夜中の道に車を走らせた。

 

その時、私はもう間に合わないであろうことは覚悟していたが、私が実家に着いた直後に、母は久しぶりの我が家に帰って来た。

そして母は、仏壇の前に眠ったような姿で安置された。

 

姉たちは連絡を受けてすぐに病院に向かったようだ。母の顔を見ると眠っているようだったので、姉が「お母さん!」と声を掛けると、施設の看護師さんが、もう息をしていないと伝えて来たそうだった。

 

その後に医師から死亡と告げられ、呆気なく母は、たったひとり旅立っていった。

 

それからお通夜、葬儀、初七日も済んで、今後も七日ごとのお勤め、そして初盆から一周忌まではあっという間のような気がする。

姉と兄と私、久しぶりに揃ったが、母のお陰でたくさんの兄弟の話もできた。
母にとっては、これが一番の供養になるかもしれない。

 

三人で話す内容は、ちょっと母にとっては不本意かもしれないが、まぁそこは天国で笑いながら聞き流しておいてもらおう。

 

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