宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

母は一生分のありがとうを、ブラックホールの外に散りばめて逝った。

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私の母は厳しい人だった。
実際に母からは褒めてもらえたことなどほとんどなく、たとえば大学でトップの成績をとっても「お金がかかっているのだから、そのくらいできて当たり前だ」と言ってのけたくらいだ。

 

何か手伝っても「ありがとう」とは言われることはなく、むしろどこが出来ていないか指摘されて、やり直すように叱られることの方が多かった。

 

特に私の九つ上の姉にはさらに厳しかったようで、そのため姉は自立も早かったのか、私の母親のような役目もしていた。

 

そんな姉が関東から引き上げて来て、母の介護をずっと担ってくれていたが、認知症が進んで介護が厳しくなった母と、沼に入ったかのように徐々に戦いが激化していった。

 

母は睡眠障害により夜通し眠らない。しかも夜中に40回程もトイレに行き来して、姉は母のトイレの介助と、辺り撒き散らされた汚れの掃除を、外が白むまで続けるのが日課になっていたようだ。

 

さらには介護により姉自身も靭帯を損傷してしまい、ついに医師から自宅介護は厳しいと宣告され、そこからいろんなことが動き出した。

 

まずは睡眠調整のため、精神科へ入院したが、やむなく腸にゼリー状の異物が溜まったことで、外科のある病院へ転院。


この病気は3度目で、毎回名医が執刀してくれていたが、今回は一番厄介で腸の中にいくつもの袋ができてしまったため、ゼリー状の遺物は全て取っても袋は取ることができず、4度目もあり得るが手術は難しいだろうとのことだった。

 

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外科の退院が決まると、精神科から再び受け入れOKで出戻り転院となった。この頃から食事を摂れなくなって来て、点滴もだんだん血管に入らなくなってきた。

 

精神科を退院した後の受け入れを許可してくれていた施設が、その後の返事がうやむやになり出したため、母のその後が宙に浮いた形で、姉はまた母の介護を覚悟していた。

 

その間、ケアマネージャーからの連絡も対応もなく、担当者会議もないままに、精神病院側からもどうして良いものかと何度も姉に連絡が来た。

結局病院と施設への連絡係のようなことを姉がしていたが、ようやく施設が「受け入れますよ」と言ってくれたため、施設への移動となった。

 

施設での看護と介護は、スタッフの皆さんは本当によくやってくださった。

そして、スタッフの皆さんからはこんな言葉をいただいた。

 

「お母様はとても優しく、いつも"ありがとう”と言ってくださるんですよ」

 

驚いたことに、姉や私にはほとんど言ってこなかった「ありがとう」という言葉を、母は惜しげもなく1日にも何度も言っているというのだ。
しかも優しく、当然出来ていないところの指摘などもしない。

 

そもそも母は、周りの人たちからは優しく笑顔の人と言われていた。でも子供の頃の私たちにとって、それは真逆のように思っていた。

 

姉と私は、お互い顔を見合わせて笑った。
そうか。
私たちには言わなかった一生分の「ありがとう」を、母は命のあるうちに周りの人たちに言い尽くしているんだと。

 

私たちはブラックホールで、ありがとうや褒める言葉が欲しかったけれど、そこに母の言葉が吸い込まれていくことはなく、むしろ今、その外側に散りばめているんだなと思った。

 

それで良い。母らしいと思う。

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そして、母がきっと一番会いたかったであろう兄が、やっと帰ってくることとなった。
その時は、すでに言葉を話す力もなくなっていた。

 

面会は二人ずつしか入室できないことになっていた。
先に、兄と姉が面会に向かった。

 

しばらくして戻ってきた兄は「俺のことは忘れていた」と言っていた。
しかし、再開したその時の写真を見ると、母の顔は何とも言えない今にも泣き出しそうな表情だった。

 

忘れていたかもしれない。けれど、大事な人と会っていることだけは解ったのだろう。
そして力のない手で、兄の手を握っていた。

 

次に姉の娘である姪と私が入室した。姪が実家の猫の写真を見せて笑いかけると反応していた。
私も父の若い頃の写真を見せると、母の顔がパッと明るくなった。

 

「これ、誰?」
母は頭を横に振る。でも笑っている。
父のことも忘れてしまったのかもしれない。でもやはり、父は母の好みの人だったようだ。

 

そして、母の最期の日。
姉と兄、姪と私の四人で午前と午後の2回の面会をした。
午前の反応は薄かったが、午後は目を開けて息で言葉を発しながら反応をしてくれていた。

 

この日の夜、私はどうしても長男のことで一度自分たちの家に帰らなければならず、旦那と長男と三人で一度帰宅した。
翌日午後に実家に戻るつもりだったが、帰宅と同時に姉から電話が来た。

 

急激に心臓が弱っているらしい。自分たちもすぐに病院に行く!

 

私は結局、翌日の用事はキャンセルして実家に折り返した。 運転は自分がするからと旦那が言ってくれて、そのまま親子三人で夜中の道に車を走らせた。

 

その時、私はもう間に合わないであろうことは覚悟していたが、私が実家に着いた直後に、母は久しぶりの我が家に帰って来た。

そして母は、仏壇の前に眠ったような姿で安置された。

 

姉たちは連絡を受けてすぐに病院に向かったようだ。母の顔を見ると眠っているようだったので、姉が「お母さん!」と声を掛けると、施設の看護師さんが、もう息をしていないと伝えて来たそうだった。

 

その後に医師から死亡と告げられ、呆気なく母は、たったひとり旅立っていった。

 

それからお通夜、葬儀、初七日も済んで、今後も七日ごとのお勤め、そして初盆から一周忌まではあっという間のような気がする。

姉と兄と私、久しぶりに揃ったが、母のお陰でたくさんの兄弟の話もできた。
母にとっては、これが一番の供養になるかもしれない。

 

三人で話す内容は、ちょっと母にとっては不本意かもしれないが、まぁそこは天国で笑いながら聞き流しておいてもらおう。

 

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