宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

親子四人でお礼参りに行ってきました

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次男、退院以来の帰省です。

夏休みの1週間だけを我が家で過ごすことになりました。

なんせ新学期早々から2ヶ月近く休学をしてしまったので、大学の研究が大変みたいで田舎に長居はできません。

 

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次男が入院した翌日、私が病院に到着した頃に旦那と長男は、病気平癒で有名な地元の神社に願掛けをして、頂いたお守りを東京に送ってくれました。

 

そのお守りは、病院の壁に並んで次男を見守り続けていました。

 

そして現在の次男は、生きていくことにほとんど問題のない位まで治癒しました。

これまでの、次男に心を寄せて下さったたくさんの方々には感謝しかありません。

 

私は仕事で行けなかったのですが、空港には旦那と長男が迎えに行ってくれました。

ゲートから次男が小走りで駆け寄ってきた姿を見て、旦那は安堵したらしいのです。

 

問題なく走ってくる次男にやっと会えた長男は、いつものようにツンデレでお迎えしたようです。

 

翌日は夕方から、願掛けしてお守りを頂いた神社にお礼参りに行ってきました。

本当は一気に三社全てに出向いてお礼を申し上げたかったのですが、筥崎宮はちょうど放生会の初日で、相変らずのすごい人手でこの日は断念。

次男滞在中に日を改めて行くことにしました。

 

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鳥飼八幡宮です。

境内の中は気持ちのいい空気で、良い気が流れていることを感じさせました。

 

地元の人達からはとても愛されている神社のようで、境内には保育園もあります。

神様の周りを子ども達が楽しそうに走り回ったり、神様の前で座り込んでおしゃべりしたりしていました。

ここの神様が、子ども達をお守りして下さっているのがよくわかります。

私も子ども達にちょっとだけ混ぜてもらって、楽しくおしゃべりをしました。

子どもの笑顔は最高です。


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鳥飼八幡宮の歴史は古く、その重みがズーンと体の中に入ってきます。


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楼門の参道側には狛犬さんが。こちらは青の狛犬さん。

妙にかわいくて、既にもうここで足止めを喰らった私。

暫く眺めていましたが、思わず笑顔に。境内の中を守るというより「いらっしゃ〜い!」と言われているような。何だかほっこりしてしまいました。

 

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こちらは赤い狛犬さん。

お〜、笑ってる笑ってる!この表情を見ていりゃぁ、そりゃ当然こちらの顔もほころぶってもんです。


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本殿にて、まずはお礼をお伝えしました。本当にお陰様です。ここまで元気になりました。

 

この神社の絵馬は、丸くてかわいい形の絵馬なのですが、そのほとんどが病気平癒の祈願でした。

病気でここに来れない人のために、その人のことを思って書かれた絵馬の文字を見ていると、ちょうどそんな思いで旦那と長男はここを訪れて、お参りをしたんだろうなぁと思いました。


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黒殿神社です。

この神様の手前に湧いていた不老水を頂き、今後の健康を願って参拝しました。


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楼門の境内側を向いた神将がお二人。

こちらは狛犬さんのコミカルさからは一転、しっかり神様達をお守りされています。

 

天満神社、鹽竈北辰神社にも参拝しました。

良い時間を過ごせました。きっと、私達を神様は歓迎して下さったのかな。


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2社目は宮地嶽神社

長い階段を、次男は難なく登る事ができました。

 

それにしても、参道は何やら強烈な香りが……。


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香りの謎はすぐに解けました。

原因はコレ! 銀杏です。


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この楼門をくぐって境内に入ると、その香りも全くなくなりました。


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重厚な楼門に圧倒されます。


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宮地嶽神社といえば、このしめ縄! 相変らずの存在感です。


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ドドーーーン!! いやぁ、圧巻!


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この場所にたどり着くと、突然太鼓の音が鳴り響き始めました。何か儀式が始まったようです。

まさにこの前に立った瞬間に始まったので、やはりここでも神様に歓迎して頂けたのでしょうか。


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なぜか、あちらこちらに牛車がありました。神様はこの後、お出掛けかな?


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本殿の向かって右側に、御神鏡が祀られていました。

空を向いている御神鏡からは、すごいエネルギーが放たれていました!


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ここまで治癒できたことをご報告。しっかりお礼と感謝の気持ちをお伝えして、帰路に就きました。

長男がそっと、次男に手を差し伸べています。


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ここは嵐のCMで有名になった「光の道」です。

あの太陽の神道が拝めるのは、まだ少し先になります。


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駐車場へ向かう時も、二人は並んで歩きました。

長男は、最近は急に飛び出すことも少なくなりました。けれど、次男は昔と同じように道路側を歩き、長男の手を握りしめていました。

 

この光景を見ることも、きっとこの先はどんどん少なくなっていくでしょう。

病気を乗り越えた次男の将来を、離れた場所から応援するのが勤めとなることは誰もが分かっています。

 

それが分かっているから、手をつなぐことをしなくても、危険な飛び出しもだんだん少なくなって、長男は1人で歩いていくことが上手になってきているのかもしれません。

ギャハハ〜家族

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最近は「親の育て方が悪い!」という言い方が少なくなったような気がするのですよ。

 

今時の子育ても「褒めて伸ばしましょう」「褒めた上で、もっとこうしたらいいよ! と提案しましょう!」みたいな感じが主流なので、親に対しても同じようになって来たんでしょうかね。

 

「大変ね〜、頑張ってるね〜、もっと声掛けとか勉強しなきゃね〜、だってしゃべれないもんね〜」

「頑張ってるね〜。親が先生にならなきゃね〜、親次第で発達が促されるんだからねぇ」

 

結局、言い方が変わっているだけなんですよね。大事なことなんですけれど……。

でも、親次第って脅迫にも似てる気もするんですが、私の心が荒んでそう思えるんでしょうか……(ヤバい!)

 

私も実際言われたことあるんですけど、その辺り、とうの昔に手放してしまって、ギャハハーと笑うことを優先してしまっています。

 

本当に大変で、どうすればよいか分からない時期もあって、当時は確かに勉強も不足していただろうし、声掛けだってダメダメだったと思います。あ、きっと今もですね。

 

でもでも、私が構造化とか、言葉掛けとか、必死になればなる程長男は牙むいてたように思うんです。

それで、疲れ果てたある時、それをすっかり手放しました。

 

きっと、私と長男のために言って下さった方達に対しては、裏切りに似た?(大袈裟か?)形になったと思います。でも、我が家の場合は、それで楽になったのも事実です。

 

言葉を持たない長男は、学校のガチガチのティーチでは失敗に終わっています。

当時のティーチは特に、時間を細分化して、写真を使ってスケジュールを組み立て、それに添って行動を促し、本人がそれを見ながら動く、正にガチガチなものでした。

 

けれど、自由人の長男は写真を見せられる度に反抗して、スケジュールや、その写真を貼ってあるホワイトボードまでも盛大に破壊しはじめました。

どんだけ嫌だったんかい……。

 

とうとう我が家の中では、スケジュールも何もない時間だけになりましたが、今度は暇でいろいろやらかしを始める……ということで、ヘルパーさんが月に2回、お泊まりの短期入所が月に1回と、助けに来て下さっています。

お陰様で、そうやって長男は、割と自分の年に近い人達と過ごす時間もできました。

今は全体的に、まぁまぁ、いいバランスで生活できているように思います。

 

言葉を持たない長男なので、あーあー言ってきても分からないことはありますが、そこは27年間も親子として共に過ごしているので、テレパシーはしっかり存在しています。

 

というか、会話はあるんです。

「あーあー!」「ん?破って遊ぶ紙がほしいん?」「あっ」「んじゃ、持ってくるけど、ここにずっと座ってられる?」「あっ」

「あれ、座ってるって言ってたじゃん!」「あ……」「ん?何かしようとしてたでしょう!」「あ……ははは……」「あ、砂糖を流しに捨てようとしてたな?」「あ〜……」「砂糖の入らないクッキー作る〜? 知らんぞ、美味くないで〜!」「あははは」「あははは」

 

実は、会話し放題です。

 

障害児・者には、対応が悪く分かり辛い言葉掛けは混乱を来すから、語彙は少なく分かりやすく、低い声でゆっくりと! と言われていますが、それすら守れない我が家です。

対応は良いのか悪いのかどうでしょう、分かり辛い言葉もガンガン言ってしまいます、語彙は多く、いつもの声で普段の会話の速さで!……あれ?我が家のこれ、怒られるレベルかも……。 

 

良いのか悪いのか分かりませんが、会話が面白くて、毎日それで話し続けています。

 

考えてみると、長男がギャハハ〜と笑ってくれるから、親の方が味を占めてゆるゆると一緒に過ごしているのかもしれません。長男はどう感じているのかより、親の勝手なのかもしれないです。

 

障害児・者と対峙するための学問からは、多分離れてしまっていて、きっと怒られるレベルな気がします。

でも、今日も長男の笑顔見たさに、話しまくっています。

 

ところで最近、長男が人差し指を旦那や私の顔に近づけてきて「目を突くぞ〜、目を突いてやるぞ〜」とパフォーマンスを見せてきます。

そこで、旦那は近づいた指をペロリと舐め、私はカプッと軽くかじってみせました。

長男は「ギャハハ〜」とぴょんぴょん跳ねて数歩離れていきました。

旦那はドやぁ! という顔、私は「母に勝とうなんざ100年早いわ!」の捨て台詞で、ますます笑い転げる長男。

 

本当に……ギャハハ〜な家族でスミマセン。

 

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次男のいない誕生日が当たり前になる

次男、今月の26日で23回目の誕生日でした。

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次男がまだ家にいた頃、誕生日はプレゼントも用意はしていたけれど、何より家族でケーキを囲んで「はっぴば〜すで〜♪」と歌うだけの、シンプルな時間を共有することが一番だったような気がします。

次男がどう考えていたかはわからないけれど。

 

次男の好きなチョコレートのホールケーキを買って、電気も消して、みんなで手拍子しながらベタに誕生日の歌を歌って、そしてなぜかロウソクの火を長男が吹き消して

 

もう今はそれも思い出でしかないのだけれど、今の次男も、祝ってくれる人が変わっただけでいい時間を過ごせているようです。

まぁ、母としては安心です。

友達に祝ってもらう方が、今の次男にとっては一番嬉しいんじゃないかな。

家からは随分離れているけれど、頑張ってくれていることが一番だし、友達が一緒にいてくれることは、親にとっては本当に有り難いことです。

 

そういえば、最近は身を守れる位には走れるようにもなってきたようです。

安堵しました〜。

 

昔は次男の生まれた夏は、なるべく家族の思い出を増やしたいと旦那は思っていたようです。

いつも、言葉にはしないくせに、自分の頭の中で、みんなで何処に行くかのプランをこっそり考えていました。

そして「○○行こ〜〜〜〜!!」

と言ってくるのです。それでも、プランの完全版スケジュールは、当日に説明したりしなかったり……。

 

でも、我が家ではあまりスケジュールにこだわりません。

自閉症の長男でも、何とも柔軟に育ったのは、我が家のそんな緩いところにあったのかもしれません。

 

だから、スケジュールは旦那の頭の中だけで回って、あとは何となくみんなの動きから、その後の行動が変わってしまったりします。

でも、それを楽しんでいると言ってもいいかもしれません。

 

子ども達が小さい頃は特に、海にはよく遊びに行きました。

私は、男ども三人の体力に付いていけないことしばし。でも、よく4人で笑っていたものです。

 

なんせ、旦那と次男のアホなお笑いセンスは似ていて、一緒に笑いをとることに一生懸命。

長男は、それをクールに受け止めて、私はその三人のやりとりを横目で見るという感じかな。

 

海で私が写メろうとすると、この親子はこんな感じ↓

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当然だけど、家族で海でたくさん遊んだ思い出の記憶は、次男はまだ小さい時の姿です。

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長男とは、旦那と私と三人で今も海に行って、海岸の散歩や潮風を楽しんで来ます。

ただ、昔のようには、海の中に入ることもなくなりました。

 

けれど、年に1回位は長いドライブは実現させていて、今も旦那の頭の中には、みんなで何処に行くかのプランがいくつかあるらしいのです。

 

今後はますます大学生活も忙しくなるし、東京の友達との充実した日々もあるだろうし。

旦那のプランが、どのくらい実現するかどうかはわからないけれど、その中のいくつかは叶うといいね。

 

まだ夏休みに帰郷していない次男を、長男もカレンダーを見ながら待っているようです。

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9月に2週間ほど帰れるかどうかということなので、旦那のスケジュールプランがどう動くのか……。

まぁ、ちょっと待ってみることにしましょう。

この先、それもなくなるかも知れないしね。

そもそも、もう次男のいない誕生日も当たり前になってしまったわけだし。

いまのうち、いまのうち……。

 




 

長男の名前は今も轟いていた!

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数日前、放課後等デイサービスの私の職場のスタッフから「講習会の講師の方から、先生のお名前が出てましたよ」と言われて「はい?」となった私。

よくよく話を聞いて納得。「息子さんのことを、よくご存知でした」だそうな。

私の名前は、長男の延長線上に出てきたわけですね。

 

それもそのはず。講師の方は現役のヘルパーさんで、今も長男が行動援護(重度の障害児・者の移動支援)でお世話になっている方でした。

 

そのまた数日後に、タイミングよくその方との行動援護が入っていたので、職場のスタッフが講習会でお世話になったそうで、有難うございました! と伝えると、そのヘルパーさんが

「いやぁ、そこでもヒロキ君の話しをするとは。でも、最近もよくヒロキ君の名前を聞くんですよね」

と一言。

えぇっ、最近おとなしくしてるんで、鳴りを潜めていたつもりが、未だに名前は轟いたままなんですね! やはりと言えばやはりなんだけど……(笑)

 

苦笑の私に

「今回の講習会でも、ヒロキ君にモデルとして参加して頂こうかという話しが出てたみたいですよ」

 

なるほど〜。そういえば、何度かそんな講習会のモデルとして依頼を受けたことがありました。

講習を受ける人達に対して、講師がモデルとなった子どもに実際に支援を行なって見せた上で、さらに講習を受ける側が、モデルに対してアプローチを行なったり、グループでディスカッションする、実践型の講習会です。

 

結局、モデルは別の子になったようですが、未だに長男の名前が、この市内の障害者福祉の世界で轟いていることに「長男、恐るべし!」と笑ってしまう母なのでした。

 

けれど、よくよく考えると、長男に対してそれだけの人達が関わってくれて、支援をしてくれていること……たくさんの人達が、長男のために考えを巡らしてくれていること……難しい障害がある長男を、それだけ理解をしようとしてくれて、実際に向き合ってもらっていること……。

それが、長男の名前があちらこちらで聞かれることにつながっているんだなぁ、と、しみじみと思ったのでした。

 

長男を忘れられたところに追いやることはなく、長男をいつも真ん中に置こうと頑張って下さる方々に、本当に感謝します。

 

辛い思いもたくさんしたけれど、世間の色んな人達にも、長男のやらかしでたくさん謝って来たけれど、それ以上に長男がいなければ、こんなにも人に感謝することもなかっただろうなぁ。

 

そういえば、職場のスタッフはこんなことも言っていました。

「息子さん、行動援護では何時間も歩くそうですね! 元気なんですねぇ!」

 

昔は更に走ってたけどね。

走っても歩いても、何時間も一緒に付き合ってくれるヘルパーさんや事業所のスタッフさん達には頭が下がります。

 

不思議なことに、長男を支援してくれる人達の多くは俊足でした! 

何処へ走って飛んでいってしまうかわからない長男を追いかけたり、そんなことを何年も繰り返して、今は楽しみながら歩く長男を守りながら歩いて下さっているんです。

 

 

人の繫がりはすごい。人の繫がりは暖かい。

長男の周りは、そんな人達でいっぱい。

 

けれど、一般的にも障害者の福祉業界では、どんどん人が減っている現状があります。

その歯止めをかけるには、どうしたらいいんだろう。長男の周りも、その波は止められない傾向にあります。

 

感謝の先に、これからもずっと関わってもらえるかどうかの不安と、それでも生活のために辞めるスタッフを引き止められない現実と、親にできることはないのかというジレンマとが入り交じります。

 

ただただ願うことしかできません。

人と心で関わることを生業にしている人達が、自分自身も安定した暮らしをしていける、そんな日々が実現しますように……。

そして、長男もまた、人を好きなまま、この先もずっと人と関わり続けていけますように……。

 

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120才まで生きたい

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昨年のお盆は父の初盆でした。いやぁ、しきたりの多い地区での初盆は、なかなか大変でありまして、認知症を患っている母の代わりに執り行った姉は、随分と疲弊してしまっていたのでした。

 

そして、今年の初盆というと、昨年の秋に亡くなった甥っ子の番になったのでした。

甥っ子は関東在住なので、完全に身内だけで済ませることができて、父の時のように姉が疲弊することもなく、心穏やかに冥福を祈ることができました。

 

もちろん、旦那は長男ということで、我が家のお盆も例年通りの通常運行。義母から習った通りに、3日間お膳を上げてお勤めも果たせたと思います。

 

ところで私は、姉、兄、私の三兄弟で、取り敢えず我が家の直系の血筋としては、父が亡くなった今は兄が跡取りということになります。

ところが、兄の子供は二人。長女と、長男である甥っ子です。

その甥っ子が亡くなったために、私の実家の血は、兄で途絶えることになるのです。

 

そもそも実家の名字は、実家のある県の中で1軒しかありません。

兄が実家に帰ってくることもないし、本籍も移しているので、母が亡くなれば、この名字はこの県から消え去ってしまうことは、昔からわかっていたことではありました。

 

ただ、父はまるで先を見越したかのように、私達子どもには

「何もこの家にこだわることはない、自分達の暮らしをしっかり立てていければ、何処にいてもいい。この家がなくなっても構わない』

と言っていました。

 

そんな今年の初盆は、私の大事な友達の親御さんも亡くなったり、お世話になった人達が多く、今年の草葉の陰は、私の大事な人達であふれています。

 

不謹慎ながらも……と前置きをして、私の幼なじみが語った言葉が

「若いときはご祝儀で破産しそうだったけど、この年になれば、お香典で破産しそうよね」

冗談のように二人で話しながら、お互い世代が移り変わっていくことを感じとっていました。

 

あと数十年もすれば、間違いなく自分達の番になるのです。

でも、私は長男を残して死ぬことは、まだ解決法が見つかっていないのでできません。

夜中に脱走をしてしまうので、親亡き後に預かってくれるところは見つからないだろうと、はっきり言われたことがあるのです。

 

例え、グループホームを建てることができたとしても、長男はその中に入ることができないかも知れないのです。

次男に長男を体ごと託すことはするつもりはありません。次男の人生を守るのも、親の責任だからです。

 

今の現実を鑑みると、長男は私達と暮らすということでしか解決法は見つかりません。つまり、長男よりも長生きするか、自分が死ぬときに一緒に連れて行くのか……。

 

この考えは時代遅れのようでいて、こんな家族はまだまだたくさんあるような気がします。

 

それで、幼なじみと親友の三人で、メッセンジャーでやりとりをしたとき、私が「120才まで生きる!」と書いたら、幼なじみと親友が、自分達も120才まで生きる! それに付き合うよ! と言ってくれたのでした。

 

それも現実的ではありません。でも、こんな話しができる場所があるのは救われます。

 

私が元気で120才まで生きて、長男と一緒に暮らし続けることの方が不可能なのか……私が死んでも、どこか笑顔で暮らしていける場所が見つかることのほうが不可能なのか……。

 

どちらであっても、将来の長男は幸せで、将来の次男も自分の道をしっかり歩めていますように……。

東京に滞在していた時、神社で手を合わせてそうお願いしてきました。

 

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さよなら東京。母は帰りも珍道中!

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というわけで、次男と東京最後の夕食を済ませて、次男のマンションに戻りました。

もともと1週間分しか用意していなかった荷物が、季節をまたいで滞在したおかげで、スーツケースはパンパン。

翌日は早朝に起きて、敢えての成田から、LCCの飛行機で福岡に戻ることにしました。

 

翌朝、これまた東京最後の朝食を済ませ、キッチンもしっかり片付けて、いよいよパンパンのスーツケースをゴロゴロと引きながらマンションを後にしました。

 

思えばこのスーツケースをゴロゴロ引きながら、空港から直行した病院まで、田舎ものの母は迷い迷って、病院最寄駅から6〜7分のところを、40分も掛けてたどり着いたのでした。

 

到着して最初に目にした次男の姿に、40分歩き回った疲れなどブッ飛んで、次男の先行きを案じる方が優ってしまいました。

 

1週間と思って上京してから2ヶ月、あの日ベッドで寝たきりだった次男が、歩いて駅まで見送りに付いてきてくれました。

 

いつも使っていた駅ではなく、成田への乗り継ぎを考えて、少し遠いもう1つの最寄駅へ向かい、到着すると「じゃあね、気を付けながら頑張るんだよ」とだけ言い残して、改札に向かいました。

 

ところが我ながらおかしなことに、改札出口側から入ろうとして、正に改札を出ようとする団体にひんしゅくを買ってしまいました。

 

慌てて入り口に移動したのですが、その時ふと振り向いたら、向こうに向かって歩く団体の流れの中に、一人こちらを向いて立っている次男の姿が見えました。

 

その時、今日までずっと私が心配し続けた次男が、今度は私を心配そうに見ているのです。

 

そうして次男はその団体に紛れて姿が見えなくなり、私は構内に入る流れに流されて、それが東京での、次男の闘病を見守るだけの日々に、区切りをつけた瞬間でもありました。

 

結局私は、次男の心配通りにお上りさんであることは間違いなく、改札口の失態から次は降りる駅を間違え、おかげで時間が押したので、結局、最初は予定にしていなかったスカイライナーを利用することにしました。

 

都会は電車を間違えても、数分でまた電車が来るので、降りる駅を間違えても、田舎のように深刻なことにはまずなりません。

けれど、スカイライナーの特急券の購入がイマイチわからず、係の方に親切に教えて頂きました。

 

旦那いわく、きっと1日にそんな人、一人はいるよね……。

この日はそれが、私だったわけです。

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無事成田に着くと、今度は第三ターミナルまで670メートルほどの距離を歩き、ようやく到着すると、今度は自動チェックイン機が見当たらないという事態に。

 

入り口の所のインフォメーションに尋ねると「さぁ〜、どこでしょうか……あの団体の辺りに行ってみればわかるのでは?」

と指をさしながら言われて、ちょっとだけ口が開きました。

 

とはいえ、色々言ってもいられないので、お礼を言って団体の側に行ってみると、その人垣に紛れたように、ちょっと想像を超えた場所にあったので、福岡や羽田のチェックイン機を思い出し、恐るべし、成田空港……と思ったんでした。

 

しかもチェックイン機に入力すると、チケットは発券口から出てきているのに、モニターには「発券できません」と表示されて、どっちじゃーっっっ! とパニクっていると、すぐ後ろの係員さんが「お客様、これで大丈夫です」と言ってくれたので、何とかそこもクリアとなりました。

 

それにしても、心臓に悪い……。

 

荷物を預けるため、順番を待ってカウンターに行き、スーツケースを計りに乗せると9Kgと表示されました。

係の人が「それも」と指差すので、肩に掛けているバッグもなんだ……とスーツケースの上に乗せると、何と13Kg。

私、4Kgも肩に掛けておりました。驚き。

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保安検査場も無事に通り抜け、その先でお土産を買い、ざっくりと「←国内線」「国際線→」とデカデカと書いてある壁の「←国内線」に沿って歩き、ようやくゲートラウンジに到着しました。

 

けれど、大きなガラスの壁から、飛行機らしき物が見えない。

んん???と思ってガラスの壁に近づくと、いました!

小さくて可愛い飛行機が。

しかも、小学生の時以来のタラップでの搭乗。

 

実はLCCは初めて乗ったのですが、確かに狭いし音がなかなか賑やか。

でも、私的には大して気にはなりませんでした。

 

私の隣は、まだ就学前くらいの小さな男の子とお母さんでした。

「当機は間もなく離陸します」と言われて、思いの外長い滑走時間に、男の子が「……飛ばないねぇ?」とお母さんに聞いていたのが、ちょっと可笑しかった。

 

このまま、目的地まで滑走のままで到着するんじゃないかって位走って、無事空に飛び立った時は、男の子は既に飽きていて「飛んだね」と何とも薄い反応に、また笑ってしまいました。

 

到着は佐賀国際空港です。

旦那と長男が、ドライブがてら福岡から迎えに来てくれました。

ロビーのソファーに座っていると、そこに二人がやってきて、長男が満面の笑みで迎えてくれました。

 

その瞬間、なんだか報われた気がして、力が抜けました。

長男の笑顔にまた会えたことが、本当に嬉しくて、長男をずっと守ってくれていた旦那にも、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

久しぶりの我が家は、やはり落ち着きました。

思ったほど散らかってもなく、旦那の頑張りがよく伝わりました。

 

実は私が病院で最初に次男の姿を見た時、この姿は旦那にも長男にも、しばらくの間は見せられないと思いました。

多分、ショックを受けるだろうと思ったから。

 

ビデオ電話ではなく、電話の声だけで状況を話したのですが、やはりそれだけでも、旦那は眠れなかったそうです。

案の定でした。

 

退院してから、やっとビデオ電話をしましたが、その時の長男の嬉しそうな顔は忘れられません。

兄弟で、何度も何度も手を振っていました。

 

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東京に行くにあたって、私は支援基幹センターに、もしもの時は長男をお願いしますと言って上京しました。

 

次男が高熱と呼吸困難に見舞われていた時、実は旦那は、イザとなった時は自分も東京に行くことを考えていたそうです。

でも、東京に行くために、長男をどこか施設に緊急で預けることは、一切考えなかったらしいのです。

 

長男と一緒に行くためには、飛行機ではリスクが高いと思い、本気で二人で車で来ようと思っていたというのです。

そのために、ルートや駐車場も検索していたと。

 

そうでした。うちはそうやって、いつも一緒にいることの方を選んで来ました。

 

そして、今度は夏休み、次男の帰りを待つ番です。

9月の2週間ほどの間、また家族が揃うことができます。

 

そうして私はまた、日常に戻り、今日に至っています。

 

 

リハビリ散歩〜あの日々を辿る

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実は、私が次男のマンションを離れて帰宅してから、かれこれ1ヶ月以上が過ぎました。

今回は、ちょっと思い出しながら書くリハビリ散歩。

なんでしょうね、なんかね、当時を思い出すと、私も結構精神的にキツかったように思うのですが、このリハビリのつもりの次男との散歩が、それを全部チャラにしてくれた気がするんです。

 

福岡に帰ってからは、自分が運営するサイトのために取材に出掛けたり、勉強会に行ったり、調べ物したり、色んなことをしていました。

本来の放課後等デイの仕事も復帰しましたが、まぁ〜時間の使い方がへたっぴ過ぎて、何でもかんでもゴテゴテですがな(汗)

 

それにしても、東京ほど人混みもない田舎の都会を歩きながら、時々あの散歩の日々を思い出したりするのです。

散歩をしながら、これからもこの子は何とかやっていけるだろうと、湧いてきた思いつきのような不思議な感情が、今は確信に近いものとなりました。

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東京の夕方は、九州よりも早くやってきます。

夕方の風を受けながら、次男のマンションからのんびりと、池袋の街まで歩きました。

この街は、旦那も長い間住んでいた場所です。

 

目的は買い物や食べ歩きなんてことではなく、ただひたすら歩くこと。

休憩場所にSEIBUデパートの屋上にある「睡蓮の庭」を選び、ここでものんびり過ごして来ました。

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そこはフードコートのようにもなっていて、バーベキューもできるので、次男がバーベキューの匂いにやられ始めた所で、睡蓮の庭を後にして下界へと降りました。

 

本当はバーベキューをしても良かったのですが、取り敢えず向かったのは、予々次男が情報をゲットしていた超人気店のカレー屋さん。

いえね、何となくそんな気はしてましたが……カレー屋さんは2時間以上待ち。人気店に、予約なしは通用しないよね。

はぃ。そんな気はしてました。

 

ということで、次男が福岡から友達がやって来ると、いつも連れて行くというリーズナブルな餃子屋さんに行くことに。

母としては、そっちの方が興味あり。

知っている高校時代の次男の友達の名前がポンポン出てくるので、ここで次男と彼らが、賑やかに食べている姿が想像できてしまいました。

そんな友達の話を聞きながら、ほうほう、へぇ〜、と話が弾みました。
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ほんとや。うまし。まんぞく。

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翌日、診断書のことでリハビリ病院に2人で行きました。

玄関口で、お隣のベッドだった方の奥さんとバッタリ。そこで話が弾む弾む(笑)

退院して数日しか経っていないのに、まるで同窓会のような会話になってしまったのが可笑しかった。

お互い、がんばろぅね〜! なんて声を掛け合い、その場から離れました。

 

この際だーっ!

ということで、その帰りに急性期でお世話になった病院にも立ち寄ることにしました。

診察してもらう訳ではないので、本当に立ち寄るだけという私の思い付きは、次男にとっては何とも……という感じだったかも知れないけれど、強行した私に、次男も笑って付き合ってくれました。
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特定疾患なので、追跡のために10月に再診することになっています。
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さて、来ただけでは次男にも申し訳ないので、1階のスタバにて一休み。

治療は辛かっただろうけれど、ここで出てきた思い出話には1つも「ツライ」というキーワードは出て来ませんでした。

次男らしいなぁ。

 

さて、病院の周りも少し歩いてみました。

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入院中に通りかかった、こんな風だったツタだらけの家。

それがこんな感じに。進化中でした。

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あれから更に、人の屋内侵入は許してくれそうにありません。
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人じゃない方がいらっしゃいませんように……。

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前に歩いた時に、つつじ祭りがあっていた、あの根津神社

もう夕方6時を回っていたので、神様も戸を閉めていらっしゃいました。
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「これさ、根って書いた時点で、しまった!大きく書き過ぎた‼︎  って、だんだん字が小さくなったパターンやん 」

……どこまで父親と言うこと似てるんじゃい。
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ピシャリと閉められた戸と門の前で、手を合わせて「お世話になりました」とお礼を申し上げて来ました。

ここの土地神様ですからね。

そのすぐ側で、懸命に治療していただいて、ここまで回復できました……と報告をしました。
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後楽園駅

毎日、ここから乗り換えをしていました。f:id:hisakokk:20190623022427j:image

バイトは、ドームを突っ切って歩いていくんだそうな。翌日は、ドームの周りものんびり歩いてみました。
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シビックセンター の展望台も、今回は今日が最後だと思いながら、長い時間、次男と都会を上から眺めました。

スカイツリーは、私が空港から病院に駆けつけたあの日も、そしてシビックセンター の展望台から眺めたこの日も、変わらずにどっしりと存在していました。

 

次男に何が食べたいのかを聞いたら、久しぶりに「お寿司」との返事。

池袋に移動して回るお寿司に行きましたが、行列ができていたので、予約票に名前を書いて、待ち時間の間再び、でも今度は夜の睡蓮の庭へ。
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無事にお寿司にもありつけました。

次男の嬉しそうな笑顔で、遂にファイナルです。

翌日は朝から、私は空港へと向かうことになります。

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