宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

やっと書きます。激動でした(その3)将来の光がまぶしいぞっ!

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いやぁ、ここのところの夕日がいちいち綺麗ですな。

そんなこんなで気づけば12月も10日を過ぎておりました。激動の日々も、どんどん過去のことになっていくわけです。

 

けれど、忘れないでしょう。おばさん、結構感動したので(笑)

 

ある日、同じ重度の自閉症のお子さんのお母さんから言われました。

「出番ですよ!」

 

はい? なんの??

 

時は新型コロナで外出ができず、学校も例外なく子供達は自宅待機を余儀なくされていた頃です。

大学の学生たちも、やはり対面授業ができず、全面オンラインでの授業となっていました。

 

うちの次男も、ISS搭載の望遠鏡で実に摩訶不思議な現象を発見したらしく、それについて他大学の教授たちとも議論しているそうだけど

「オンラインなのがもどかしい・・・」

ボソッとLINEに一行。

 

そうなんやぁ〜・・・と人ごとな返事の母ではありましたが、なんという時代になったものか・・・。

 

そんなこんなの謎の「出番です」の一言を私にかけたお母さんですが、実に勉強家で様々な資格も持っていて、障害とはなんたるかのエビデンスもバッチリ語れる、私の尊敬する人です。

で・・・なんの???

 

お母さんは、ある人に私の連絡先を教えていいかと聞いてきました。

その理由に「なして?」とポカンな私。

連絡先は某大学の先生で、それは大学での講義の依頼でした。

 

ちょいとちょいと、言わなくてもわかるよね。私、なんのエビデンスも語れないよ?

画面のパワポを示しながら説明している自分なんぞ、かけらも想像できんよ?

教員免許と運転免許しか持っていない私が、運転技術の解説でもするん?

 

と思っていたら、障害を持った子供のお母さんとして、子供と共に生きているリアルを語るだけでいいという依頼でした。

 

毎日がえらいこっちゃのリアルなので、そりゃ話せと言われればネタが尽きないのは事実。

息子のブッとんだやらかしを話すだけで、結構みんな笑ってくれて「本にすればいいのに!」とか言ってくる。

そんなん、大赤字に決まっとるやろ(笑)

 

実は声をかけてくださったお母さんは、その大学で講義をされていて、どんな授業をしているのかと聞いたら、ちゃんとパワポで資料を提示しながらしっかり先生をされていました。

大活躍のお母さんはいつも大忙しで「いつ寝てるの?」と聞いたら「そりゃあなたでしょ!(笑)」と返されました。

いやいや、寝れない理由がちょっと違いますがな。

 

そんな理由で、大学の先生方とソーシャルディスタンスを保ちつつお会いして、色々お話を伺いながら、その依頼を受けることにしました。

 

授業は、保育科の学生が現場へ巣立つ前に、障害を持った子供の家族の話を聞いてもらって、保育に役立ててもらおうというもの。

これもコロナの影響で、なかなか現場実習の受け入れが厳しいことから、学生たちにどう学びを提供しようかと、大学の先生方が考えて企画されたものでした。

 

実際、その大学は先生たちがとてもパワフルで熱心。面白いアイデアも取り入れながら、とても良い授業をされていました。

 

もちろん発達心理学や障害児教育の基礎知識は授業でしっかり学ぶわけです。

先生方は、それは支援をする上でブレないためであって、支援をするに当たっての手法を子供に押し付けるためではないと言われました。

 

子供ひとりひとりに向き合うことが大事だと。

 

凄い先生方です。

ここの学生は先生方に恵まれて幸せだなぁ。

あのお母さんも、ここで教鞭を取ってるのも心強い。

実際、保育科に行きたい高校生がいたら、私はこの大学を勧めます!(マジ)

 

先生方も、ここの学生たちは優秀なんですよと言われていたけれど、本当に人として優秀な保育士になれると、私は大学の回し者ではないですが言い切っちゃいます!

 

気付けば、私はオンラインで7時間の授業を3回もさせていただきました。

当然エビデンスもなく、ひたすら母親の話。

でもあまり知られていない家族のリアル。

7時間、やっぱりネタはつきませんでした(笑)

 

そもそもなんで自分の「出番」を受けたのかというと、そのリアルを学生たちに話せる機会なんてまずないからです。

こんな貴重な時間をいただけるんだから、これはやはり障害を持った子供の「いち母親」としては受けるべきでしょう。

 

しかも、現場で頑張ることになる学生たちが、障害を持った子供たちを受け入れることができたら、もしかしたらどんな障害のある子どもでも、幼稚園や保育園で友達を作ることだってできるかもしれない。

 

何より学生たちが現場に立った時、目の前の障害を持った子供に向き合って笑ってくれる。

そんな光景を見ることができるだけで、どれだけ親たちの心が救われるか・・・。

 

それを伝えようと思ったんです。

こんな機会を与えてくださった大学と先生方には、感謝しかありません。

そして、真剣に聞いてくれた学生たち、そしてあのお母さんにも。

 

そうやって終わってみれば、学生たちに大量のレポートと感想をいただきました。

これが涙もので・・・。

一人一人の文面から、障害を持った子供と向き合おうという想いが溢れていました。

そして、そのお母さんにも寄り添いたいと、多くの学生が書いてくれていました。

 

私にとっては激動の、学生たちとの三日間。

嬉しいなぁ。

少しでも伝わったのかなぁ。

学生たちの、現場での姿が見たいなぁ・・・。

 

きっと大変なこともたくさんあるはず。

悩むことも多いはず。

けれど、学生たちが私に贈ってくれた文字たちが希望をくれる。

 

その将来の光がまぶしいぞっ!

 

 

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激動でした!(その2)初めて「書いててよかった」と思えました。

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「バズってますよ!」

この一言に驚いた日。

 

関節炎にてすっかり役に立たない私の両手ですが、何とかピアノは弾けまして、そんなこんなで退職した放課後等デイサービスからご依頼をいただいて、月に2回の音楽の時間だけは続けています。

 

そして、その日も子供達と音楽でお付き合いをして、記録まで書いて事業所を出ました。

キーボードを抱えて、てくてくと歩いて帰路につき、玄関でキーボードの入ったケースを肩から降ろして何気なくスマホのチェックをした時、facebookで私がタグ付けされている投稿が目に入り・・・。

 

「んんん??」

目を見開いて確認すると、どうやら私が自分のサイトに書いた記事が、拡散されている様子。

 

「んんんんんんん?????」

 

それこそ、新聞記事には出していなかった息子の「成功例」を書いた記事についてでした。

 

我が家を丁寧に取材してくださって、私が伝えたかったことを記事にして頂いた内容を読んだ人たちの中には、息子を全く野放しで育てた印象を持った方も当然いたわけです。

 

でも、それは前回のブログで書いた通り、強度行動障害と言われる、支援の難しい子供のいる生活のリアルを知ってもらうことが目的で、その中から成功例を伝えたかったのではないわけで。

けれど実は、息子はスーパー支援員さん達に出会って、彼なりの人生を楽しみ出したリアルも持っているのです。

 

誰かが「いつか」読んでくれて、こんなこともあるんだね、出会いでどんなに障害が重くても子供は変われるんだね、と知ってくれたらいいなぁ・・・。

 

 そんな思いで書いたこの記事を、驚くほどの多くの誰かが、まさに「今」読んでくれている・・・。

 ちょっと理解に時間がかかり、多分すごいマヌケ顔で立っていたと思います。

「ドユコト?」

 

つまり、こういうことでした。

どうやら発達障害支援の専門家の先生が、私の記事を見つけてツイッターで拡散してくださったようです。

とても有名な先生のようで、そもそも拡散力をお持ちの方だったので、その力がドドンと炸裂した結果でした。

 

そりゃそうだ、私ひとりの力じゃムリだ。

そもそもツイッターは使いこなせていないし、私自身ただのおばちゃんで知名度なんて微塵もないし。

それに私の記事は、そうそう多くの人には読まれていない。

 

それにしても、facebookでタグ付けして教えてもらえなかったら、私は何も知らないまましばらくは過ごしていたでしょう。

教えてくれたKさん、本当にありがとう!

 

 

本当に、全てはこれから始まりました。

こんな有名な先生にも、私が書きたかったことが伝わったのかな・・・え?こんな文章で? 本当に?? とすごく嬉しかった。

それにしても、どうやってほとんど人に読まれていない私の記事を見つけられたのだろう。

本当に本当に、至難の技だったろうに見つけて頂いて、本当に本当に本当にありがとうございます!

 

この記事を読んで下さった人たちの中からは「こんなのTEACCHプログラムじゃない!」というコメントもありましたが、それは正直、私も思います。

でも、当時はこのやり方が主流だったんです。

現に、息子はその時代の渦中にいたわけですから。

 

当時はまだまだ、プログラムもそのメリットを生むための攻略が、完全に理解されないままに色んなところで使われていたように思います。

 

けれどそれは二の次。伝えたかったのはコレ!

 

出会いで、どんなに障害が重くても子供は変われるんですよ〜〜〜〜〜!!

 

この記事は、あっという間に一万人を超える方に読んでいただきました。

そして、奇跡はまだその後も続いたんです。

 

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息子は、色んな施設でトラブルを起こしては拒否されてきました。

周りの人たちにもそうしてきたように、施設にもたくさん謝ってきました。

修理費はかさみ、何度息子のやらかしに親として謝っても、謝罪は慣れるものではありませんでした。

 

義父の葬儀で預かってもらった施設からは、それまで親も見たことのないようなやらかしもやっていて、迎えに行った時、そのやらかしのあらましと証拠を提示されて、旦那と私は、その場にいるのも心臓がギュウギュウ締め付けられて、とても息苦しかったのを覚えています。

 

「息子さんを預かるには、支援員を増やさなければならない。ここには通常利用している人たちがいるので・・・」

 

その言葉に深々と頭を下げ、息子を乗せた帰りの車の中では、しばらく沈黙が流れました。

そして、あの時、私たち親は決心したんです。

 

どんなことがあっても、息子は一緒にそばに置く。

 

そのあとの義母の介護の時も、葬儀も、私の父の葬儀も、私か旦那が止むを得ず不在する時、どんなに息子の調子が悪くても。

私たちはいつもいつも一緒にいました。

だから、選択肢は他には考えられませんでした。

 

けれど、この記事が拡散されて、多くの支援者の方からコメントやメールをいただきました。

その方達のコメントが、それまでの私の気持ちを随分と溶かしてくれたのです。

 

それは、目の前の人達がどんなに障害が重くても、真剣に向き合い、理解しようと頑張っている人たちの言葉でした。

支援を見直したい、向き合う方法を探りたい、この施設の支援者たちのように、目の前の困っている人たちと向き合っていきたい・・・。

そんなコメントに溢れたからです。

 

こんな人たちは、本当はたくさんいた。

私が知らないだけでした。

溢れたコメントに、こっちは涙の方が溢れました。

 

スーパー支援員に出会って、けれど私が死んだ時はどうなるのだろう。

そんな思いから、もしかしたら、私は意地になっていたかもしれない。

 

この子を生かすために、私は120才まで生きると本気で言っていたほどです。

そんなこと、できるはずがない。できるはずもないのに、やらなければならないと本気で思っていました。

 

実は、この記事を拡散して下さった先生ともzoomでお話をする機会をいただきました。

先生は、どんな手法も子供の理解なしに進めてはいけないとおっしゃった。

私は大きく頷きました。

 

この記事のおかげで、他県からも強度行動障害の支援者育成研修で、お話しさせていただく機会をいただきました。

最初は、講義な訳だし、支援者育成の内容だし、息子の通っている施設からの話がよいのでは? と思っていたけれど、よくよく話を伺ったら「親の気持ち」ということで・・・あ、それなら私ですね(笑)

 

強度行動障害は最も支援が困難と言われ、二次障害であるがゆえに親が責められ、放置されてきた歴史があります。

こんなにしてしまったんだから、親が見ろ!と。

実はそうではないことは、厚労省のホームページにさえ明記されているのに。

 

しかも自閉症と言われている人たちの中で、1〜2%しか存在しない人たちです。

親の本当は、子供の命を自分の命をかけて守っているんです。

でも、それなのに許してもらえないことばかり。

 

そんな強度行動障害と言われる人たちの支援は、他人には難しいというのは当然のこと。

美味しいフルーツ飴の中に何故か入っているニッキの飴には、誰も手を出さない。

けれどたまに、そのニッキの味にはまった人達がいる。

まるでそんな人達が、頑張って親と一緒に命を守ってくれている。

しかも、それを普通にやっている人たち、志している人たちが、実はこんなにいてくれたことに、驚いて嬉しくて感謝しました。

 

初めて「書いてよかった」と思った瞬間。

こんな日が来るなんて。

 

手応えのなかった自分の記事から、くしくも自分の知らなかった支援者の声が聞けたのだから。

 

そして、ここに来て今度は、同じようなお母さん方からコメントやメールを頂くようになりました。

みんな「自分だけじゃなかった!」「ひとりじゃなかった!」いろんな気持ちが飛び交い、聞けるようになりました。

 

共感して泣いたと書いてくれたお母さん、言ってもらって嬉しかったと伝えてくれたお母さん・・・。

それは、私自身の気持ちも和らげてくれて、これからのことに背中を押してくれています。

 

そして、この激動の期間には、もう一つの熱いエピソードも経験させていただきました。

というわけで、それはまた次回・・・・つづく

 

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激動でした!夏至〜と言っていたら、それから4ヶ月が過ぎて・・・

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 そんなにこのブログを放置していたのか・・・と我ながら驚きましたが、いやいや、そのおさぼり期間が、本当に光陰矢の如しで過ぎ去って行ったのでして。

その間、なんもしてなかったわけではありません。(言い訳でもありません・汗)

 

56才のおばばにして、このぎゅっと詰まった4ヶ月が過ごせたのは、結構な体験でありました。

そんな事件三昧の日々を、そもそも備忘録として書き始めたブログだから、ここにカキコいたします。

 

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前回のブログは、丁度それまで働いていた放課後等デイサービスを辞め、直後に某障害者相談支援事業所に事務として雇って頂き、無職無収入の危機を救って頂いたところまででした。

 

ちなみに手の薬指骨折エピソード付きでしたが、それは完治・・・と思われます。

ただ、痛みはまだあるし、骨が太くなったのか指輪は全部入らないというオチ(泣)

 

でもよかよか、指輪はできなくても、お陰さまで少しでも足しになるパート収入は得られます。

しかも、我が家の事情を知ってくれている職場なので、出勤時間を柔軟に設定してもらっていたりもします。

なんせ、息子の朝の状態次第で出勤時間は影響を受けるわけです。

この子たちの問題行動やパニックは、サクッとは終わらないわけで、お付き合いするしかないんですよね。

 

そんな我が家の事情を組みとって貰っているので、ありがたや、ありがたや・・・

ゆ・・・指輪なんかできなくても・・・・・・・・・・(涙)

 

ということで、結婚指輪とお気に入りの指輪、義母からもらったネックレスとともに、ジャムの空き瓶に収まってもらいました(今後は眺めて暮らします・・・くすん)

 

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 そんな最中、激動の第一派がやって参ります。

それは、地元新聞社からの取材の依頼でした。

 

私もこの歳になり、長男を残して死ぬための準備をしなければならない時期に差し掛かりました。

そのための知識を得ること、準備をするために、勉強会を立ち上げて活動をしています。

その中で知り合った、同じように障害を持った子供さんのお父さんである、新聞記者さんにお声をかけて頂いたのがきっかけでした。

 

まず知ってもらいたいという思いから、取材を受けることにしました。

その時、顔出しと氏名公表が大丈夫か聞かれました。

考えましたが、その方が真実味もあり、他人事というよりももっと、身近に感じてもらえるのではないかという思いから公表することにしました。

 

取材はとても丁寧にして頂き、私のまとまりのない言葉をしっかりまとめ、伝わる文章で記事にして頂きました。

出来上がりの記事を読んで、プロの記者さんは凄いな〜・・・と、心底感心しました。

 

さて、その内容の中には、長男との様々な成功例は書いてもらっていません。

強度行動障害と言われる子供の家庭の、問題行動やパニックに向き合う、暮らしのリアルをそのまま伝えてもらいたかったからです。

 

さすがにこんな長男でも、様々な成功例は持っています。

でも、それを書いてもらったら、暮らしのリアルが薄まってしまいます。

 

それに、私も散々経験してきたことなのですが、人の成功例を聞いて

「ほら、こんなに大変な子も、これをすればよくなるのよ、あなたもやってみなさい!」

と、よくその家庭のことを知らない人が言って来られることがあります。

 

私が成功例を書いてもらったとしても、その記事を読んだ人が、他の障害を持った子供のお母さんにそう言っている姿を想像してしまって、それがすごく嫌だったんです。 

 

これは本当に「あるある」で、人の成功例が誰にでも通じると、良かれと思って言っても、まず人それぞれで成功するとは限らないし、むしろその家庭を追い詰めることになりかねない。

そんな経験を、私は嫌という程やってきたので、それだけは避けたかった。

 

とにかく伝える、そのために記事の中に、成功例など必要なかった。

実際、この記事は大きな反響を呼んだようで、全国で広く拡散されたようです。

こんな家庭があったのかと、知らなかった人たちが衝撃を受けたと聞いています。

それを聞いた時、書いていただいて良かった、成功だった!と思いました。

 

そして、その先のことも実は覚悟していました。

それは「この子がこんなに大変なのは、この子が小さい時から親が何もしてこなかったからだ!」という批判。

そして「このツールを使えば落ち着くのに」「この技法だったら改善するのに」という責めに近い言葉たち。

専門家たちからの、周りの支援は何をやっていたのか!とのお怒りの声もありました。

 

でも、このことはとうに想像できていたし、その時、私はひとつのことを考え始めていました。

 

記者さんは、これをシリーズ化して3つの記事にしてくださいました。

1回目が我が家、2回目は長男の通所施設での活動です。

2回目は、施設スタッフが長男を支援している中での取材だったことで、障害が重い人たちを頑張って支援している施設がある・・・ということに、また反響があったようです。

 

そして、3回目は別のお母さんのお話で、これは成功例が前面に出ていて、本当にホッとする、お母さんの頑張りを讃えたい大変良い記事でした。

 

この記事は「強度行動障害三部作」と呼ばれ、広く拡散され、1部は「衝撃」2部は「驚き」3部は「ホッとした」という声が多かったとのこと。

記者さんには、よくここまでまとめていただいて感謝の気持ちでいっぱいです。

 

さて、一切成功例を出していない1部での周りの反応から、私はその考えていたひとつのことを実行することにしました。

 

ささやかで、ひっそりとして、誰の目にも止まらないかもしれないけれど、既存のツールや技法ではない、長男に影響を与えたある事実を、私自身が記事にしました。

 

こっそり自分のサイトにて公開したのですが、これがとんでもないことに発展するなんて、その時は思ってもいませんでした。

                長くなりそうなので ・・・・・・・・・・つづく

 

                ↑↑↑↑↑

       ここで、今までのようにブログ放置ができないことを自分で悟る(汗)

 

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夏至で日食で新月でちまたではスゴイと言われているけれど

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はぃ。

我が家はいつも通りですよ。

 

ただ、最近の空は必ず太陽の光の筋なんかが見えていたので、確かにスゴイな、最近の空は・・・とは思っていましたけどね。

 

福岡では日食は50%がかけてたらしいです。南に行くほど太陽は隠れていたらしいですね。

そんで、エネルギーの強い日!とちまたでは話題になっていましたが、我が家にはエネルギーの塊の長男がいるので、毎日が縁起がいいです!(ものは考えようだ!)

 

さて、そんな縁起物の長男、この6月からやっと毎日の通所解禁で、普通に施設に通所していますが、毎年年度の変わる4月に見られる、眠気や破壊行動、泣き真似、こだわり行動のパターンが最近になって出てきておるのです。

 

年度はじめはコロナの影響で毎日は通所できなかったので、もしかしてやっと普段のように通えるようになったこの6月にずれ込んでおるのかな?

 

そう思いながら、ちょいとザワザワな様子を見せる長男と過ごす毎日なのです。

 

けれど、よく周りでコロナの影響で大変な子供達のことを耳にするたびに、なんだか長男は昔の壮絶さを超えて、今やすっかり成長したなと思ったりするんですね。

 

知能測定不能、超低機能と言われる自閉ちゃんの長男は、本当に伊達に28年間を生きていない。

 

ふんふん、君はホントに成長してるね・・・そう思うのです。

その上、長男がちょいと車のドアの内側のノブに貼ってあるシールを剥がそうとしても、車のフィルムを貼ってある部分をピリピリと剥がしても、ほいほい、そろそろヤメとけと静かに制する自分も、やはり昔の自分からすると成長?のようにも思えたりするんです。

 

これで、親子が成長した・・・なんて言っていいのかどうかは分からんのですけど。

 

これも夏至で日食で新月から「君たちなりに成長してるよ、これからも頑張りたまへ」と教えてもらったのでしょうか・・・。

 

そういえばコロナから、普段は人気もないような公園でも子供達の姿をよく見るようになっていました。

学校がリモートとはいえ始まってからは、それもまた昔の静けさが戻りつつあります。

 

公園の遊具は使えないように、ブランコも滑り台も使用禁止のロープが張られたりしていました。

公園の姿としては、なんだか切ない姿ではありましたが、これも止む無しなのかと少々子供達が可哀想でもありました。

 

けれど、子供達はいつの時代も「それはそれとして」遊びを自分たちで作っているものです。なんだかんだで走り回る子供達の姿は、それだけで癒されるものです。

 

長男が小さい頃、ブランコにこだわって脱走を繰り返していたことを、ふと思い出しました。

それで、学校の先生から長い長い夏休み、今のように放課後等デイサービスもない時代に、毎日のルーティンとしてブランコの時間を作るように指導されました。

 

母としては、それも守らねばと毎日ブランコに連れて行ったものですが、当時も人気のない公園のブランコで、長男はブランコから降りることもなく、私も5時間も6時間も付き合わされたことを思い出しました。

 

知らない人には「降りるように言えばいいじゃない」「母が降ろせばいいじゃない(まだ小さいから)」と言われましたが、現場を見たことのある人は、それが全く不可能だということは分かったようです。

 

長男は台風の日だってブランコに乗りました。

長男と母は、真っ黒に日焼けしたものです。

 

あの時のブランコは、母も、多分長男も楽しいものではなかった。

毎日の楽しい時間を作るための、発散ができる時間を作るためのルーティンにしようとして、毎日こなさなければならないルーティンになってしまっていただけです。

 

なぜかあの時は「やらなきゃいけない」という思いがありました。

多分、毎日5〜6回にも及ぶ脱走劇に、それを鎮めるための手段と言われれば、その言葉が藁になって掴んでいたんだと思う。

 

私に「帰れ!」と体を押し出して、自由に移動しながら好きな場所に行きたかった長男に、私は「ダメだよ、ここのブランコしかダメ!」

そいう言い続けていたんだよね。

 

今は行きたい場所をドライブの中で伝えてくる長男。

自由気ままなドライブがお気に入りで、旦那が時間を作ってくれた時の楽しいルーティンになった。

 

そして、夏至で日食で新月のこの日も。

 

1人で自由気ままに動きたかった長男は、今は家族と一緒に自由気ままに動くことを楽しめるようになった。

 

しみじみしみじみ。

大変なことは実際消えることはないけれど、でもみんな成長した。

それを教えてくれた、夏至で日食で新月

 

さて、アクティブな長男は、またドライブを要求してくるだろう。

夏至を超えたこの先は、昼間の時間が長くなるよ。

きっとね、長男はそのことすら分かっているはず。

 

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関節炎と退職と再就職と骨折

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ここのところのコロナ騒動で、ずっと整形外科に行けてなかったのだけれど、今日久しぶりに行ってきました。

 

なんせ整形外科というところは、待合室には私よりも人生経験の長い諸先輩方が多いわけで、万が一を考えて、やはり自分としても通院も自粛せざる得ませんでした。

 

なぜ整形外科かと言いますと、両手の親指関節が炎症を起こしてまして、日常生活にも支障をきたしていたわけです。

 

長年長男と対峙していく中で、長男の命を守るためには、渾身の力で戦う場面も数知れずでした。

 

交通量の多い道路で、パニックを起こして寝転んでしまったのを、力ずくで道路から剥がしてその場を離れたり、暴れて破壊や自傷をする長男を、大怪我しないように持てる力を振り絞って全身で止めに入ったり、その時の握力は、私の通常の握力数値24からは遠く離れた、怪力の域に達していたと思います。

 

そんなことを何年もやっていたので、そりゃ〜関節の骨がズルズルと削れてしまうわけで、そんなこんなで炎症を起こして、両手とも使い物にならんようになってしまったんでした。

 

ただ、ありがたいことにピアノは弾けたので、音楽の仕事にはさほど影響はありませんでした。

 

でも、影響が来たのは、かれこれ4年間務めた放課後等デイサービスでの勤務です。

 

ここには元気な子供達がいっぱいいて、私の性格上本気で彼らと遊んでしまいますから、無意識で彼らを受け止めようとして、手が耐えきれずに怪我をさせてしまうのではないかという考えに及び始めました。

 

実際に若い職員たちには気を遣わせていたであろうし、そろそろ潮時だと考え始めた頃に、このコロナ騒動になったわけです。

 

在宅が増えたとともに、収入も手も体力ももうあかん・・・と思い切って退職を願い出ました。

 

6月からはプータローだな、さて、収入源を増やすために、少しライティングの仕事を増やすか・・・そう思っていたところに、思いがけないお話をいただきまして・・・。

 

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私、実は先日、また一つ年をとったわけです。

放課後等デイサービスでは、中学生のダウンちゃんが私に

「おばあちゃん先生♪」

と呼んできて、それを私が

「なんやとぉ〜???」

と言って2人で笑うのがお決まりでした。

 

高校生の女の子が私に飴玉をくれて

「先生、長生きしてください」

と言ってきたのには、嬉しくもありおかしくもあり・・・。

そんなお年頃の私になったわけだし、もうこの先は正直長くはないと実感するわけです。

 

もしかしたら、家族に障害者がいなかったらそこまでの思いには至らないのかも知れません。

けれど、重い障害を持った息子を残して死ななければならない身としては、やはりもう、時間はないと思うことが常になってしまったわけです。

 

そんな思いから勉強会を立ち上げて、親亡き後を考える会を設立しました。

この会には多くの共感者、賛同者が入ってくださって、助けていただけるようになり、問い合わせも遠いところからも頂くようになりました。

 

その会で仲間になった人たちが沢山いて、その中の勉強会の後援をして下さっている方が法人を立ち上げられたので、勉強会もその中に入れ込んでもらうことになりました。

 

今後、どのようにこの仲間たちと活動していくのか、今やweb会議と言ったら・・・のzoomで会議を重ねているところです。

 

さて、長くなりましたが、その思いがけないお話ですが、そんなこんなでプーになった私のことを知って、その法人を立ち上げた代表が、法人で働くことを提案して下さったんです。

 

もちろんお手伝いはするつもりでしたし、入れ込んでもらった勉強会は私が主催のままなので、さらに活動しなければならないことが増えるのは承知でした。

けれど時給提示されたので、さすがにその時には、はい?働かせていただけるんで?

となった次第です。

 

なんということでしょう〜。

かくして、5月31日付けで退職した翌日には、再就職を果たすことになったわけです。

うそやん・・・(驚)

おばあちゃん先生は、超ラッキーおばあちゃんであります!

 

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そして、整形外科の話になります。

ここまで来るのに話が長かった💧

 

再就職を果たしたその日の夜中、長男は突然むくりと起き上がって走り出したのでした。

そんなこと昔からしょっちゅうなので、全然慌てない私なのです。

 

今は随分楽になったけれど、昔はよく長男は夜中に脱走していなくなっていたのです。

だから長男が例えばトイレで起き上がっても、今も私は目が覚めて長男と一緒に起き上がるんです。

 

昔、姑さんが入院して病院に泊まった時も、看護師さんが見回りに来るたびにガバッと起き上がっていたので、看護師さんも驚かれていました。

体がそう慣れてしまってるんですね。部屋の空気が動くとそうなるんです。

自分でも驚きです。

 

さて、そんな私なので、走り出した長男に気付いて起き上がり、多分無意識に長男を止めようと思わず手を伸ばしたんでしょう。

 

そんで、私の手から、すごくいい音がしました。

バキッと。

 

でもとりあえず長男は止めなければならないので、おいおいと長男を止めて私も布団に戻ったものの、どうやら指が曲がっちゃいけない方向に曲がった感じで、さすがに痛かったので、保冷剤で冷やしつつこの日は寝ました。

 

翌日見ると、なんとなく突き指的な指のビジュアル。まるっと腫れてました。

でも思ったほどの痛みでもないし、どうしようかなとも思いましたが、突き指も変に固まったらいかんなと、久しぶりに整形外科に行くことにしました。

 

そして、レントゲンにそれは写ってました。

骨がペリッと・・・剥がれてました。

 

いやぁ、舐めてました。

全治3ヶ月って所らしいですが、装具を作って頂いたので暫くは固定生活です。

 

でも、その昔の長男脱走事件の時の話。

追いかける際に階段の角にスネをブツけて、かなりの激痛でしたが長男を逃すわけにはいかず、精神力を振り絞って追いかけたことがありました。

 

その時に負傷したスネは、肉が陥没するほどでしたが、当時は長男も学校は長期休みで、私は病院にも行けずに怪我は放置、今も痕はありますが、お肉が盛り上がって来るまでに3年ほどかかりました。

 

なら、3ヶ月は軽傷ですな。

知り合いには、知らん間に3箇所も骨を自分で繋げたツワモノもいるし。

(レントゲン見て本人も驚いたらしい)

 

ちなみに装具を作ってくれた、聞くところによると長男の一つ年上らしい療法士さんが言われるには

 

「ポキッとかいい音がした時は、絶対に何かが起こっているわけですから、すぐに病院に来てくださいね!」

 

昔はそれが難しかったから、慣れてるというと語弊があるけれど、いまだに病院に行くのは後回しにしちゃうんです。

でも、JKにも言われたわけだし、長生きしなきゃだから、今後はそうします。

 

 

卒業記念品が実家に送られてくるというカオス

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少し前の話になりますが、実は次男、無事に大学を卒業して学位を取ることができました。

この4月からは、修士課程の道を歩んでおります。

緊急事態宣言のために、授業はwebでされているようですが。

 

この記事は、実はFacebookに友達限定で公開したものですが、最近少々Facebookにも疲れ気味の私でして、あまり開く気にもなれず、かなり不義理をしてしまっている気がします。

 

自分の記事もあまり振り返らないので、備忘録のためにその記事をココにも記すことにいたしました。

はい。

 

というわけで、次男は大学を卒業はしました。

でも、毎年華やかに行われる卒業式は、さすがにこのご時世で行われませんでした。

 

次男の住所を現在の居住地に移していないことで、我が家に卒業証書が送られてきたのですが、次男よりも先に、親がそれを受け取るというカオス。

 

そして、それから少し遅れて、卒業記念なるものも我が家の方に送られてきました。

 

というわけで、ここから備忘録、いってみよ〜。


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大きな箱(見たまんま


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開封儀式!


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アマゾンかっ!


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デカい箱にこれふたつ


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水引がちとテンションを上げてくれる


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中はこんなん。


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ん?コーチとな?


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大学のゆるキャラかっ⁉︎

さてはネズミなだけにチュー・・・・・・。


黒と赤のボールペンとシャーペンがこれ一本に収納!
やるやん!パイロット‼︎


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コーチ………親が使ってもええか?


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以上で、開封の儀を終了致します。れいっ。

 

 

その後次男から聞いたところによると、コーチのマグカップは毎年恒例らしく、年ごとにカップの色が違うらしい。

 

それを聞いて、私が

「中学校の体操着かっ! 上靴かっっ!」

と言うと、旦那が

「昔かっ!」

と突っ込んできました。

 

今は、体操服も上靴も、学年ごとに色が違うなんてことはないんでしょうか。

 

そんなこんなで、結局入学式もなかったわけですが、さすがに次の卒業式はあって欲しいと思っているわけです。

 

コロナ退散〜!!(祈)
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令和一番最初の日と2年目の5月1日

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忘れもしない、令和という新しい年号に変わる日。

日本医科大学付属病院に緊急入院した次男の、10階の病室から見えたスカイツリー

新しい年号をお祝いしているのか、綺麗な色で着飾っていました。

 

この頃はまだまだ病状も思わしくなく、先が見えない頃だったので、なんだかその綺麗な色が切なくも私には見えていたのでした。

 

令和元年最初の日、病院食もお祝いの御膳でした。

この日は割と固形のおかずが多かったのですが、小鉢には嚥下を助けるためのトロミのついた出汁があって、それに浸して喉ごしを良くしてお食べ!ってことだなと理解。

 

これがまた、ちょっとベッドの上に座っただけで心拍数がダダ上がり、そもそも起きておくことが辛くてキツくて疲れまくる。

特に固形が多くて出汁に浸して食べるとなると二度手間になるし、それでもむせたりするので、食べるのに時間がかかって、座っている辛さの方が優ってすぐ横になる。

 

というわけで、とにかく私がおかずを箸で刻みまくってスプーンに乗せて、早く食べてしまえるようにお手伝い。

麻痺した手で、握れないスプーンで、座るのもやっとで、ただただ「食べる」という行為ですら大変だったあの日々。

 

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今は次男は走れるほどに回復、生活も普通にできるようになって、そんな令和2年の5月はコロナウイルスの恐怖と戦っている。

 

東京は今日も感染者が100人越え。でも肺炎ではなかったにしても、呼吸のできない辛さをすでに一年前に経験している次男は、かなり気をつけて暮らしている模様。

 

バイトもできなくなって生活が大変だから、よかったらお金を支援して欲しいと申し訳なさそうに連絡も来た。

 

学生は卒業まで勉学に励むのが一番大事な仕事だから、そりゃあ親としては何とかするさ。

それに、色々言ってる人もいるけれど、こんな時の給付金は本当にありがたい。

多分家族全員分、次男の勉学につぎ込むことになるだろう。

 

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そして長男は、在宅日が増えたことで私ともガッツリ一緒にいることになった。

昨年の5月は、ずっと一緒に過ごすことができなかったのに。

 

あの時の、あの日々の時間をまるで取り戻しているかのように、ずっと一緒にいる。

そう思うと、こんな時間も愛おしいものです。

令和元年と2年の5月の家族は、全く違う過ごし方をしているけれど、来年の家族はどう過ごしているんだろう。

 

hisakokk.hatenablog.com

風邪からギランバレー症候群を発症した次男の記録を、日記アプリに書いていて、それをブログ用にして公開していた全27記事。↑そのうちの1記事目