「バズってますよ!」
この一言に驚いた日。
関節炎にてすっかり役に立たない私の両手ですが、何とかピアノは弾けまして、そんなこんなで退職した放課後等デイサービスからご依頼をいただいて、月に2回の音楽の時間だけは続けています。
そして、その日も子供達と音楽でお付き合いをして、記録まで書いて事業所を出ました。
キーボードを抱えて、てくてくと歩いて帰路につき、玄関でキーボードの入ったケースを肩から降ろして何気なくスマホのチェックをした時、facebookで私がタグ付けされている投稿が目に入り・・・。
「んんん??」
目を見開いて確認すると、どうやら私が自分のサイトに書いた記事が、拡散されている様子。
「んんんんんんん?????」
それこそ、新聞記事には出していなかった息子の「成功例」を書いた記事についてでした。
我が家を丁寧に取材してくださって、私が伝えたかったことを記事にして頂いた内容を読んだ人たちの中には、息子を全く野放しで育てた印象を持った方も当然いたわけです。
でも、それは前回のブログで書いた通り、強度行動障害と言われる、支援の難しい子供のいる生活のリアルを知ってもらうことが目的で、その中から成功例を伝えたかったのではないわけで。
けれど実は、息子はスーパー支援員さん達に出会って、彼なりの人生を楽しみ出したリアルも持っているのです。
誰かが「いつか」読んでくれて、こんなこともあるんだね、出会いでどんなに障害が重くても子供は変われるんだね、と知ってくれたらいいなぁ・・・。
そんな思いで書いたこの記事を、驚くほどの多くの誰かが、まさに「今」読んでくれている・・・。
ちょっと理解に時間がかかり、多分すごいマヌケ顔で立っていたと思います。
「ドユコト?」
つまり、こういうことでした。
どうやら発達障害支援の専門家の先生が、私の記事を見つけてツイッターで拡散してくださったようです。
とても有名な先生のようで、そもそも拡散力をお持ちの方だったので、その力がドドンと炸裂した結果でした。
そりゃそうだ、私ひとりの力じゃムリだ。
そもそもツイッターは使いこなせていないし、私自身ただのおばちゃんで知名度なんて微塵もないし。
それに私の記事は、そうそう多くの人には読まれていない。
それにしても、facebookでタグ付けして教えてもらえなかったら、私は何も知らないまましばらくは過ごしていたでしょう。
教えてくれたKさん、本当にありがとう!
これは、ASDに関わるすべての支援者、教育者が読むべきだと感じました。
— 村中直人 (@naoto_muranaka) 2020年8月20日
私が支援者育成をする時に「理解」に重点を置き「手法」を紹介程度に留めることにこだわるのはこういうことです。
強度行動障害〜重度自閉症の息子が、自発的交渉ができるようになったわけ https://t.co/90gsA7gT0v
本当に、全てはこれから始まりました。
こんな有名な先生にも、私が書きたかったことが伝わったのかな・・・え?こんな文章で? 本当に?? とすごく嬉しかった。
それにしても、どうやってほとんど人に読まれていない私の記事を見つけられたのだろう。
本当に本当に、至難の技だったろうに見つけて頂いて、本当に本当に本当にありがとうございます!
この記事を読んで下さった人たちの中からは「こんなのTEACCHプログラムじゃない!」というコメントもありましたが、それは正直、私も思います。
でも、当時はこのやり方が主流だったんです。
現に、息子はその時代の渦中にいたわけですから。
当時はまだまだ、プログラムもそのメリットを生むための攻略が、完全に理解されないままに色んなところで使われていたように思います。
けれどそれは二の次。伝えたかったのはコレ!
出会いで、どんなに障害が重くても子供は変われるんですよ〜〜〜〜〜!!
この記事は、あっという間に一万人を超える方に読んでいただきました。
そして、奇跡はまだその後も続いたんです。
息子は、色んな施設でトラブルを起こしては拒否されてきました。
周りの人たちにもそうしてきたように、施設にもたくさん謝ってきました。
修理費はかさみ、何度息子のやらかしに親として謝っても、謝罪は慣れるものではありませんでした。
義父の葬儀で預かってもらった施設からは、それまで親も見たことのないようなやらかしもやっていて、迎えに行った時、そのやらかしのあらましと証拠を提示されて、旦那と私は、その場にいるのも心臓がギュウギュウ締め付けられて、とても息苦しかったのを覚えています。
「息子さんを預かるには、支援員を増やさなければならない。ここには通常利用している人たちがいるので・・・」
その言葉に深々と頭を下げ、息子を乗せた帰りの車の中では、しばらく沈黙が流れました。
そして、あの時、私たち親は決心したんです。
どんなことがあっても、息子は一緒にそばに置く。
そのあとの義母の介護の時も、葬儀も、私の父の葬儀も、私か旦那が止むを得ず不在する時、どんなに息子の調子が悪くても。
私たちはいつもいつも一緒にいました。
だから、選択肢は他には考えられませんでした。
けれど、この記事が拡散されて、多くの支援者の方からコメントやメールをいただきました。
その方達のコメントが、それまでの私の気持ちを随分と溶かしてくれたのです。
それは、目の前の人達がどんなに障害が重くても、真剣に向き合い、理解しようと頑張っている人たちの言葉でした。
支援を見直したい、向き合う方法を探りたい、この施設の支援者たちのように、目の前の困っている人たちと向き合っていきたい・・・。
そんなコメントに溢れたからです。
こんな人たちは、本当はたくさんいた。
私が知らないだけでした。
溢れたコメントに、こっちは涙の方が溢れました。
スーパー支援員に出会って、けれど私が死んだ時はどうなるのだろう。
そんな思いから、もしかしたら、私は意地になっていたかもしれない。
この子を生かすために、私は120才まで生きると本気で言っていたほどです。
そんなこと、できるはずがない。できるはずもないのに、やらなければならないと本気で思っていました。
実は、この記事を拡散して下さった先生ともzoomでお話をする機会をいただきました。
先生は、どんな手法も子供の理解なしに進めてはいけないとおっしゃった。
私は大きく頷きました。
この記事のおかげで、他県からも強度行動障害の支援者育成研修で、お話しさせていただく機会をいただきました。
最初は、講義な訳だし、支援者育成の内容だし、息子の通っている施設からの話がよいのでは? と思っていたけれど、よくよく話を伺ったら「親の気持ち」ということで・・・あ、それなら私ですね(笑)
強度行動障害は最も支援が困難と言われ、二次障害であるがゆえに親が責められ、放置されてきた歴史があります。
こんなにしてしまったんだから、親が見ろ!と。
実はそうではないことは、厚労省のホームページにさえ明記されているのに。
しかも自閉症と言われている人たちの中で、1〜2%しか存在しない人たちです。
親の本当は、子供の命を自分の命をかけて守っているんです。
でも、それなのに許してもらえないことばかり。
そんな強度行動障害と言われる人たちの支援は、他人には難しいというのは当然のこと。
美味しいフルーツ飴の中に何故か入っているニッキの飴には、誰も手を出さない。
けれどたまに、そのニッキの味にはまった人達がいる。
まるでそんな人達が、頑張って親と一緒に命を守ってくれている。
しかも、それを普通にやっている人たち、志している人たちが、実はこんなにいてくれたことに、驚いて嬉しくて感謝しました。
初めて「書いてよかった」と思った瞬間。
こんな日が来るなんて。
手応えのなかった自分の記事から、くしくも自分の知らなかった支援者の声が聞けたのだから。
そして、ここに来て今度は、同じようなお母さん方からコメントやメールを頂くようになりました。
みんな「自分だけじゃなかった!」「ひとりじゃなかった!」いろんな気持ちが飛び交い、聞けるようになりました。
共感して泣いたと書いてくれたお母さん、言ってもらって嬉しかったと伝えてくれたお母さん・・・。
それは、私自身の気持ちも和らげてくれて、これからのことに背中を押してくれています。
そして、この激動の期間には、もう一つの熱いエピソードも経験させていただきました。
というわけで、それはまた次回・・・・つづく