宇宙人と暮らせば

面白親父、自閉症男子、理系(宇宙系)男子と私の、周りとちょっと違う日々を綴ります。

母は一生分のありがとうを、ブラックホールの外に散りばめて逝った。

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私の母は厳しい人だった。
実際に母からは褒めてもらえたことなどほとんどなく、たとえば大学でトップの成績をとっても「お金がかかっているのだから、そのくらいできて当たり前だ」と言ってのけたくらいだ。

 

何か手伝っても「ありがとう」とは言われることはなく、むしろどこが出来ていないか指摘されて、やり直すように叱られることの方が多かった。

 

特に私の九つ上の姉にはさらに厳しかったようで、そのため姉は自立も早かったのか、私の母親のような役目もしていた。

 

そんな姉が関東から引き上げて来て、母の介護をずっと担ってくれていたが、認知症が進んで介護が厳しくなった母と、沼に入ったかのように徐々に戦いが激化していった。

 

母は睡眠障害により夜通し眠らない。しかも夜中に40回程もトイレに行き来して、姉は母のトイレの介助と、辺り撒き散らされた汚れの掃除を、外が白むまで続けるのが日課になっていたようだ。

 

さらには介護により姉自身も靭帯を損傷してしまい、ついに医師から自宅介護は厳しいと宣告され、そこからいろんなことが動き出した。

 

まずは睡眠調整のため、精神科へ入院したが、やむなく腸にゼリー状の異物が溜まったことで、外科のある病院へ転院。


この病気は3度目で、毎回名医が執刀してくれていたが、今回は一番厄介で腸の中にいくつもの袋ができてしまったため、ゼリー状の遺物は全て取っても袋は取ることができず、4度目もあり得るが手術は難しいだろうとのことだった。

 

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外科の退院が決まると、精神科から再び受け入れOKで出戻り転院となった。この頃から食事を摂れなくなって来て、点滴もだんだん血管に入らなくなってきた。

 

精神科を退院した後の受け入れを許可してくれていた施設が、その後の返事がうやむやになり出したため、母のその後が宙に浮いた形で、姉はまた母の介護を覚悟していた。

 

その間、ケアマネージャーからの連絡も対応もなく、担当者会議もないままに、精神病院側からもどうして良いものかと何度も姉に連絡が来た。

結局病院と施設への連絡係のようなことを姉がしていたが、ようやく施設が「受け入れますよ」と言ってくれたため、施設への移動となった。

 

施設での看護と介護は、スタッフの皆さんは本当によくやってくださった。

そして、スタッフの皆さんからはこんな言葉をいただいた。

 

「お母様はとても優しく、いつも"ありがとう”と言ってくださるんですよ」

 

驚いたことに、姉や私にはほとんど言ってこなかった「ありがとう」という言葉を、母は惜しげもなく1日にも何度も言っているというのだ。
しかも優しく、当然出来ていないところの指摘などもしない。

 

そもそも母は、周りの人たちからは優しく笑顔の人と言われていた。でも子供の頃の私たちにとって、それは真逆のように思っていた。

 

姉と私は、お互い顔を見合わせて笑った。
そうか。
私たちには言わなかった一生分の「ありがとう」を、母は命のあるうちに周りの人たちに言い尽くしているんだと。

 

私たちはブラックホールで、ありがとうや褒める言葉が欲しかったけれど、そこに母の言葉が吸い込まれていくことはなく、むしろ今、その外側に散りばめているんだなと思った。

 

それで良い。母らしいと思う。

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そして、母がきっと一番会いたかったであろう兄が、やっと帰ってくることとなった。
その時は、すでに言葉を話す力もなくなっていた。

 

面会は二人ずつしか入室できないことになっていた。
先に、兄と姉が面会に向かった。

 

しばらくして戻ってきた兄は「俺のことは忘れていた」と言っていた。
しかし、再開したその時の写真を見ると、母の顔は何とも言えない今にも泣き出しそうな表情だった。

 

忘れていたかもしれない。けれど、大事な人と会っていることだけは解ったのだろう。
そして力のない手で、兄の手を握っていた。

 

次に姉の娘である姪と私が入室した。姪が実家の猫の写真を見せて笑いかけると反応していた。
私も父の若い頃の写真を見せると、母の顔がパッと明るくなった。

 

「これ、誰?」
母は頭を横に振る。でも笑っている。
父のことも忘れてしまったのかもしれない。でもやはり、父は母の好みの人だったようだ。

 

そして、母の最期の日。
姉と兄、姪と私の四人で午前と午後の2回の面会をした。
午前の反応は薄かったが、午後は目を開けて息で言葉を発しながら反応をしてくれていた。

 

この日の夜、私はどうしても長男のことで一度自分たちの家に帰らなければならず、旦那と長男と三人で一度帰宅した。
翌日午後に実家に戻るつもりだったが、帰宅と同時に姉から電話が来た。

 

急激に心臓が弱っているらしい。自分たちもすぐに病院に行く!

 

私は結局、翌日の用事はキャンセルして実家に折り返した。 運転は自分がするからと旦那が言ってくれて、そのまま親子三人で夜中の道に車を走らせた。

 

その時、私はもう間に合わないであろうことは覚悟していたが、私が実家に着いた直後に、母は久しぶりの我が家に帰って来た。

そして母は、仏壇の前に眠ったような姿で安置された。

 

姉たちは連絡を受けてすぐに病院に向かったようだ。母の顔を見ると眠っているようだったので、姉が「お母さん!」と声を掛けると、施設の看護師さんが、もう息をしていないと伝えて来たそうだった。

 

その後に医師から死亡と告げられ、呆気なく母は、たったひとり旅立っていった。

 

それからお通夜、葬儀、初七日も済んで、今後も七日ごとのお勤め、そして初盆から一周忌まではあっという間のような気がする。

姉と兄と私、久しぶりに揃ったが、母のお陰でたくさんの兄弟の話もできた。
母にとっては、これが一番の供養になるかもしれない。

 

三人で話す内容は、ちょっと母にとっては不本意かもしれないが、まぁそこは天国で笑いながら聞き流しておいてもらおう。

 

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生きて迎えた31年目と32年目

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サプライズのない我が家で、長男31年目の誕生日。
ケーキを買って、誕生日の歌を歌って、おめでとうと拍手する。

31年間やってきた、たったこれだけの時間。
それでも、我が家にとっては大事な時間です。

 

大嵐の日に壮絶な時間を生き抜いて世に生まれたものの、一瞬天国に戻ってしまい、忘れ物を取りにいったのかと思いきや、言葉やいろんなものを神様にお返しして、そしてまた、この世に舞い戻ってきた長男。

 

お返ししたものは戻っては来なかったけれど、あれからそのまま生き抜いて、31年目を迎えることができました。

 

今年の誕生日当日、旦那はバンドの練習に行って1日不在。
そういえばあの嵐の誕生の日も、旦那はバンドで興行しておったのでした。

 

私と長男がカオスな中に生きるか死ぬかで戦っていた時、子供の頃から車酔いがひどかった旦那は、揺れまくる船の中で演奏するという別のカオスを味わっていたのでした。

そんなこんなで私と長男のカオスがひと区切りついた頃、旦那のカオスも終わりを告げ、夜も遅い時間であったため、旦那は長男誕生の様子を知らぬまま、翌朝の対面と相成りました。

 

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正直旦那不在での初めての出産は不安だらけでした。
でもいざお産が始まるとそれどころではなくなり、無事に生まれてほしいとか元気で生まれてほしいとか、そんなことどうでもよいくらいに余裕もなく、ひたすらこれ、いつまで続くんじゃ〜〜〜という思いだけだったような気がします。

 

そもそも、そのカオスすらあまり覚えておらんのです。
なんせ、我ながら情けないことに気絶していたようでして。

今考えると、旦那にもし出産に立ち会ってもらっていたら、血が超苦手な旦那なので、こちらでもカオスだっただろうと思うわけです。
今となっては笑える話です。

 

裏返せば、出産も初体験となれば不安であっても仕方ないのです。
でも、これが二人目となると違ってました。

母は強いのですよ!(笑)


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ちなみに次男出産の時は、旦那は付き添ってくれました。
ただ血が超苦手というところは克服しておらず、一緒に分娩室に入ることはできませんでした。

 

私自身も、その頃には旦那不在でもぜんぜんひとりで産んじゃうよっ!という感じの、すっかりお母ちゃんになていました。


なんてったって、既に大変な最重度自閉症の長男を4年も育てていて、臨月であろうが長男を追いかけまわし、長男を小脇に抱えて荷物を持って移動し、お腹の中の次男に常に

「しっかり子宮につかまって頑張ってついてくるんだよ!」

と言って聞かせていました。
次男はそれを頑張って守り、そして今があります。

 

出産の兆候があって夜中に病院に行き、15分もすると3分おきに陣痛が来始めました。

看護師さんが慌ただしく書類を持ってきて、記入事項を質問するので、答えるより書いた方がマシ!と思った私は、「ペン貸してください!」と驚愕の表情の看護師さんの隣で、陣痛と闘いながら自ら書類に記入をしました。

 

それから15分、つまり30分で次男は生まれてきました。
カオスどころか、夜中に叩き起こされてやってきた先生の目が土偶のように腫れていて、内心ウケるくらいの余裕もありました。

 

後で聞いたのですが、私のお産の真っ最中、旦那は心配で分娩室のドアにベタっと張り付いており、駆けつけた私の母は、無事に産まれるようにと般若心経を唱えだしたと。

今度こそ私が普通にお産をしている間に、ドアの向こうは長男の時とは違うカオスだったようで。

 

それにしても、産院でお経はやめてほしい・・・

 

まるで天国と地獄のような出産の経験でしたが、今もこの話は不謹慎かもしれませんが、笑って話すわけです。

ただ、笑い話にするには正直、少しの時間は必要でした。
長男の誕生の壮絶さは、しばらくは辛い記憶でしたし、追い打ちをかけたのは、長男と次男の間の子供がお腹の中で亡くなったことでした。

 

今も亡くなった子がいてくれたらと思うことはあります。
忘れたことはないし、でも兄弟を見守ってくれていると思っています。

 

日々の生活も、重い障害を抱えて生き辛いであろう長男と、その長男を幼いながらに支えようとする次男を育てながら、辛かったことも長い時間を経て、笑い飛ばそうとする力を子供達にもらったのだと思います。

 

長男が生まれて31年目。

旦那は夜、帰る途中でケーキを買って来てくれました。


長男もおっさんになりました(笑)
それでも、父と母にとっては可愛い可愛い息子です。

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長男の通う事業所では、毎年誕生日に本人のリクエストに応えてのメニューが用意されます。
長男は話せないので、親が「うどん」か「いも天」と伝えていました。

 

それからずっと長男の誕生日には毎年、うどんといも天、両方を出してくれます。
しかも大好きなプリン付き!幸せだっただろうね。

 

今年は長男の誕生日が事業所の休みの日曜日にあたり、金曜日のお昼に出してお祝いしてくれました。
「よかったね!美味しかった?」と聞くと、満面の笑み。
お祝いをもらった長男、長男の笑顔をもらった旦那と私。

 

大きなサプライズはなくても、いろんな「おめでとう」が散りばめられた誕生日でした。
大嵐の31年前から命は繋がって、今日も生きています。


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ちなみに、その3日前は結婚記念日でした。
毎年いつの間にか過ぎ去っている結婚記念日。

今年は珍しく旦那が覚えていました。私はというと、例年通り・・・記憶の彼方。

 

旦那が、せめてケーキくらい・・・と言ってシャトレーゼへ。
大きなアップルパイに惹かれて、ケーキと言いつつどうせ三日後もケーキだし、パイも良いではないか〜ということで購入。

 

食後に長男がイソイソと食べる準備を手伝ってくれました。
「これじゃただの食後のデザートじゃん!」と突っ込みながらの穏やかな32年目。

 

さて、来年のこの日は覚えているのだろうか・・・。
そして、食後のデザートにありつけるのだろうか。(自信ない・・・)

次男と芋けんぴが並んだ日

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春の空らしく柔らかい光が届くこの頃、花粉に悩まされる私のスマホに「最強運の持ち主誕生日ランキング」なるものが流れてきたので眺めてみる。

 

結果子供たちは最強運はないということらしいが、いやいや、彼らはなかなかの最強運の持ち主である。

だって、生まれてそうそう一度天国に行って、もう一度地上に戻ってきた長男と、大学生活も4年目に差し掛かる頃に難病にかかり、数ヶ月後に復活を果たした次男なんだから。

 

二人とも生死をかけて戦った頃は、世間は桜と新緑の美しい頃だったんだよ。

 

そんな命を取り戻して舞い戻ってきた長男は、次男のことが大好き。

ツンデレ兄とそれに寄り添う弟の姿は、知っている人たちの間では有名ではあるけれど、その光景も、弟の就職から今となってはなかなか見られなくなってしまった。

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さて、そんな次男大好きツンデレ長男が、先日珍しくて面白い姿を見せてくれたと、長男が通う福祉事業所のスタッフさんから聞かせてもらった。

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最近、長男は仕事をめちゃくちゃ頑張っていて、その報酬として近くのスーパーに行き、大好物の「芋けんぴ」を買うことがある。

事業所に戻ったら、大きなボウルに芋けんぴの袋を開けて、豪快に食べるのが至福の時間となっているらしい。

 

そして、またある日「芋けんぴ」獲得のために仕事を頑張り抜いた長男は意気揚々とスーパーに行き、芋けんぴを探した。

ところが、ない、ない、ない・・・

その日はスーパーの「芋けんぴ」売り切れの日だったそうで。
すると長男の目からは涙が溢れ、シクシクと泣き出したと・・・。

 

え?そんな姿、見たことないぞ?
シクシク???

 

いや、そういえば一度だけ見たことがある。
それは、次男が難病のギランバレー症候群を乗り越えて初めての帰省。
そしてまた帰京する時、次男を見送る長男の姿がそれだった。

彼は確かに、本当に悲しそうにシクシクと泣いたんだった。

その時、最重度の知的障害のある兄が、弟のことを想って泣いたことに気付かされたんだった。

 

あれ?

 

その話をスタッフさんから聞いて、私は旦那に

「次男と芋けんぴが並んだぞ」

 

と言ったのでした。

旦那爆笑。

 

長男は、悲しい時は耳をつんざくような奇声を発したり、ウォーウォーと吠えるような野太い声を出したり、それと同時に泣きながら私たちに全身全霊でぶつかりながら訴えてくることがほとんど。

そんな時は、親も怪我がつきものであったりもする。

 

弟の時も驚いたけれど、こうして吹き出していた感情を自分の中に納めて、静かに泣くことができるようになったんだね。

 

なんとそれを、芋けんぴが教えてくれました。

 

さて、そんな長男のお話をスタッフさんから聞いたその日、我が家の晩御飯は芋天となりました。

次男大好きツンデレの、芋大好き長男は、その食事に満面の笑みで挑んでくれたのでした。

 

それからというもの、時と場合ではあるものの、悲しみを「シクシク」と泣きながら自分の中で収めようとする姿が見られるようになりました。

 

君の感じる悲しみも、君を成長させるひとつの感情だったんだね。

そのことは、忘れないでおこうと思う。

 

hisakokk.hatenablog.com

 

 

 

 

台風14号と息子の笑顔

台風はテレパシーを送る?

我が家の長男は昔から、遠い遠い洋上に台風が発生すると突然崩れ出すことが多く、それは今も変わりません。

奇声を発して泣き叫び、どうしていいのか分からず、親を叩き、引っ掻き、言葉を持たない声で訴えてきます。

明らかに苦しい中に、自分の身の置き場に困っている息子の思いを、ひたすら親は受け止めるしかないのです。

そんな夏の台風の季節は、なかなかなカオスな日々を送ったりするものです。

さて、そんな夏は今年もやってきましたが、今年は台風の数も多く、ヒヤヒヤな日々でありました。

そもそも、この状態になるのは「ウチの息子」くらいかと思っていたら、意外にも障害を持った子供たちには多いということを、長男が成人を果たした後に知ることとなります。

まぁ、話題としては「台風」がテーマになることもそうそうないわけですし。

考えてみると、台風で気圧が低く変化して、誰もがスウスウ吸っている空気がかき混ぜられ、見えない環境が強制的に作り上げられてしまうわけですから、そうなりますよね。

それにしても、発生直後にみんな「受け取っている」・・・。
台風のテレパシーを体で受信しているとしか思えません。

なんだか彼らは自然そのものの申し子ではないか? 
そんな話をしたことさえあるくらいです。

ただ、今年の台風はちょっと変わっている・・・そんな話を、私が音楽でボランティアをしている放課後等デイサービスの先生が話をされました。

放課後等デイサービスの先生のひとこと「今回の台風はみんな崩れないんですけど?」

私は、子供たちが自由に鳴らす楽器に即興でピアノを弾き、ワラワラとピアノに貼り付き出す子供たちとも一緒に、三重連弾、四重連弾で、音遊びをするボランティアをしています。

ある日のボランティアで訪れた放課後等デイサービスの日も、何号だったかの台風接近が報じられていました。

「今年は台風が多そうですね」という話をしている時に、先生が
「今回の台風ですけど、子供たちがなんか変なんですよね」とおっしゃる。

いつもなら崩れて泣いたり叫んだりする子たちが、全くそんなことがない。
むしろ笑ってたりするんだけど、今までと違うなって・・・。

笑ってるからと機嫌がいいとは限らないし、辛くて笑う子もいっぱいいるわけですが、今回の表出がいつもと違ってる、と気にされてました。

うん、いつも関わっている先生だからこそのセリフ。さすがです。

ところで、それは実は我が家もでした。
ワーワーと泣きながら訴えるところ、今回はどうやら睡眠障害にシフトしていたわけです。

泣いたり他害は起きなくても、寝てくれないんですね、これが。

親子で睡眠不足な日々を送りました。
まだ小さい頃は睡眠不足はテンプレだったのですが、今はその頃よりは全然寝てくれる。
久々の貫徹続き。

なにが起きているんですかね、自然はなにを企んでいるんでしょう・・・なんて、その先生との話になりました。

この子たちの変化を見ていると、富士山が爆発した時なんて、どんなテレパシーを受け取るのだろう・・・。
なんてことも思ったりします。

この子たちは、自然と共に自然に生きているんだな、とも。

そして「記録的台風」14号がやってきた!

そして「記録的台風」は昨夜上陸して来たのでした。

「大型」「勢力強い」「暴風」「大雨」「気圧が爆下がり」「類を見ない」という言葉連続の報道に、台風には慣れている九州といえど、誰もが少しでも被害を少なくしようと準備はしていたようで、それはSNSなどでも散見しました。

そんなに気圧が低いなら、地球自体が空に引っ張られるんだろうなぁ・・・などと考えつつ、さて君はどんな反応を見せるの?

そんな長男はというと、実は発生時は律儀にちゃんと崩れました。
けれどその後はすっかり落ち着いて、睡眠はバッチリ!
今のところは、穏やかに過ごせている。
いや、まだ吹き返しの強い現在「外に行こ〜♡」と誘ってくる。

今回は直撃を免れなかったのだけれど、動きが遅すぎて滞在時間が長い。
それも被害が大きくなる要因とも言われていたのだけれど、ちょうどこの上を通過中に台風の目に入ったようで、不気味に静かな長い時間を過ごしました。

そして今、台風は風の尾ヒレを大きく振りながら過ぎ去っているところです。

そして我が家の1号、長男は

今「外行こ〜♡」と言っている長男を見ながら、昔小学生だった長男が台風の日に外に飛び出し、見つけた時には大風大雨の中にブランコを180度に振って、満面の笑みで漕いでいたことを思い出しました。

あの日は長男は、ブランコからなかなか降りれずに、私はひたすら待ちましたが、親子でびしょ濡れになったのでした。
今は「懐かしい」と笑いながら話せるようになりました。

親子で成長したんやないかな?なんて・・・。

父が仕方ないと腰を上げました。
「遠くには行けないよ、でも、お父さんと近くのスーパーに買い物に行こう」
満面の笑みの長男。

さて、二人の買い物の間に、母は晩御飯の用意をすると致しましょう。



老いと壊れゆく身体に「将来」と言える時間が短いことを教えられる

「50代でしょ?なんでこんなに手が痛んでるのかなぁ・・・」

「それはですね・・・」

私は、先生にその理由を話したのでした・・・。

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私の右手の親指の付け根は、何年も掛けて、もうすでに何度もステロイドを入れています。

痛くなったからすぐに病院に行ける、なんてことは、なかなか難しい。

特に長男が養護学校に行っていた時代は、幼稚園バスより早く帰るので、病院に行く時間など捻出できる訳もない。

 

これは重度障害者の親の「あるある」で、たとえ高熱が出ても、子供がいると何が起こるかわからないので、ゆっくり寝ての養生はまず諦めます。

最終手段は旦那に仕事から帰ってきてもらうしかないけれど、そのカードはなるべく使わないようにしていたので、あまり褒められないけれど、ど根性みたいな「我慢」という癖みたいなものが身についてしまっていました。

 

自分が体調を崩してしまい、子供を学校に送る事もできなくなった時、ヘルパーさんを使って送迎ができればいいのだけれど、ヘルパーさんへの依頼は、家から出発して必ず家が終点でなければならず、家から出発して学校が終点は許されていないのです。

 

こういうルールは「助ける」ことよりも「不正に使う可能性」の方を重く考えて作られているので、確かに理由を誤魔化して面倒な送迎をしてもらうなんて使い方の人もいるのかもしれないけれど、そんなひと握りの人を想定してルールを縛っていることで、本当にピンチの時に「なんで使えないんだーーー!」と叫びたくなります。

 

まぁ、ルールはルールです。もちろん、守っています。

だから、病院に行くとして学校の迎えの時間に間に合わなかったらいけないと、受診を諦めたり、もし通院となると、もっとややこしくなるからと行かないという選択になります。

 

こうして「根性」の上に「根性」は積み重なっていくわけで。

 

卒業しての現在、通所している事業所は訳を話せば、急なお願いでも預かってもらえます。

今は日中一時というサービスも利用できるので、学校時代よりは随分楽です。

何より、困ったときは必ず言ってほしい!と声をかけてもらえることで、心が軽くなるのです。

 

息子ももう30歳。

そんなこんなで、私の体も息子と共に頑張ってくれています。

ただ「ガタが来る」というのは、こういうことなんだと、ここ最近は痛感しています。

 

数年前から膝が痛く、遂にヒアルロン酸を注射する治療に踏み切りました。

ただ、なかなか長男のいない時間での予約時間がうまく取れなくて、遂に挫折しました。

その後、まぁ何とか普通に歩けるので「よし」としています。

 

ただ、やはり走るのは厳しくなりました。

足の速い長男を、昔のように急スタートダッシュの全速力で追いかけるのは、さすがにもうできません。

 

その後、両手に痛みがあって、それも誤魔化しながら過ごしていました。
でも、どうしても我慢できなくなって物もつかみ辛くなると、ステロイド注射で痛み止めを繰り返していました。

 

そして今回も遂に物がつかめなくなって、物を手から落としてしまうなんてことがしょっ中になってしまいました。

それまでは右手に注射をお願いしていましたが、今回は左手。

 

今回受診した病院の先生は、私の両手のレントゲンを見てこう言いました。

「50代でしょ?なんでこんなに手が痛んでるのかなぁ・・・」

 

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私は先生に話しました。

 

車の通りの多い道路で寝転んで動かない長男を、力ずくで剥がして連れて帰り、玄関からリビングに入った途端に私の体は弛緩を起こして全く動けなくなってしまったこと。

 

パニックを起こして物を壊しまくり、床に尖った破片が散らばったとき、私はその破片を踏みながら、長男が踏んで怪我しないように、そして長男の手を握りしめて「わかったから、もうおしまいだよ!」と叫んでいたこと。

 

先生は驚いて「そうだったの・・・」とひと言おっしゃいました。

 

本当は、私の手はこうして長男の命を守ってきたと思っています。

人は長男の行動を「他害」と呼ぶけれど、本当は「訴え」の行動であること。
体全体で、解ってほしいと全力でぶつかってくる長男を、この手は全力で受け止めていました。

 

今になって、頑張った体は悲鳴を上げ始めています。

けれど、全力で受け止めたのは長男の問題行動だけではないのです。

 

言葉を持たない長男の、辛さも、悲しみも、わかってほしいという想いも。

私の50代と思えないほど痛んでしまった手も、長男の想いを知っています。


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私の体は、長男の想いを受け止めたまま、老いと共に壊れていくのでしょう。
それはもう、仕方のないことと思っています。

ただ、長男のために使える時間がとても短くなっていることを、身をもって知らされています。

 

長男の将来のためにこうしたい、という想いがあっても、私の将来がもう短いのです。

だからこそ、急がなければならない。

 

そしてこれからは我慢を減らし、日々を健康に過ごしながら、限られた自分の将来を精一杯使っていけたら……。

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骨もひどく変形していて、もう両手のCM関節炎は治してあげられないけれど、腱鞘炎は治せるから、しっかり治療しましょうね。

 

そう先生が優しく言ってくださいました。

今回は色々諦めることなく、ちゃんと治そうと思います。

 

長男との将来が、少しでも長くなるように。

そう願いながら。

 

 

次男の背中を見送る(次男の旅立ち)

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続きです。

 

卒業式が済むと、街は一気に桜が咲き誇り、全ての人たちに「これから」の背中を押しているかのように見えました。

春とはそんな季節なのですね。
これまであまり考えたことはありませんでした。


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学生時代にはマンションに洗濯機が置けなかったので、念願かなっての設置です。

職場では入職前から野球も始めたので、なくてはならない家電になりました。


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引っ越し先は今までのような学生街ではなく、ファミリー層の多い地域になります。

街の雰囲気は随分と違いますが、学生は卒業したので、今の配属ではこの地で頑張っていかなければなりません。

 

駅近には食堂もあり、客層もサラリーマン風の人たち、そして常連さんたちが多い感じでした。

商店街もあり、買い物や食べる場所はありそうなので、困ることはなさそうです。

母の東京滞在最後の日、やっと丸一日空いた次男と一緒に、最強運を頂きに神社に参拝に向かうことにしました。

 

街中とはいえその景色を眺めながら、のんびりとした道中を楽しむことができました。

橋の欄干にもこんな物語が語られていて、きっとこの街をいつも通る人は気にもしないであろう風情を楽しませてもらいました。

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そして、最強の神様にお会いすることができました。

ここは銭洗弁天さんが有名らしいのですが、母はこの東京で、この先も頑張ることを決めた次男のこれからをお願いしてきました。

 

これからもこの街で。

次男のことを何卒よろしくお願いいたします。


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最強の神様に次男の健康と運を託し、再度地下鉄に向かい、これまで住んでいた文京区のマンションの最寄駅で降りました。

 

そこから、次男が暮らしていた街の景色の中をのんびり歩きました。

階段の多い細い道を下り、入り組んだ道を歩きながら、よく立ち寄った場所、惣菜など買った店、銭湯、さまざまな思い出話も聞けました。

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街には開発も入っていて、また街の様子も変わっていくことでしょう。

 

実はこの地は、旦那も学生時代から社会人に至るまで住んでいたところです。

新しい街の中に懐かしい場所を見つけることで、きっと父親と同じように、次男も懐かしむ時が来るのでしょう。


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道路さえ桜の花びらでピンクに染まっています。

それを見ると、季節はどんどん先に向かっていることを感じます。

先へ先へ。進んでいかなければならない。

 

これからの次男に、心の中でエールを送ることしかできませんが、こうして親元を離れ、自らの生活の基盤を作っていくのです。

 

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まるでスノーシュガーを振りかけられたような道路で、花びらをかき集めて掃除をする方がいました。

天気も悪いので、貼り付いた花びらに作業が大変だろうとは慮りながら、なかなか圧巻なスノーシュガーの道に感動すらしてしまいました。


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大学だけで論文を書いていると気が滅入るので、場所を変えて書いていたんだけれど、ここによくお世話になったんだ、と次男。

 

コーヒーが苦手な次男は、コーヒー屋さんのコメダコーヒーで、コーヒー以外の飲み物にわずかな時間の癒しをもらっていたようです。


そして、パソコンを開いて朝の時間をここで過ごしたのだとか。


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次男はいつものコーヒー以外のオーダーと、母はしっかりコーヒーを頂き、大学での出来事やいろんな話を聞くことができました。

 

田舎から東京に出て6年、たくましくなったものです。

いつの間にか自立の道を進んでいました。

 

重い障害の長男の自立は、現実的な高い壁のため険しく、親の努力はもちろんのこと、多くの人たちの力を借りなければ実現はできません。

 

そのために親は必死で動いているわけですが、一方で次男は、知らない間に自分で自立を成し遂げようとしていました。

 

小さい頃から、長男の影でいつも何事もひとりでできるようになっていた次男。

こうして自分の力で巣立っていくことに、嬉しい思いの反面、寂しくもあるのです。

 

母の東京での最後の晩御飯は、次男おすすめの一品。
いろんな思いも混じっての、複雑で大変美味しい晩御飯でした。


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翌日は、次男の出勤初日となりました。
母は新居にて次男を玄関で見送りました。

 

ひとつのお役目が終わった気持ちです。

まだまだ新人ですが、親元から旅立ったと言ってもよいでしょう。

 

これまでよく頑張ったので、これからも頑張るでしょう。そういう性格なので。

自分の楽しみも見つけているようなので、充実した日々を送ってほしいものです。

 

ただ、親はいつまでも子供の味方です。
何かがあった時は、いつでも駆けつけるつもりです。

 

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次男を見送った後、荷物をまとめ、部屋を掃除して次男の新居を後にしました。

 

さて、長男の待つ我が家にお土産を買って帰ります。

いつの日か自立の道が実現して、親である私たちは心配や心残りもなく、安心して長男を残して普通に死ねる日を迎えるために、これからも頑張らなければ。

 

まだまだ親道は続きます。

リハビリの道を歩く(次男の旅立ち)

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前回からの続き。

 

次男が大学4年生の時、発症したギランバレー症候群。
寝たきりから何とか歩けるまでに回復した後、退院してからも心配な症状は続いていました。

 

頼りない足取り、瓶の蓋すらまだ開けられない状態からの退院。
それでも、日常の動作から回復を目指すことが、入院を続けるよりも精神的に負担が少なく回復も早いという病院側の判断からでした。

 

いや、何より次男自身の「帰りたい」という気持ちが大きかったのです。

 

確かにそれから、日常の中で暮らしに支障がないくらいに回復をしていくのですが、退院後は体が固まらないように、おぼつかない足取りでリハビリと称して散歩を日課としました。

 

あの日々を思い出しながら、今回はひとりの散歩です。

 

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護国寺

次男と歩いていた頃は、猫がたくさんいるお寺と聞いていましたが、その通りに何匹かの猫さんたちと遭遇しました。

いやほんと、あちらこちらに自由人、いや、猫たちが・・・。

 

(あの時の猫たち↓)

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自由な方達(猫)とまた会えることを期待しつつ、このお寺の守護神様たちに通行許可を得るために、ぺこりと頭を下げて、仁王門をくぐらせていただきました。


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通りま〜す。


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ぺこり。


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当時はこの階段も難関でした。
ゆっくり倒れないように、一段ずつ登ったのでした。


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けれど、慎重に登りつつも思ったよりスムーズに階段を登る様子に、病院でのリハビリを頑張ったんだなぁと実感したのでした。

 

そうして不老門をくぐると観音堂が。
これからの子供たちが、健やかで過ごせるようにお願いしました。


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ところで、階段を上がる前から思ってはいたのですが、あの自由な方達の姿が全く見えません。

どこで自由行動をしているのでしょう。

 

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その代わり、桜の花たちが迎えてくれたのでした。


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天気が悪いので、新緑の青さが写真ではわからないのが残念です。

それでも、目には美しい若い緑の木々の葉が、次男のこれからに希望をくれているようで、なんだか嬉しくなったのでした。


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お大仏様、あの自由な方達は何処に・・・?


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どこにも姿が見えません。


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ここには六地蔵さまや身代わり地蔵さまをはじめ、多くのお地蔵さまがいらっしゃいます。

その中の「一言地蔵さま」は、一言だけ願いを叶えて下さるとのことで、当時は子供たちが健康であるようにお願いしたのでした。

 

今回は本殿でその願いを主張してきたのですが、お地蔵さまには次男が病を克服したこと、無事に大学院を卒業したことを報告し、お礼をお伝えしました。

 

ちなみに、次男は何度お地蔵さまにお願いをしたかわからん・・・と言うとりました。
どんだけ他力本願なん?(笑)


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大仏さまと多宝塔、その間に咲き乱れる桜がなんとも綺麗でした。
あとは晴れてたらよかったんやけどなぁ・・・。


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しだれ桜が見事で、カメラ小僧ならぬカメラおじさん達に囲まれて、モデルばりの活躍を見せていました。

たくさんの綺麗な桜たちの写真が、そのカメラマンたちによって世に出たことでしょう。

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白い桜の花と


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ピンクの桜の花たちが


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すっかり私を癒してくれました。


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下界には春になった東京の街。
田舎者の私には、眩しい限り。
この街で次男は暮らしていたのだと、しみじみとした感情が湧きました。


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あの時も、次男と覗き込んで「金色だ、金色だ!」と盛り上がった手洗い水盤。
今回もしっかり覗着込んで、心の中で「金色だ!」と一人盛り上がりました。

しかしこの手洗い水盤、自噴式で湧水を利用しているというから驚きです。


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さて、再び仁王門をくぐってここを出ます。
あの日々を思い出すには充分の場所でした。
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結局、自由な方達とは一度もお目にかかれず。
おかげで、また訪れなければと、なんだか次回持ち越し的な感覚で護国寺を後にしたのでした。


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この街は緩やかな坂も多く、階段も多い。


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細く入り組んだ道が、リハビリ散歩をさらに面白くしてくれていました。


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病院では何度も階段の上り下りの訓練をして、疲れ果ててベッドで眠っていた次男ですが、確かに坂道と階段の多いこの街には、自然とリハビリができてしまう日常があったのです。


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病院の階段でのリハビリをするという目的よりも、郵便局に行くため、買い物に行くため、その目的のために、この街並みに普通にある階段を昇り降りすることの方が「精神的によい」と言われたことは、確かに間違っていなかったと思うのです。

 


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こんなに面白い街並みがそばにあったこと。


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生活感のある空気の中で、こんな風景を愛しみながら次男は過ごしたのでしょう。

 

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この街を離れることが寂しいと言った次男。
散歩していると、それがとても解る気がするのです。

 

次男を受け入れてくれたこの街に感謝しながら、そろそろ新居に戻るために地下鉄へ。

このお話、もう少し続きます。

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